セイレーンは朝を歌う

 その何かを抱えたままドアを開けると、病室はあいかわらず静かだった。機械の音だけが一定の間隔で鳴っている。何も起きないことが積み重なっていく、その間の沈黙がやけに長く感じられた。
 白いシーツの上で、伊織のお姉さんも変わらず眠っている。呼吸はある。けれどこちら側に戻ってきている気配はどこにもない。
 このままでも、生きてはいけるのかもしれない。
 喉の奥が、わずかに乾く。録音を流すより先に、生で歌うのは俺の提案だ。お姉さんが
 俺の声に反応していたのは、たぶん気のせいじゃなかった。だから、先に試したかった。
 なのでそう言ってみたものの、声が出なかったり途中で詰まったらどうしようと思う。笑われるわけじゃないのに、さっき歌えたはずなのに、また急に怖くなっていた。
 ――凪の歌、聴きたいな
 白い部屋に午後の光。
「凪は悪くないよ」
 あの時の母の声が、はっきりと蘇る。
「お母さんもね、歌ってって言われて、歌えない気持ち、分かるから」
 あの言葉を、俺はずっと母の優しさだと思っていた。でも今は、それだけじゃなかった。歌えない場所に立ったことのある人の言葉だったのかもしれない。
 母さんは歌えなくなったから、俺を責めなかった。俺は歌えなくて、願いを叶えてあげられないまま、母さんはいなくなってしまった。
 母さんの時みたいに、歌えなかったらどうしよう。
 もし、このままの方がいいのだとしたら。
 もし、この歌が――
「……凪」
 伊織が握っているお姉さんの手は、遠目にも白くて、触れたらひやりとしそうだった。手の中で、紙がわずかに鳴る。自分の指先の動きだけが、やけに大きく感じられた。
 そうだ。目の前にはまだ、間に合う人がいる。
 選ばないという選択だけはなかった。岸さんの店で歌った時、確かにあった音はまだ自分の中に残っている。完璧じゃなくても、これを持ったまま歌えばいい。
 俺が歌っても何も変わらないかもしれない。でも、それでもいいのだと胸の奥に落とし直した。ここで黙れば何も変わらないまま終わる。そのことだけは、もう嫌というほど分かっていた。
 一度だけ、浅く息を吸い込んだ。つっかえたものをそのまま押し出すと、最初の音は思っていたよりも小さく出た。それでも確かな音になって、声が部屋の中に満ちていく。
 お姉さんの呼吸がかすかに揺れた。閉じた瞼の下で、何かが追いつこうとするみたいに僅かに動く。握られたままの指先も、ごく小さく応えるように震えた。思わず息を止めそうになって、こらえた。ここで止めたら、また同じところに戻ってしまう。
 言葉をひとつずつ重ねていく。
 お姉さんの呼吸に合わせるみたいに、少しだけ間をずらす。音は決まっているはずなのに、その場で形が変わっていく。
 震えていても、揺れていても、それでも止まらなかった。

 ゆれながらでいい

 喉の奥の引っかかりはまだ消えていない。それでもさっきよりは遠くなっている。
 誰かのために歌っているのかは分からない。それでも止まらなかった。

 そのままでいい

 声がまた震えた。言葉ははっきりしているのに、意味より先に何かが届く。途切れそうだけどちゃんと繋がっていく。

 途切れそうでも 進めばいい

 機械の音だけが、同じ間隔で続いている。
 何も変わっていないようにも見えるけれど、さっきまでとは、同じではなかった。
 そこから先は、もう考えていなかった。
 ゆれながらでもいい。それでも前に進んでいく。
 Silent Tideと同じ旋律を静かになぞると、病室の空気がゆっくりと整っていく。お姉さんの呼吸が歌に寄り添うように落ち着き、モニターの波形がわずかに揃う。その整い方に、前にも見た気配が重なった。
 次のフレーズ。何度も書き直した言葉。
 ()を描くように繰り返していた旋律が少しだけ上がる。沈む方向ではなく、浮かぶ方向へ。

 沈まないで 泡沫のままでいい
 消えそうでも 光のほうへ

 静かに引いたまま動かない潮。
 そう名前をつけられた歌がゆっくりと動き始める。深く息を吸うと、喉の奥が熱かった。
 あの時は歌えなかったけれど今は歌える。変だと笑われた高さのまま、歌い続ける。

