とはいえ、歌にするには言葉が足りない。書いても書いても何かがしっくりこない。残す、削る、並べるの繰り返し。
今日は伊織が用事で来れなくて、俺はひとりで岸さんの店に来て唸りながら机に向かっていた。せっかく入れてくれたジュースの氷もすっかり溶けてしまっている。
「苦戦してるなぁ……どれどれ」
岸さんはノートを覗き込み、首を傾けた。
「ここ、順番変えていい?」
返事を待たずに行を入れ替える。さっきまで引っかかっていた場所が、何でもなかったみたいに繋がる。
「音、先に来てるね」
そう言われて、なるほどと思った。自分では言葉を直しているつもりだったけど、探していたのは最初から音の流れの方だったのかもしれない。紙の上を指でなぞり、均しきらないまま整えていく。
「凪くん、全部揃えなくていいから。残すとこ、整えるとこ、分けていこう」
「……はい」
「minamiの歌に引っ張られすぎないで。整音してないけど、ちょっと新しい音で流してみるから」
「え」
何だと思う間もなく再生ボタンが押され、スピーカーから音が出てくる。岸さんはマウスをカチカチ操作しながら調整している。トラックが並んだ画面には色とりどりのブロックが積み重なっていた。これが旋律の正体らしい。
「……いつ作ったんですか」
「んー? 凪くんに最初の歌詞見せてもらってすぐ」
「すごい……」
「これで食べてるからね。それにSilent Tideってベースがあるし」
そうだとしてもこんな短期間でと思った。すごいとしか言えない。マウスがまた動き、音の一部が消える。岸さんは聴かせながら直していた。
俺はただ座ったまま、流れてくる新しい旋律を受け取り、追いつくために言葉を置いていった。でも、前に進んでいるのだけは分かった。
「――歌、結構進んだんだって?」
「え」
「俺には見せてくれないんだ」
責めるほどではないけど、拗ねたみたいな言い方だった。
「……別に、そういうわけじゃ」
「ふぅん」
嘘だ。見せるのを避けているのはその通りなので、言い訳のしようもない。けれど本気で責めているわけではないらしく、目だけが柔らかく笑っていた。
店を出て少し歩いたところで、ふと思い出して口を開く。
「……そういえばさ」
「ん?」
「俺、学校、あんまり行ってないんだよね」
言うタイミングがなかっただけで、隠していたわけじゃない。でも何となく、言っておかないとって思った。
伊織は一瞬だけ言葉を探すみたいに視線を泳がせて、それからいつも通りの顔に戻る。
「うん」
沈黙のあいだを縫うように、車が一台脇を通り過ぎていく。
「ちょっと、そんな感じはしてた」
それだけだった。それ以上は何も聞かないという、距離の取り方だった。俺たちはいつも通り歩き続けた。信号待ちで足が止まると、さっきまでの話も一緒に途切れた。そのタイミングで伊織の指が宙で軽く動く。いつもの癖だ。
「にしても岸さんノリノリだったね」
「方向が決まったのはいいけど、音程取るのが結構難しくて……」
叩くものがなくても出るんだな、と思いながら見ていると、「やってみる?」と高瀬がこちらを向いた。
「何を」
「合わせるの」
「指を?」
「うん。裏拍というか、拍がちょっと独特だから難しいのかも」
「裏拍……」
よく分からないが、言われるままに、同じ間隔で指を叩いた。最初は遅れて外れてしまう。
「もっかい」
今度は揃った。合った瞬間、軽く跳ねる感覚があって嬉しくなる。
「そうそう、そんな感じ……あ、信号変わった」
揃ったところで信号が変わり、俺たちはまた歩き出す。
「……なあ、伊織」
歩きながら、ずっと思っていたこと。それを俺はようやく口にできた。
「もし……もし……さ、歌って、何も変わらなかったら……どうする」
「別にいいんじゃない」
「いや、よくないだろ」
伊織はすぐには答えなかった。でも、迷っているというより、言葉を選んでいるだけみたいだった。
「でも、凪が歌わないと、もっとよくないよ」
「何で」
「俺が眠りかけた時、凪の声で起きた」
「あれは歌を止めたからだろ」
「ううん、あれは凪が呼んでくれたからだと思う」
伊織は迷いなく言い切る。何の根拠があってと言ってやりたいが、あまりにまっすぐ過ぎて何にも言い返せない。
「それにさ、俺、凪が歌うの楽しみなんだ……姉さんにはちょっと悪いなって思うけどね」
