夏休みはそのまま過ぎていった。何かが大きく変わったあとのはずなのに、日々は案外静かで、気づけばお盆になっていた。見舞いに行った帰り、父さんと俺はじいちゃんの家に寄っていた。
顔を上げると、写真の中の母さんはいつも通り穏やかに笑っている。その笑い方が懐かしくて、遠かった。
仏壇の前で線香をあげて色々報告していると、窓の外から遠いひぐらしの声が聞こえて、父さんがそれにあわせるように静かに言う。
「……母さんさ」
「うん」
「歌えなくなっても、歌を嫌いにはならなかったんだよ」
「……うん」
返事をすると、線香の煙も頷くようにゆっくり揺れる。
「凪の歌、母さんも聞いたかもしれないね」
「どうかな」
「だから、もしかしたら」
父さんはそこで言葉を止めて微笑んだ。続けようとして、言い方を選び直したみたいだった。
「……ちゃんと届いてると思うよ」
言葉の端だけが残って、意味だけがどこかに抜け落ちたみたいだったけど、その意味は遅れて胸に落ちてきた。
「それに、向こうなら、また歌えてるかもしれないし」
線香の煙が、そろりそろりと上がっていく。俺は煙の行き先を目で追いながら、呟くともなしに呟いた。
「……だったらいいな」
そのあとは、父さんも俺も何も言わず、穏やかに微笑む母さんに、そっと手を合わせた。ひぐらしの声が遠く聴こえる。夏はまだ続いているはずなのに、最初に感じたほどの長さはもうなかった。
「家に着いたら遅くなるし、ご飯食べて帰ろう」
「うん」
シャッターを閉めてさっと車に乗り込んだが、まだ線香の匂いがしている。ほんのり海の匂いと混ざって不思議な残り方をしていた。
「凪、何食べたい?」
「あんま浮かばないから父さん決めて」
そう丸投げすると、父さんは「えぇ~」と言いながらも、「実は気になってる店があるんだよね」とスマホをすいすい操作している。
「父さん」
「ん? 何か食べたいもの浮かんだ?」
「いや……ちょっと海見たいかもって、思って」
「いいよ。じゃあ浜に行ってからご飯食べよう」
父さんがエンジンをかけ、海へとハンドルを切った。ナビの画面だけが青白く光る車内で、俺は窓に額をつけ、流れていく街灯の橙を目で追う。
やがてアスファルトが細って松の枝が車の屋根をかすめ、砂地の駐車場でじゃりじゃり音を立てながらタイヤが止まった。エンジンが切れると、辺りはしんとしている。ドアを開けると潮の匂いが夜ごと押し寄せてくる。父さんは靴を脱がなかったけど、俺はサンダルを脱いで素足になった。
月が出ていた。
湿った空気の中で、光は薄い金色に滲んでいた。海面に引かれた道はどこか温かみのある色で揺れている。波が寄せるたびにその道は乱れて、凪ぐを繰り返していた。潮が満ちる音が、ゆっくりと砂を撫でている。
俺はしばらく、その道の先がどこへ続いているのか考える。
父さんは少し後ろに立ったまま、何も言わない。耳を澄ましているようだった。
ふと、遠くで何かが揺れた気がした。波の音に紛れて、ほんの一瞬だけ耳がそちらへ引かれる。
気のせいだと思えばそれで済むくらいの曖昧さだった。それでも、どこかで誰かが歌っているような気がした。
それからの数日も、思っていたより静かだった。
母の歌の件が落ち着いてからは、時間はあっさり元の速さに戻った。特別なことは何も起きない一日が、そのまま一日として流れていく。
夏休みはまだまだだと思っていたのに、気づけばもう終盤である。その間に、何度か自分の声を確かめた。喉の震える位置も、徐々に覚えてきている。まだ慣れないけど、前みたいに嫌だなと思うことはなくなっていた。
「姉さん、起きてからちょっと変なんだよ」
「……変って?」
お盆明けに伊織に誘われファミレスで宿題をしながら話していると、雑談が急に不穏になる。
伊織のトーンは暗くないけど、目覚めたあとに何か残っているのか。また何かあったのかと身構えてしまう。
「あ! いやいや、悪い意味じゃなくて!」
一気に不安になったところで、伊織が急いで訂正に入る。
「なんか、変にすっきりしてるというか。『二ヶ月も寝てたから頑張らないと』って」
「なんだよ……紛らわしい」
「ごめんごめん。でも姉さん、前みたいな感じじゃなくて」
「前みたいな?」
