次の日も、その次の日も岸さんの店に通った。同じ席に座ってノートを開く。書いては消して、残して、並べ替える。同じところを何度もなぞって、歌って、止めて、また最初からやり直す。
それでも書いているのに、考えている感じがしない。ノートを最初に見た時の感覚に、少しだけ似ていた。
上手くいく時もあれば、詰まる時もある。
昨日は最後まで通ったのに、今日は同じところで一瞬だけ迷う。逆にさっきまで詰まっていたところが、突然抜けることもあった。家に帰ってからも録音しては聴き返した。イヤホン越しに流れる声は、段々整ってきている。何度も録って聴き返すうちに、違和感は減っていった。
録音した声を聞き返すたび安定はしてきたけれど、今度は母さんの声がどこかに残っている気がしてならない。
それでも旋律は、Silent Tideの流れを残しながら、少しずつ形を変えていった。
「――凪くん、いけそう?」
「いや……」
俺はノートのことを一瞬だけ思い出して、そのまま意識から外した。ここまで来ても、まだ見せていない。
伊織にああは言ったものの、やっぱりこのまま歌っていいのか分からない。マイクの前に立つ直前で、急に足が止まる。
「凪、どうした?」
「……伊織」
「ん?」
呼んでおきながら、言葉も手も止まってしまう。俺は迷いながらノートを開き、伊織に差し出した。このまま歌うこともできる。でもそれだと足りないと思った。
「これ」
なんとかそれだけを言えば、伊織は受け取って目を落とす。
「……」
伊織は何も言わない。やっぱりやめればよかったとそわそわし始めたところで、伊織がそっと息をついた。
「……いいね」
「何が」
反射的にぶっきらぼうになってしまったけど、伊織に気にした様子はない。
「先に進んでるって感じがする」
先に進んでる。それはノートを見て言っているのか、俺を見て言っているのか、よく分からない。
「それ、こないだも言った」
「いや、だってそうだもん……音楽的なことはそんなに分かんないし、上手く言えないけど、ひとつだけ言えることがあるよ」
何を言われるのかと期待半分怖さ半分で待っていると、伊織はにっと笑った。
「これを凪が歌うのが、楽しみ」
伊織はそれだけ言って、ノートを返してくる。その時、紙の端ごと指先が触れて、心臓が一瞬跳ねた。
伊織は余計なことは何も言わない。でも、それで十分だった。
マイクの前に立つと周りの気配が一度途切れた。ガラスを一枚隔てただけなのに、別の場所みたいに遠くて、急にひとりぼっちになったように思えた。ヘッドホンの中は静かで、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。静寂の中、一度だけ言葉を飲み込んだ。喉に手を当てると震えている。歌えないわけじゃない。ただ、最初の一音を出した瞬間、戻れなくなる。
目を閉じかけ、なんとか奮い立たせて顔を上げると、ガラスの向こうに伊織が見える。声は聞こえない。でも何かを口にしている。心配そうだけど、表情は明るい。きっと何か優しい言葉を言っているのだろう。はっきり分からなくても、それだけで十分だった。
光の方へ、引いてくれる。
「おーい凪くん! 始めるよー」
「はい」
ヘッドホンの向こうで、カウントが小さく刻まれ、伴奏が小さく流れ始めた。
最初の一音を出すまでがやけに長く感じる。入るタイミングは分かっているのに、喉がわずかに遅れて、伴奏だけが一瞬先に進む。その一瞬のずれに、置いていかれそうになって、慌てて息を吸い直した。
声を出した瞬間、喉の奥の引っかかりがほどけていく。ポケットの中で指先が探るように動く。旋律をなぞるみたいに、無意識にリズムを取っていた。
音は前に進んでいく。
録音が終わったあと、すぐに動く気にはなれなかった。
ヘッドホンを外しても、さっきまでの音が、自分のどこかに残っている。耳じゃなくて、もっと内側にじんわり染み入るように、広がっているみたいだ。
ドアを開けると、外の空気は静かだった。
「……」
特に伊織は完全に固まっていて、瞬きを忘れた目がずっと俺に向いている。さっきまでの音の余韻を、まだ見ているかのようだった。
「……何。なんか言ってよ」
「いや、あの……ちょっと待って、今の」
「……伊織?」
「うん。思ってたより、ずっとちゃんと歌になってた……うわ……」
「伊織、どうした?」
「いや……こんな……前に俺歌ったの、今さらめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……」
「本当によかったのに」
「嘘だぁ」
岸さんと橋本さんは顔を見合わせて、何かを確かめるみたいにしばらく黙り、それから同時に笑った。
「いや! 本当によかったよ、凪くん!!」
「あ、ありがとうございます……?」
岸さんは身を乗り出すようにして言いかけて、こちらの引いてる様子に気づき、わざとらしく咳払いをした。
「ごめんごめん……そういえばさ、minamiとは季節の挨拶くらいしかやり取りしてなかったんだけど、実は一度だけ会ったんだよね」
「え……?」
「その時、『子どもが歌が好きで、楽しそうに歌うんだ』って嬉しそうに言ってた。『自分は歌えなくなったし、歌も聞けなくなったけど、子どもが歌ってるのを見るのは好きなの』って」
「……」
母さんは祖母のために歌った。でも、その歌は人を眠らせるものになってしまった。祈りだったはずの歌が、祈りのままではいられなかった。でも、今はその祈りがそっと、俺の背中を押してくれる。
歌は、本当に泡沫みたいだ。口から離れた瞬間に、どこかへ消えていく。さっきまで確かにあったはずの音は、この場所のどこにもない。
