セイレーンは朝を歌う

 何かが届く心当たりはない。出るかどうか迷っていると、催促するようにもう一度インターホンが鳴る。
「……はいはい……」
 勧誘だろうかとモニターを覗くと、映っていたのは若い男だった。背は高そうだが、着ている服が学校の制服っぽい。整った顔をしているのに表情は暗くて、余裕がなさそうに見える。さっきまでの夏休みの空気とは、明らかに別の空気をまとっていた。
 しばらく画面を見ていたが、向こうはじっと待っていて動きそうにない。俺は仕方なく通話ボタンを押して声を出した。
「……はい」
 すると画面の中の男は動きを止め、何かを確かめるみたいにこちらを見ている。相手から俺は見えないはずなのに、息を殺してしまう。
 インターホンの向こうで言葉が途切れた。男はまるで探していたものに、ようやく手が届いたみたいな顔をして鞄を握り直し、深く息を吸ってから口を開いた。
「……突然すみません。篠原さんのお宅でしょうか」
 画面に寄って来た男の声はやっぱりどこか切羽詰まっていて、焦りが混じっている。
「……どちら様ですか」
「俺、高瀬といいます。あの……青井 美波(あおい みなみ)さんに、お話があってきました」
「……母さん?」
「お母さん? 青井美波さんの、娘さんですか?」
 予想外の要件だったとはいえ、完全に余計なことを言った。母さんは去年病気で亡くなった。今頃訪ねてくるなんて、しかも母さんを旧姓で呼ぶとか本当に誰だ。あと俺は娘じゃない。しかし相手にこれ以上余計な情報を与えないよう反論はぐっと我慢した。
「……確かに母の名前は美波ですが、苗字は青井じゃありません」
「二十年前の情報だから、旧姓だと思います」
 おっしゃる通りであるが、俺と年の変わらなさそうな男が旧姓の母さんを訪ねてくるなんて、一体何の用だ。さすがに浮気相手とかはないだろうが……「実は美波さんの息子なんです」とか言い出したらどうしよう。いやいやまさか。ドラマじゃあるまいし。
「……母さんに何の用ですか」
 怪しさ満点の男への警戒で声が硬くなる。けれど相手に気にした様子はなく……いや、気にする余裕がないと言った方が正しい気がする。焦りの正体が分からなくて、首筋にうっすら汗が滲む。
 質問に対し、高瀬は何度か口を開いては閉じてを繰り返し、最後にもう一度唇を結んでから、意を決したように再び口を開いた。
「……あなたのお母さん、昔、歌手として歌っていましたよね」
「……は?」
「CDアルバムを、一枚だけ出しているはずで……それを貸してほしいんです。店もフリマアプリもオークションも探したけど、どこにもなくて。本人なら持ってるんじゃないかと……!」
 歌。CDアルバム。母さんと結びつかない単語がいくつも並ぶ。全く意味が分からない。
「何かの間違いじゃないですか」
 母さんは静かな人だった。穏やかで、声も大きくなかった。母さんが歌っているところなんか一度も見たことがない。カラオケももちろん行ったことがないし、鼻歌すら聞いた覚えがない。戸惑う俺に向かって、高瀬は言葉を続けた。
「とある噂が流れています」
「噂?」
「サブスクでランダムに流れてくる、ある歌を聞いてしまった人が、眠ったまま目を覚まさなくなるという噂が、SNSで流れています。呪いの歌とかセイレーンの歌だって言われていて」
「それ、母さんに何の関係があるんですか」
「その歌が、あなたのお母さんが歌った歌だと言われているんです」
「はぁ?」
 繰り返し言われても、やっぱり歌なんて聞いたことがないし、CDなんて家で見たこともない。母さんはテレビもほとんど見なかった。音楽番組なんて、もってのほかだ。
 けれど、ふと思った。もし本当に母さんが歌手でそんな歌があるのなら、俺はなぜそれを知らないのだろうか。
「俺の姉はイヤホンをつけたまま机に突っ伏して眠っていて、それからずっと目を覚ましていない。医者にも原因が分からないんです」