「追い詰められてる感じは、あんまりない。前を向いてる」
「そっか」
そう返すと、知らないうちに入っていた肩の力が抜けていた。
お姉さんが追い詰められていた現実は、一度切れている。それがいい方に作用してるのかもしれない。思いつめる原因が完全に消えたわけでも、なくなったわけでもないけど、途切れていた時間の先に繋がるように、現実はそのまま続いていた。
「そう。元気そうならよかったよ」
みんな少しずつ元に戻っていく。そういう流れの中に、俺ももう一度入っていくんだろう。置いていかれていた時間に、ようやく追いついたのかもしれない。
「うん……それで、あのさ……親が……凪にお礼を言いたいから会えないか、って……」
「え」
「『絶対言え』って言われたから言ってるだけだよ! 断っていいよ。俺もちょっと嫌だし。それでね……」
「え、何これ」
伊織は紙袋を俺に差し出す。今日はなんだか荷物多いなと思っていたら、まさかうち宛だったとは。勢いに圧されて受け取った紙袋は、やけにきちんとしていて、中も綺麗に包まれた箱が入っている。
「親から。これも気にしなくていい……けど受け取ってほしい」
「いや、いいのに……」
「持っていかないなら、連れてこいって余計うるさくなるからさ……」
「そうなんだ……」
もう一度、手の中の紙袋に目を落とす。紙袋は二重で、内側にもシワひとつない。こういう細かいところまで整っているところが、高瀬家の空気をなんとなく想像させた。
伊織も色々と気を使うことが多そうだとぼんやり思っていると、伊織は嫌そうな顔をして肩をすくめた。
「――ってわけで」
「なるほどね。分かった」
帰って開けた箱の中には、美味しそうな焼き菓子が並んでいた。端には小さなカードが一枚入っている。
『伊織が大変お世話になっております。直接お礼をお伝えしたいので、よかったらぜひ遊びに来てください』
丁寧な字でそう書かれている。
「きちんとしてるね」
箱を開けて確認してから父さんは頷いて、包みを元に戻す。俺は父さんに目線を向けた。
「……どうしよう?」
「行ってもいいし、無理に行かなくてもいいとも思うよ。お礼の電話は父さんがしとく」
父さんはそう言って、それ以上は何も続けなかった。
顔を上げると、写真の中の母さんはいつも通り穏やかに笑っている。その笑い方が懐かしくて、遠かった。
仏壇の前で線香をあげて色々報告していると、窓の外から遠いひぐらしの声が聞こえて、父さんがそれにあわせるように静かに言う。
「……母さんさ」
「うん」
「歌えなくなっても、歌を嫌いにはならなかったんだよ」
「……うん」
返事をすると、線香の煙も頷くようにゆっくり揺れる。
「凪の歌、母さんも聞いたかもしれないね」
「どうかな」
「だから、もしかしたら」
父さんはそこで言葉を止めて微笑んだ。続けようとして、言い方を選び直したみたいだった。
「……ちゃんと届いてると思うよ」
言葉の端だけが残って、意味だけがどこかに抜け落ちたみたいだったけど、その意味は遅れて胸に落ちてきた。
「それに、向こうなら、また歌えてるかもしれないし」
線香の煙が、そろりそろりと上がっていく。俺は煙の行き先を目で追いながら、呟くともなしに呟いた。
「……だったらいいな」
そのあとは、父さんも俺も何も言わず、穏やかに微笑む母さんに、そっと手を合わせた。ひぐらしの声が遠く聴こえる。夏はまだ続いているはずなのに、最初に感じたほどの長さはもうなかった。
「家に着いたら遅くなるし、ご飯食べて帰ろう」
「うん」
シャッターを閉めてさっと車に乗り込んだが、まだ線香の匂いがしている。ほんのり海の匂いと混ざって不思議な残り方をしていた。
「凪、何食べたい?」
「あんま浮かばないから父さん決めて」
そう丸投げすると、父さんは「えぇ~」と言いながらも、「実は気になってる店があるんだよね」とスマホをすいすい操作している。
「父さん」
「ん? 何か食べたいもの浮かんだ?」
「いや……ちょっと海見たいかもって、思って」
「いいよ。じゃあ浜に行ってからご飯食べよう」
父さんがエンジンをかけ、海へとハンドルを切った。ナビの画面だけが青白く光る車内で、俺は窓に額をつけ、流れていく街灯の橙を目で追う。