 水の中の泡沫が、言葉になる

 その瞬間だった。歌の途中で声がひっくり返った。
 痛みはないのに、薄いひびが入るみたいに揺れて、そのまま落ちた。次の音は低い位置で鳴った。自分でも知らない響きだった。自分の外側にあった声が、急に身体の内へ落ちてきたみたいだった。今までの声とは違っていたけれど、戸惑いを置き去りにしたまま歌い続ける。カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
 環から外れていくように、巡る夜を閉じて音が終わる。
 歌い終わったそのあとは、モニターの電子音だけが静かに鳴り、カーテンがやわらかく光っている。その中で、自分の声が消えたあとの静けさを感じていた。
 静寂のなかで、お姉さんの呼吸も瞼もモニターの波形も、ゆっくり揺れる。指が動き、途切れるようにふっと止まる。伊織が息を呑んで、握った手を緩めた。
「……」
 伊織はすぐには声を出せなかった。本当かどうかと確かめるみたいに、息だけが止まっていた。
「……姉さん?」
 お姉さんの瞼がわずかに震え、一度止まってからゆっくりと開いた。焦点の合わない目が宙をさまよう短い時間が、やけに長く感じられた。お姉さんは少しずつ戻ってくるように視線を動かし、ようやく伊織の方を見た。
「……いお、り……」
「……姉さん……!」
「わたし……寝てた……」
「うん……おはよう、姉さん」
 伊織はまた、お姉さんの手を強く握り締めていた。
「…………ひどい顔」
 お姉さんは笑うとまではいかないけれど、かすかに口の端を上げて、小さくそう呟く。
 よかった。本当に、よかった。
 俺はようやく息を吐いた。
 その時になって初めて、胸のあたりに落ちている音の震えみたいなものに気づく。確かめるように、小さく声を出してみる。
「……低……」
「凪……声が」
 自分の声が遠くから聞こえる。
 ハッとした伊織がナースコールを鳴らすと、感傷に浸る間もなく医師と看護師が慌ただしく出入りして、確認の声が続いた。お姉さんの意識ははっきりしているらしい。看護師がまた慌ただしく伊織に状況を確認し、出ていく。俺はそのやり取りを少し離れたところで見ていた。
 さっきまで確かに鳴っていた旋律は、もうどこにもない。頭の中は凪いだように静かなのに、歌の余韻だけがまだ至るところに残っていた。喉に手を当てると、やっぱり前とは違う位置で震えている。
「凪……」
 伊織がこちらを向いた。何かを言おうとして、言葉が上手く出てこない顔だった。
 検査をするからと俺と伊織は一度外に出された。伊織は両親に連絡取ったあと、廊下の壁にもたれたまま。両手で顔を覆っている。ずるずると壁に線を引くようにしゃがみ込んでしまった。
「伊織」
 大丈夫かと聞く前に伊織は顔を上げた。何度か浅く息を繰り返して、目はなみなみと潤んでいた。
「……起きた」
「うん」
 言いながら、確かめているみたいだった。うまく現実に触れられていないまま、言葉だけが先に零れている。
「目、覚ました……」
「うん……」
 起こったことが本当なのか、分かっているけど確かめるみたいに、伊織は涙と一緒にもう一度言葉を零した。俺はその度短い返事をして頷く。伊織がひとしきり零したあとは、沈黙が落ちる。
「凪……」
 伊織は俺の名前を口にしたものの、途切れてしまう。声になり損ねた言葉がまた濡れていく。
「ありがとう」
 それでも何とかといった様子で伊織は礼を言う。やっぱりまっすぐすぎて、少しだけ痛い。俺は思わず視線を逸らした。
「……俺だけじゃない。岸さんや橋本さんのおかげ。そもそも伊織がお姉さんのためにずっと頑張ったからだ」
 でも伊織は首を振った。
「違う。凪が、俺の話を聞いてくれて、協力してくれて……歌ってくれたから」
 そう言い切られると逃げ場がない。観念して「どういたしまして」と返すと、伊織は笑った。
「……声、変わったね」
 からかいではない、柔らかい笑い。俺も同じように、小さく息を吐いて笑った。まだ変わり始めだけど、今までの高さはもう出ないだろう。
「今の声も、いいね」
 言葉の意味を測りかけて止めた。
「前の声も、今の声も、どっちも凪だよ」
 あの電車の中の言葉が、静かに重なる。
 "凪が俺の名前にそう思ったのと、俺が凪の声に思ったことは、多分同じだよ"
 胸の奥が、じわりと熱くなる。
「……伊織」
 奥から押し出されるように名前を呼べば、伊織は一度だけ目を上げて、それから笑った。
「なに?」
「……別に」
 言葉は続かない。でも、続かなくてよかった。
 ふと顔を上げると、窓の外はいつの間にか夕方の色をしていた。夜が来る前の、静かでやわらかい光。
 もう歌は聞こえない。自分の呼吸だけがはっきりしていた。