 その話が本当なら気の毒だと思う。でもそれが何故母さんに繋がり、CDの話になるのだろうか。
「もしそうだとして、何でCDを探しているんです?」
「姉は、恐らくその歌を聞いてしまい……二ヶ月以上、眠ったままなんです。ネットの似たような事例によれば、歌をもう一度聴けば、目を覚ますとあったから……」
 疑問で緩んだ一瞬の隙をつくように、高瀬は畳みかけてくる。
「だから、CDが最後の頼みの綱なんです……もう残ってる手がこれしかなくて。これで駄目だったら、どうすればいいのか分からないんです……」
 何に対する「だから」なのかさっぱり分からない。高瀬の声は落ち着いているが、微かに震えている。
「頼みの綱って……」
 歌で眠って目を覚まさなくなるとか、どういう理屈かさっぱり分からない。言葉だけが並ぶばかりで全く頭に入ってこないのに、少なくとも高瀬は本気でそう思っているようだ。
「……話は聞きます。ただ」
 闇バイトやら何やら恐ろしい事件が多いこの頃、「知らない相手を家に入れるな」と父さんには言われている。けれど制服姿の高瀬はそこまで悪い人間には見えないし、この炎天下の中での立ち話は俺が辛い。
「今すぐは無理なので、一時間後に近所にある図書館のロビーで待ち合わせをしましょう」
 どこかファミレスか喫茶でも行くか考えたけど、そんな余分な小遣いはないので、図書館のロビーで待ち合わせることにした。父さんにメッセージを送りながら提案をした自分の声が、やけに高く響いた。
「分かりました。ありがとうございます……!」
 高瀬はインターホンの画面の向こうで一度深く礼をして、足早に門を離れていった。
 俺は対照的に、画面が静かになったあとも、しばらくその場から動けなかった。
 母さんが歌手だった。それがどうにも引っかかっている。頭の中で反芻してもまるで現実味がない。
 そんなはずがないと思う。思うけど、完全に否定できない。うまく言葉にできないまま、何かが引っかかった感覚だけが残った。俺が知らないだけで、本当はそうだった可能性もある。
〈知らない男の人が母さんを訪ねてきた。図書館で話聞いてくる〉
 父さんに送ったメッセージの画面をもう一度見ると、送信済みの文字は内心に反して、落ち着いて見えた。
 あんなの無視すればよかったのかもしれない。知らない男が突然訪ねてきて、死んだ母の昔の話をし始めるなんて、普通なら相手にしないで終わりだ。でも、「歌」という言葉だけが、どうしても頭の中に残ってしまう。
 だって、母さんが歌う姿なんて一度も見たことがないのに。
 ともかく約束したからには行ってあげないと。食事をしようとキッチンに戻ると氷はほとんど溶け、素麺はすっかりぬるくなっていた。
「……はぁ」
 箸で麺をすくって、無理やり口に運ぶ。味はするけどよく分からない。さっきまで昼飯のことしか考えていなかったのに、頭の中はこの後のことでいっぱいだった。
 食べ終えて流しに器を置いて歯を磨く。鏡の中の自分はいつもと同じ顔だ。マスクを手に取って考える。
 図書館。知らない男。母の昔話。
 そこまで考えて、結局いつも通りマスクをつけて玄関でスニーカーを履く。ドアノブに手をかけたところで、ふと動きが止まった。
 今から会う相手はさっきまで完全に他人だった男だ。しかも正体は不明のまま。
「やっぱ危ないか……? や、まあでも……図書館だし」
 やめようと思えばやめられる。自分に言い聞かせるように呟いてドアを開けた。外の空気は思ったよりも重く、むっとした熱が顔にまとわりついて、ほんのり潮の匂いがする。この家から海は見えないけれど、晴れた日には風の匂いだけ変わることがある。蝉の声の向こうで遠くを走る電車の音がして、遠くまで伸びていく。
 ぬるりと始まった夏休み、初日から外へ引きずり出されるなんて。そんなことを思いながら、俺は図書館へ向かって歩き出した。