「……じゃあ、聴いてよ」
俺がそう言って、自分の逃げ場を塞ぐと、伊織は「もちろん」と言って笑っていた。
「俺が歌うの、楽しみ……か」
その言葉は、夜になっても頭から離れなかった。自分で新しい逃げ道を作ってしまわないうちに歌う練習をしなくてはと、スマホのカメラを立ち上げる。
赤丸のボタンを押すと、途端に何を歌えばいいのか分からなくなり、思わず唾を飲んだ。喉が乾いているのに、声だけ出さなきゃいけない気がして、さっきまで頭の中にあったはずの言葉や旋律が、急に遠のいていく。
それでもなんとか無理やり一音出し、通して歌ってみたけどすぐに再生することはできなかった。
俺は画面を見つめたまま、一度ロックして開き直す。それでも再生ボタンの上でまた指先が止まった。
何度か指を浮かせてようやく再生をタップすると、イヤホンの奥から声が流れ出す。
――こんな声、だったっけ。
思っていた以上に高くて知らない人の声みたいだった。自分の声なのに、離れたところから聞こえてくる。自信のなさがそのまま滲んでいて、最後まで歌えてはいるのに、聴いていると居たたまれなくなる。一応最後までは歌えてはいるけど、音も揺れて不安定で聴いているのが辛い。
それでも迷いながら聴いているうちに、最後の音が消えてイヤホンの中が静かになる。
そのままもう一度再生すると、さっきと同じ声が流れる。やっぱり違和感はあるし、人になんか聴かせられたもんじゃない。
でも、自分の中では一度目より引っかからない。声に慣れ始めていた。
だって最近、こんな風に途切れずに進む音を聞いた。
同じ形を繰り返していたはずなのに、少しずつ前に進んでいく音。揺れながらでも止まらなかった、それがぼんやりと重なっていく。
「……よし」
自分に言い聞かせるみたいに呟き、赤丸のボタンを押す前に、「凪、もう一回」という昔の声だけが一瞬浮かんで、指先が止まった。
「……うん、もう一回」
返事をするように頷いて、もう一度録音をタップする。
次に出た言葉と音は、さっきよりもはっきり滑らかだ。同じところをなぞっているけど、音の収まり方が違う。声はやっぱり頼りない。でも、今度は前に進ませようとしていた。
今日は伊織が用事で来れなくて、俺はひとりで岸さんの店に来て唸りながら机に向かっていた。せっかく入れてくれたジュースの氷もすっかり溶けてしまっている。
「苦戦してるなぁ……どれどれ」
岸さんはノートを覗き込み、首を傾けた。
「ここ、順番変えていい?」
返事を待たずに行を入れ替える。さっきまで引っかかっていた場所が、何でもなかったみたいに繋がる。
「音、先に来てるね」
そう言われて、なるほどと思った。自分では言葉を直しているつもりだったけど、探していたのは最初から音の流れの方だったのかもしれない。紙の上を指でなぞり、均しきらないまま整えていく。
「凪くん、全部揃えなくていいから。残すとこ、整えるとこ、分けていこう」
「……はい」
「minamiの歌に引っ張られすぎないで。整音してないけど、ちょっと新しい音で流してみるから」
「え」
何だと思う間もなく再生ボタンが押され、スピーカーから音が出てくる。岸さんはマウスをカチカチ操作しながら調整している。トラックが並んだ画面には色とりどりのブロックが積み重なっていた。これが旋律の正体らしい。
「……いつ作ったんですか」
「んー? 凪くんに最初の歌詞見せてもらってすぐ」
「すごい……」
「これで食べてるからね。それにSilent Tideってベースがあるし」
そうだとしてもこんな短期間でと思った。すごいとしか言えない。マウスがまた動き、音の一部が消える。岸さんは聴かせながら直していた。
俺はただ座ったまま、流れてくる新しい旋律を受け取り、追いつくために言葉を置いていった。でも、前に進んでいるのだけは分かった。
「――歌、結構進んだんだって?」
「え」
「俺には見せてくれないんだ」
責めるほどではないけど、拗ねたみたいな言い方だった。
「……別に、そういうわけじゃ」
「ふぅん」
嘘だ。見せるのを避けているのはその通りなので、言い訳のしようもない。けれど本気で責めているわけではないらしく、目だけが柔らかく笑っていた。
店を出て少し歩いたところで、ふと思い出して口を開く。
