セイレーンは朝を歌う


「おはよう」
「おはよう。今日は早いね」
 朝、父さんが珍しく同じ時間に台所にいた。コーヒーを飲みながら、新聞を読んでいた目をこちらに向ける。
「焼けたね」
 それだけ言ってまた新聞に視線を落とす。カップの音と、換気扇の低い音があとに続いた。
「……うん」
 自分では気づいていなかったところを、不意に触れられた気がした。
「気をつけてね」
「うん」
 父さんは新聞をたたみ、カップを流しに置いた。
 俺は行ってらっしゃいと手を振って、焼けたパンを一口かじった。
 歌詞って、きれいな言葉をそのまま並べればいいんだと思っていた。旋律の流れをなぞるように言葉を置けば、自然と続きになる。母さんのノートを読んで、ずっとそう思っていた。
 でも、いざ声に出してみると、どこかで止まる。
「……違う」
 小さく呟いて、ペンで一行消す。もう一度口に出して、また止まる。言葉が悪いのか、音が悪いのか、それともその両方なのか。自分でも分からないけど、書いても書いても最後まで続かず、何かが引っかかって前に出てこない。
 もう一度書き直して、今度は言葉を崩してみる。意味がきれいに繋がらなくてもいいから、とにかく声に乗る形にしよう。
 それでもやっぱり、途中で引っかかった。何度か繰り返すうちに、ノートの同じ場所に消し跡が増えていく。書いては消して、また書いては消す。その繰り返しだった。
 岸さんの店の奥、小さなスピーカーからは何度も途中で途切れた旋律が流れている。さっきから同じところで止まってばかりだ。その間ずっと、伊織は隣で黙って聞いていた。
「……ちょっと、歌ってみていい?」
「え?」
 昨日のこと、怒ってないんだろうか。遠慮がちに言ったそれに、俺が戸惑いながら頷くと、伊織は小さく息を吸って、さっき書いたばかりの部分だけを途切れ途切れに歌った。
「……こんな感じ?」
「うん」
 頷きながらも、どこか引っかかる。何となく繋がりきっていない。
「なんか……さっきより続きそうな感じはある」
「うん。でも、途中で少しだけ浮くっていうか……」
「分かる。どこか噛み合ってない」
 二人とも上手く言葉にはできない。それでも、同じ場所で引っかかっているけれど感覚は一緒だった。それで十分、正解なように思った。「何か違う」としか分からなかったものに、「これかもしれない」が混ざるだけで、先へ進める。
「……そこだけ、変えてみる」
「違う」というほどじゃない。まだ繋がっていないだけだ。その感覚を頼りにもう一度書き直す。きれいにしようとしたら止まる。今度はまず書き切ることだけを考えよう。雑なくらいでいい。とにかく最後まで行く。
 ひとつ書いて、口に出す。やっぱりどこか引っかかるけど、さっきよりは続く。言葉を崩して、音に乗るかどうかだけを見る。意味はあとでいい。
 そう繰り返しながら書いた言葉は途切れなかった。書き上げた言葉を、声に出さずに頭の中でなぞる。
 これが正しいのか自分でも分からないけど、少なくとも引っかかる部分はさっきより少ない。言葉と音が噛み合っている。ぴたりとではないけど、途中で止まらず最後まで流れていく。
「……あ」
 何が変わったのかは分からない。でも、さっきまでとは違う。掴んだこの感覚を逃したくなかった。
「……もう一回だけ、いい?」
 伊織は小さく頷いて、同じところからもう一度口ずさんだ。
「……うん。さっきより、ちゃんと繋がってる」
 その一言で、腑に落ちた。喉の奥で引っかかっていたものが、すとんと落ちた気がした。
「……これかも」
 確信というほどじゃないしまだ荒い。でも、さっきよりは近い。眠りへ落ちていく歌だったものが、どこかで目覚めへ向かう形に変わっていく。
店を出たあと、海沿いの道を二人で歩く。潮の匂いが風に混じり、夜のはじめの匂いもする。見慣れ始めた海は昼間の賑やかさが嘘のように静かだった。
「……ちょっと、座っていい?」
 俺は返事を待つことなく、コンクリートの縁に手をついて、ひょいと腰を乗せた。ざらついた打ちっぱなしの感触が布越しにも伝わってくる。両脚をぶらりと海側に垂らし、踵でパラペットの壁面をぼんやりと蹴った。潮の匂いを含んだ風が前髪を揺らす。視線の先では海がゆっくりと呼吸するように揺れていた。
 伊織は何も言わずに隣に同じように腰を下ろした。触れそうで触れない距離がちょうどよくて、すぐにそれ以上は気にならなくなった。
 膝上で広げたノートの上、ペンが止まる。
 何も書けていないのに、頭の中はやけに明るかった。
 図書館の前のベンチ、蝉の声が途切れずに降っている。揺れる木の葉の隙間からこぼれた光が、自分の上でゆっくり形を変えていた。その揺れを追っていると、伊織と見た海が浮かぶ。眩しいのにどこか静かで、波だけが同じ間隔で繰り返している。水面には、光が散っていた。
 ……沈んでいくんじゃなくて、留まるのでもなくて、上にある光。
 手を伸ばせば届きそうで、でも触れたら消えてしまいそうな光。
 ――ああ。
 ペン先が紙に触れた。浮かんだままの言葉をそのまま書きつける。

 沈まないで 泡沫のままでいい
 消えそうでも 光のほうへ

 書いた直後、そのままちょっとだけ引いてノートを見下ろした。さっきまで頭の中にあったものが、そのまま紙の上に残っている。落ち着かなくなって、思わずノートを閉じかけて止める。
「なんか書けた?」
「……いや、まだ」
 反射的にそう返して、ノートを自分の方へ引き寄せ閉じた。
 伊織はそれ以上は何も言わない。ただ、視線はノートに向けたまま。これはバレてる。
「……ちょっとだけ、見てもいい?」
「嫌だ」
 間髪入れずに答えてから、自分でも言い方がきつかったと思う。少しだけ間違えた感触が残った。
「……ごめん」
「ううん。でもさ、さっきの凪の顔、ちょっと違ったよ」
「え?」
 謝って終わるかと思ったのに、伊織は続けた。
「先に進んだっていうか……そんな感じがする」
 伊織はノートから視線を俺に戻してそう言った。それだけで、さっき書いた言葉たちが少しだけ肯定された気がした。