それでも消えたはずの何かは、体の奥に確かに残っていた。
それでも書いているのに、考えている感じがしない。ノートを最初に見た時の感覚に、少しだけ似ていた。
上手くいく時もあれば、詰まる時もある。
昨日は最後まで通ったのに、今日は同じところで一瞬だけ迷う。逆にさっきまで詰まっていたところが、突然抜けることもあった。家に帰ってからも録音しては聴き返した。イヤホン越しに流れる声は、段々整ってきている。何度も録って聴き返すうちに、違和感は減っていった。
録音した声を聞き返すたび安定はしてきたけれど、今度は母さんの声がどこかに残っている気がしてならない。
それでも旋律は、Silent Tideの流れを残しながら、少しずつ形を変えていった。
「――凪くん、いけそう?」
「いや……」
俺はノートのことを一瞬だけ思い出して、そのまま意識から外した。ここまで来ても、まだ見せていない。
伊織にああは言ったものの、やっぱりこのまま歌っていいのか分からない。マイクの前に立つ直前で、急に足が止まる。
「凪、どうした?」
「……伊織」
「ん?」
呼んでおきながら、言葉も手も止まってしまう。俺は迷いながらノートを開き、伊織に差し出した。このまま歌うこともできる。でもそれだと足りないと思った。
「これ」
なんとかそれだけを言えば、伊織は受け取って目を落とす。
「……」
伊織は何も言わない。やっぱりやめればよかったとそわそわし始めたところで、伊織がそっと息をついた。
「……いいね」
「何が」
反射的にぶっきらぼうになってしまったけど、伊織に気にした様子はない。
「先に進んでるって感じがする」
先に進んでる。それはノートを見て言っているのか、俺を見て言っているのか、よく分からない。
「それ、こないだも言った」
「いや、だってそうだもん……音楽的なことはそんなに分かんないし、上手く言えないけど、ひとつだけ言えることがあるよ」
何を言われるのかと期待半分怖さ半分で待っていると、伊織はにっと笑った。
「これを凪が歌うのが、楽しみ」
伊織はそれだけ言って、ノートを返してくる。その時、紙の端ごと指先が触れて、心臓が一瞬跳ねた。
伊織は余計なことは何も言わない。でも、それで十分だった。
マイクの前に立つと周りの気配が一度途切れた。ガラスを一枚隔てただけなのに、別の場所みたいに遠くて、急にひとりぼっちになったように思えた。ヘッドホンの中は静かで、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。静寂の中、一度だけ言葉を飲み込んだ。喉に手を当てると震えている。歌えないわけじゃない。ただ、最初の一音を出した瞬間、戻れなくなる。
目を閉じかけ、なんとか奮い立たせて顔を上げると、ガラスの向こうに伊織が見える。声は聞こえない。でも何かを口にしている。心配そうだけど、表情は明るい。きっと何か優しい言葉を言っているのだろう。はっきり分からなくても、それだけで十分だった。
光の方へ、引いてくれる。
「おーい凪くん! 始めるよー」
「はい」
ヘッドホンの向こうで、カウントが小さく刻まれ、伴奏が小さく流れ始めた。
最初の一音を出すまでがやけに長く感じる。入るタイミングは分かっているのに、喉がわずかに遅れて、伴奏だけが一瞬先に進む。その一瞬のずれに、置いていかれそうになって、慌てて息を吸い直した。
声を出した瞬間、喉の奥の引っかかりがほどけていく。ポケットの中で指先が探るように動く。旋律をなぞるみたいに、無意識にリズムを取っていた。
音は前に進んでいく。
録音が終わったあと、すぐに動く気にはなれなかった。
ヘッドホンを外しても、さっきまでの音が、自分のどこかに残っている。耳じゃなくて、もっと内側にじんわり染み入るように、広がっているみたいだ。
ドアを開けると、外の空気は静かだった。
「……」
特に伊織は完全に固まっていて、瞬きを忘れた目がずっと俺に向いている。さっきまでの音の余韻を、まだ見ているかのようだった。
「……何。なんか言ってよ」
「いや、あの……ちょっと待って、今の」
「……伊織?」
「うん。思ってたより、ずっとちゃんと歌になってた……うわ……」
「伊織、どうした?」
「いや……こんな……前に俺歌ったの、今さらめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……」
「本当によかったのに」
「嘘だぁ」
岸さんと橋本さんは顔を見合わせて、何かを確かめるみたいにしばらく黙り、それから同時に笑った。
「いや! 本当によかったよ、凪くん!!」
「あ、ありがとうございます……?」
岸さんは身を乗り出すようにして言いかけて、こちらの引いてる様子に気づき、わざとらしく咳払いをした。
「ごめんごめん……そういえばさ、minamiとは季節の挨拶くらいしかやり取りしてなかったんだけど、実は一度だけ会ったんだよね」
「え……?」
「その時、『子どもが歌が好きで、楽しそうに歌うんだ』って嬉しそうに言ってた。『自分は歌えなくなったし、歌も聞けなくなったけど、子どもが歌ってるのを見るのは好きなの』って」
「……」
母さんは祖母のために歌った。でも、その歌は人を眠らせるものになってしまった。祈りだったはずの歌が、祈りのままではいられなかった。でも、今はその祈りがそっと、俺の背中を押してくれる。
歌は、本当に泡沫みたいだ。口から離れた瞬間に、どこかへ消えていく。さっきまで確かにあったはずの音は、この場所のどこにもない。
それでも消えたはずの何かは、体の奥に確かに残っていた。
