セイレーンは朝を歌う

 そんな重さを抱えたまま外へ出たのに、海は驚くほど明るい。明るすぎて、さっき聞いた話の方が嘘みたいに思えるくらいだった。
 白く乾いた砂の上に、午後の陽光が容赦なく降り注いでいる。沖の方では海面がきらきらと砕けるように光っている。砂浜の人影は案外まばらで、遠くに家族連れがひとつ、パラソルを立てているのが見えるくらいだった。波に打ち上げられた流木が斜めになって刺さり、コンビニの袋も半分砂に埋もれ、はためいている。
 岸さんの店からの帰り道、俺たちはせっかくだからと海に降り、裸足になって白い泡の縁をわざと踏むようにして歩いていた。
「気持ちいいね!」
「頭と足の温度差ヤバい」
 波の音に負けないように声を出す。歌うのも久しぶりだったけど、こんなに大声で喋るのも、もうどれくらいぶりだろう。それが可笑しくて波の音に紛れるように小さく笑った。
 海と空の境目が滲んで、Tシャツの肩や腕が陽光で白く飛んでいる。俺たちの影だけが、濡れた砂の上に短く落ちていた。
「ねえ、凪」
「なに?」
 波が引いたあと、砂の上に細い泡の線だけが残る。伊織は前を歩きながら、こちらを振り返った。
「岸さんはああ言ってたけど、凪のお母さんの歌もさ、俺はもう大丈夫だと思うよ」
「なんで? ずっと残ってて、止められないのに」
「うーん……例えばだけど」
 足元の砂の中で、何かが光った。
「これ。危ないよね」
 伊織はそう言って、砂に半分埋もれていたガラス片を拾い上げる。ほんとに危ないなと思って見ていると、伊織は当たり前みたいに鞄から小さな袋を出して、それを中に入れた。真面目である。
「でも、海に漂うと、こうなる」
 伊織がもう一つ何かを拾って、俺の手のひらに乗せた。
 思ったより軽いそれはシーグラスだった。元は瓶の欠片だったのだろうが、角という角が波に削られ、もうどこにも尖ったところがない。
 光に翳すと空色に近い淡さで透ける。指の腹で撫でると、しっとり冷たくて気持ちがいい。母さんが集めていたシーグラスの瓶を思い出した。
「割れたガラスもさ、海にいるうちに丸くなる。あの歌もそんな感じなんじゃないかな」
「そう……かな」
「そうだよ。凪のお母さんの歌、俺はもう怖いだけの歌だとは思わないし」
 伊織はさっきまで歩いていた砂浜を見ながら言った。
「だって、凪の声と同じくらい、綺麗だったし」
 伊織はそう言ってから、気負いなく笑った。
 何の気なしの伊織の言葉。反芻したらもう駄目だった。耳の付け根が熱い。言った本人は前を向いて歩いていて、とっくに次の景色を見ている。
 ずるいと思ったけど、声には出なかった。出るわけがなかった。誤魔化すようにうつむくと、波が足元の砂をさらって、また満ちていた。
「そろそろ行こうか」という言葉になんとか頷いて、シーグラスをポケットにしまって歩き始める。
 たとえあの歌がまだどこかを漂っているとしても、時間の中で形は変わっていく。このシーグラスみたいに、いつか丸くなって光の方へ流れ着くのかもしれない。
 きっとそうだと約束するように、俺はポケットの中のシーグラスを、そっと撫でた。
「危ないだろ」
「大丈夫、大丈夫」
 夏の午後の光が、水平線のあたりで白く溶けている。砂浜からは離れたのに、唇の端からは微かに塩の味がした。
 伊織は両腕を水平に広げ、視線をまっすぐ前に向けたままパラペットの上を歩いている。下で砕ける波音なんて聞こえていないと言わんばかりに、足取りには迷いがない。
 俺はちょっと呆れながら、海に負けないくらいきらきらした目ではしゃぐ伊織の横顔を見上げていた。
 でも多分、これが本来の伊織なんだ。
 伊織は礼儀正しかったけど、出会った時から必死で、ずっと切羽詰まっていた。お姉さんが目覚めたことで解放されたのだろう。
 陽射しを正面から受けた伊織の輪郭は、白く飛んでいる。汗で額に張りついた前髪の一筋が、風で揺れた。つま先を縁に沿って一歩、また一歩と置いていく。
 コンクリートの縁に乗ったスニーカーのソールと水平線。まるで伊織が空と海の間を歩いているように見えた。入道雲の白と、どこまでも続く青。波が護岸を叩く音だけが、規則正しく繰り返されている。
「あのさ、凪」
「何だよ」
「姉さんが目を覚ました理由……さっきの岸さんたちの話も、たぶんその通りなんだろうけど」
「うん」
「でも俺は、それだけじゃないと思う」
「どういうこと?」
 伊織は足を止めた。波が護岸を叩いて、白い飛沫が小さく散る。
「声を出すのが怖いって言ってた凪が、勇気を出して歌ったからじゃないかなって、俺は思う」
「……何それ。なんの根拠もないじゃん」
「うん。でも、きっとそうだよ。俺はそう思う」
 波がまた護岸を叩いた。
「……くっさ……」
「ひっど!」
 真っ直ぐな伊織の言葉が恥ずかしくて、俺はまたうつむいてしまう。視界に映るのは自分のサンダルと、アスファルトの継ぎ目だけだ。照り返しの熱にやられたように頬が熱いので、きっと赤くなっている。伊織には、絶対に見せたくない。でも、そう言ってもらえて、悪い気は全くしていない。言葉は胸の奥に静かに残った。
 思わず目を逸らして、もう一度砂浜を見ると、そっと波が寄って、砂の上をゆっくり引いていく。
 声を出して笑っていられる時間が、思っていたよりも長く続いている。
 だからこそ、気づいた。夏休みはもうそんなに残っていない。このまま終わるだけでいいのかと、考えかけてやめた。
 海は静かに、夕方の色へと移り始めていた。
 その余韻のまま、伊織と別れて帰り道に出た。母さんの歌はまだスマホの中にある。イヤホンを取り出したけど、結局再生はしなかった。代わりに何も流さないまま歩いてみる。
 信号の音。車の音。人の声。
 その中に自分の声を小さく混ぜてみる。聞かせるためじゃなく、ただ確かめるみたいに、周りの音の中へ自分の声を置いてみる。
 声は一瞬だけ浮いた。けれど思っていたほどではなく、すぐに周りの音に紛れていった。完全に同じにはならない。それでも前みたいに弾かれはしなかった。もう一度声を出すと、さっきよりもっと自然に出た。
 無理に何かを変えなくても、ちゃんと前とは違っている。それが分かっただけで、今日はそれで十分だった。