「……そういえばさ」
「ん?」
「俺、学校、あんまり行ってないんだよね」
言うタイミングがなかっただけで、隠していたわけじゃない。でも何となく、言っておかないとって思った。
伊織は一瞬だけ言葉を探すみたいに視線を泳がせて、それからいつも通りの顔に戻る。
「うん」
沈黙のあいだを縫うように、車が一台脇を通り過ぎていく。
「ちょっと、そんな感じはしてた」
それだけだった。それ以上は何も聞かないという、距離の取り方だった。俺たちはいつも通り歩き続けた。信号待ちで足が止まると、さっきまでの話も一緒に途切れた。そのタイミングで伊織の指が宙で軽く動く。いつもの癖だ。
「にしても岸さんノリノリだったね」
「方向が決まったのはいいけど、音程取るのが結構難しくて……」
叩くものがなくても出るんだな、と思いながら見ていると、「やってみる?」と高瀬がこちらを向いた。
「何を」
「合わせるの」
「指を?」
「うん。裏拍というか、拍がちょっと独特だから難しいのかも」
「裏拍……」
よく分からないが、言われるままに、同じ間隔で指を叩いた。最初は遅れて外れてしまう。
「もっかい」
今度は揃った。合った瞬間、軽く跳ねる感覚があって嬉しくなる。
「そうそう、そんな感じ……あ、信号変わった」
揃ったところで信号が変わり、俺たちはまた歩き出す。
「……なあ、伊織」
歩きながら、ずっと思っていたこと。それを俺はようやく口にできた。
「もし……もし……さ、歌って、何も変わらなかったら……どうする」
「別にいいんじゃない」
「いや、よくないだろ」
伊織はすぐには答えなかった。でも、迷っているというより、言葉を選んでいるだけみたいだった。
「でも、凪が歌わないと、もっとよくないよ」
「何で」
「俺が眠りかけた時、凪の声で起きた」
「あれは歌を止めたからだろ」
「ううん、あれは凪が呼んでくれたからだと思う」
伊織は迷いなく言い切る。何の根拠があってと言ってやりたいが、あまりにまっすぐ過ぎて何にも言い返せない。
「それにさ、俺、凪が歌うの楽しみなんだ……姉さんにはちょっと悪いなって思うけどね」
「……じゃあ、聴いてよ」
俺がそう言って、自分の逃げ場を塞ぐと、伊織は「もちろん」と言って笑っていた。
「俺が歌うの、楽しみ……か」
その言葉は、夜になっても頭から離れなかった。自分で新しい逃げ道を作ってしまわないうちに歌う練習をしなくてはと、スマホのカメラを立ち上げる。
赤丸のボタンを押すと、途端に何を歌えばいいのか分からなくなり、思わず唾を飲んだ。喉が乾いているのに、声だけ出さなきゃいけない気がして、さっきまで頭の中にあったはずの言葉や旋律が、急に遠のいていく。
それでもなんとか無理やり一音出し、通して歌ってみたけどすぐに再生することはできなかった。
俺は画面を見つめたまま、一度ロックして開き直す。それでも再生ボタンの上でまた指先が止まった。
何度か指を浮かせてようやく再生をタップすると、イヤホンの奥から声が流れ出す。
――こんな声、だったっけ。
思っていた以上に高くて知らない人の声みたいだった。自分の声なのに、離れたところから聞こえてくる。自信のなさがそのまま滲んでいて、最後まで歌えてはいるのに、聴いていると居たたまれなくなる。一応最後までは歌えてはいるけど、音も揺れて不安定で聴いているのが辛い。
それでも迷いながら聴いているうちに、最後の音が消えてイヤホンの中が静かになる。
そのままもう一度再生すると、さっきと同じ声が流れる。やっぱり違和感はあるし、人になんか聴かせられたもんじゃない。
でも、自分の中では一度目より引っかからない。声に慣れ始めていた。
だって最近、こんな風に途切れずに進む音を聞いた。
同じ形を繰り返していたはずなのに、少しずつ前に進んでいく音。揺れながらでも止まらなかった、それがぼんやりと重なっていく。
「……よし」
自分に言い聞かせるみたいに呟き、赤丸のボタンを押す前に、「凪、もう一回」という昔の声だけが一瞬浮かんで、指先が止まった。
「……うん、もう一回」
返事をするように頷いて、もう一度録音をタップする。
次に出た言葉と音は、さっきよりもはっきり滑らかだ。同じところをなぞっているけど、音の収まり方が違う。声はやっぱり頼りない。でも、今度は前に進ませようとしていた。