やがてアスファルトが細って松の枝が車の屋根をかすめ、砂地の駐車場でじゃりじゃり音を立てながらタイヤが止まった。エンジンが切れると、辺りはしんとしている。ドアを開けると潮の匂いが夜ごと押し寄せてくる。父さんは靴を脱がなかったけど、俺はサンダルを脱いで素足になった。
月が出ていた。
湿った空気の中で、光は薄い金色に滲んでいた。海面に引かれた道はどこか温かみのある色で揺れている。波が寄せるたびにその道は乱れて、凪ぐを繰り返していた。潮が満ちる音が、ゆっくりと砂を撫でている。
俺はしばらく、その道の先がどこへ続いているのか考える。
父さんは少し後ろに立ったまま、何も言わない。耳を澄ましているようだった。
ふと、遠くで何かが揺れた気がした。波の音に紛れて、ほんの一瞬だけ耳がそちらへ引かれる。
気のせいだと思えばそれで済むくらいの曖昧さだった。それでも、どこかで誰かが歌っているような気がした。
それからの数日も、思っていたより静かだった。
母の歌の件が落ち着いてからは、時間はあっさり元の速さに戻った。特別なことは何も起きない一日が、そのまま一日として流れていく。
夏休みはまだまだだと思っていたのに、気づけばもう終盤である。その間に、何度か自分の声を確かめた。喉の震える位置も、徐々に覚えてきている。まだ慣れないけど、前みたいに嫌だなと思うことはなくなっていた。
「姉さん、起きてからちょっと変なんだよ」
「……変って?」
お盆明けに伊織に誘われファミレスで宿題をしながら話していると、雑談が急に不穏になる。
伊織のトーンは暗くないけど、目覚めたあとに何か残っているのか。また何かあったのかと身構えてしまう。
「あ! いやいや、悪い意味じゃなくて!」
一気に不安になったところで、伊織が急いで訂正に入る。
「なんか、変にすっきりしてるというか。『二ヶ月も寝てたから頑張らないと』って」
「なんだよ……紛らわしい」
「ごめんごめん。でも姉さん、前みたいな感じじゃなくて」
「前みたいな?」
「追い詰められてる感じは、あんまりない。前を向いてる」
「そっか」
そう返すと、知らないうちに入っていた肩の力が抜けていた。
お姉さんが追い詰められていた現実は、一度切れている。それがいい方に作用してるのかもしれない。思いつめる原因が完全に消えたわけでも、なくなったわけでもないけど、途切れていた時間の先に繋がるように、現実はそのまま続いていた。
「そう。元気そうならよかったよ」
みんな少しずつ元に戻っていく。そういう流れの中に、俺ももう一度入っていくんだろう。置いていかれていた時間に、ようやく追いついたのかもしれない。
「うん……それで、あのさ……親が……凪にお礼を言いたいから会えないか、って……」
「え」
「『絶対言え』って言われたから言ってるだけだよ! 断っていいよ。俺もちょっと嫌だし。それでね……」
「え、何これ」
伊織は紙袋を俺に差し出す。今日はなんだか荷物多いなと思っていたら、まさかうち宛だったとは。勢いに圧されて受け取った紙袋は、やけにきちんとしていて、中も綺麗に包まれた箱が入っている。
「親から。これも気にしなくていい……けど受け取ってほしい」
「いや、いいのに……」
「持っていかないなら、連れてこいって余計うるさくなるからさ……」
「そうなんだ……」
もう一度、手の中の紙袋に目を落とす。紙袋は二重で、内側にもシワひとつない。こういう細かいところまで整っているところが、高瀬家の空気をなんとなく想像させた。
伊織も色々と気を使うことが多そうだとぼんやり思っていると、伊織は嫌そうな顔をして肩をすくめた。
「――ってわけで」
「なるほどね。分かった」
帰って開けた箱の中には、美味しそうな焼き菓子が並んでいた。端には小さなカードが一枚入っている。
『伊織が大変お世話になっております。直接お礼をお伝えしたいので、よかったらぜひ遊びに来てください』
丁寧な字でそう書かれている。
「きちんとしてるね」
箱を開けて確認してから父さんは頷いて、包みを元に戻す。俺は父さんに目線を向けた。
「……どうしよう?」
「行ってもいいし、無理に行かなくてもいいとも思うよ。お礼の電話は父さんがしとく」
父さんはそう言って、それ以上は何も続けなかった。
