自分にとって重い決断をして店を出たけど、なんだか風は軽く感じる。さっきまで店の奥に置いてきた言葉だけが、まだ胸のあたりに残っていた。歩き出してもしばらく、足も自分のものじゃないみたいに軽かった。
「伊織、ピアノ弾けたんだ」
「中学でやめちゃったから、簡単なやつだけね。姉さんは最近までやってたけどね」
「そうだったんだ」
「岸さんにはバレてたけど」
伊織は鍵盤をなぞるみたいに、空中で指を動かした。
「なるほど……それ、ずっと焦ったときの癖かと思ってた」
「確かにピアノが身近になかったら、分かんないかも。癖が残ってるの自体、俺も初めて気づいたし」
「そういうものなんだ」
「うん。そうみたい。新たな発見だ」
足音がゆっくり重なっては離れる。俯くと、歩幅の差は広がっていく。
「……凪?」
「……俺もさ、昔は、歌ってたんだけど……」
「そうなんだ! 上手そう」
「いや、全然、そんな大したものじゃなくて……母さんが、喜ぶからって歌ってただけなんだけど……今さら、歌えるのかなって」
「凪の中にも残ってると思う。俺も、弾けると思ってなかったから」
言い切ってから、伊織はちょっと照れたみたいに笑って前を向いた。
「だから、多分、出てくるよ」
言い終えると、伊織はすぐに前を向いて歩き出した。言いながら照れてしまったらしく、その横顔を見ていると肩の力が抜けた。
潮の匂いを含んだ風が、前髪を同じ方向へ揺らす。足音がリズムよく重なって、気づけば歩幅がちょっと大きくなっていた。
「四年ぶりだし下手だったけど、一応俺、弾けてたでしょ。案外体が覚えてるもんだなって、ちょっと感動したし」
「そっか……俺も……」
歌えるかな。
それ以上続かない。伊織もそれ以上何も言わなかった。
遠くで波の音がして、頭の上ではカモメが一羽、のんびりと弧を描いている。ついそれを目で追うと、伊織もつられるように空を見上げた。
「……多分、大丈夫だよ」
無意識に喉に手がいった。何も変わっていないはずなのに、そこだけ少し熱を持っている。
「……」
高瀬の指は、さっきと同じようにリズムを刻んでいる。言い切られると困るはずなのに、なんだか救われた気がした。
家に帰った俺は、その日のうちにノートを開いた。
何度も見てきたはずの歌詞なのに、いざ続きを考えようとすると何も浮かばない。頭に浮かぶのは欠片だけで、歌になりきらないまま途中で途切れる。言葉はあるのに、母さんの歌の隣に置くと急に違うものに見えた。書いては消して、同じところをまたなぞる。その繰り返しだった。
気づけば最初の一行だけが、ずっとそこに残っている。
――水の中の泡沫は言葉のかたち
それ以上先に行けない。母さんなら、どうしただろう。
そう思ったところで、不意に別の言葉が浮かぶ。考えたというより、先にそこにあったものを拾ったみたいだった。自分で考えた形じゃなくて、ただそこに触れた感触だけが残る。
沈まないで 泡沫でもいい
消えそうでもいいから まだ、ここにいて
ぽつりと、そんな言葉が浮かんだ。自分で考えたというより、胸の奥に沈んでいたものがようやく上がってきたみたいだった。曲のリズムとは合わないけど、これは悪くない。
でも、いけると思ったのは一瞬で、俺は同じ行を何度も書いては消した。
沈まないで 泡沫でもいい
消えそうでもいいから ここにいて
場所を変えて岸さんの店で考えてみても、やっぱり何か違う。けど、どこが違うのかは分からない。こういう時に語彙力のなさが浮き彫りになる。
「ちょっと見せてもらっていい?」
向かいから伊織が覗き込んでくる。少しだけ躊躇いながら、俺はノートをそのまま押し出した。
「“から”がいらないかも」
言いながら、伊織は指でその部分をなぞる。
沈まないで 泡沫でもいい
消えそうでもいい ここにいて
「……なるほど」
確かにさっきより、収まりがいいかもしれない。
「あと、“泡沫でもいい”より、“泡沫のままでいい”の方が、音が揃うかも」
伊織はペンを持ってさらさらと書いている。
沈まないで 泡沫のままでいい
消えそうでもいい ここにいて
確かに、さっきより整っている。でも、そこだけ急によそゆきの言葉になった。
「……なんか、違う」
「え?」
「いや、上手く言えないけど……そっちだと、ちゃんとしすぎてる気がして……綺麗なんだけど、思ってるのより遠くなる」
伊織は一瞬だけ黙って、それから小さく頷いた。
「……じゃあ、戻す?」
「うん」
俺は消しゴムでなぞって、元の言葉に戻す。
沈まないで 泡沫でもいい
消えそうでもいい ここにいて
書き直して、見つめる。これでいいのかは分からないけど、さっきよりはしっくりきた。
「……いいと思う」
伊織はそれ以上、直そうとはしなかった。
「じゃあ、またね」
そう言って伊織は先に帰っていった。俺はドアが閉まったあと、しばらく動けなかった。
別に何かを言われたわけじゃない。むしろいつも通りだったと思う。それでも、さっきのやり取りはどこかに引っかかっていた。自分でも分からないまま、勝手に引っ込めてしまった。俺の言い方だけが感じ悪かった。何を守ろうとしてあんな風に閉じたのか、自分でもよく分からない。
伊織はどう思っただろう。気づけば足元だけを見て歩いていて、小さく息を吐いていた。
イヤホンを耳に差し込み、気晴らしに何か曲でも流すかとリストを見れば、画面には母さんのアルバムの名前が表示されている。再生ボタンを押すまでに迷いがあった。
俺は迷って、結局タップした。
小さく息を吸う音のあと、歌が始まる。イヤホンで聴くと思っていたよりもずっと近かった。すぐ傍で、誰かが静かに話しているみたいに声が落ちてくる。
足は止まらないのに、周りの音だけが遠くなる。信号の音も、車の音も、人の声も、全部一段向こうに下がって歌だけがはっきり残る。水の中に沈んでいくみたいだと思った。
苦しいわけでも体が重くなるわけでもない。ただ、じわりとどこかへ引かれていく。そのまま任せてしまえば楽になれそうだ。けれど、それは違うと頭のどこかが冷静だった。俺はイヤホンを外した。音が途切れた瞬間、外の音が一気に戻ってきて、息がしやすくなる。ただ、歌は消えるはずなのに、ほんの一瞬遅れて何かが残った。
俺は画面を伏せて、振り切るようにもう一度歩き出した。
「伊織、ピアノ弾けたんだ」
「中学でやめちゃったから、簡単なやつだけね。姉さんは最近までやってたけどね」
「そうだったんだ」
「岸さんにはバレてたけど」
伊織は鍵盤をなぞるみたいに、空中で指を動かした。
「なるほど……それ、ずっと焦ったときの癖かと思ってた」
「確かにピアノが身近になかったら、分かんないかも。癖が残ってるの自体、俺も初めて気づいたし」
「そういうものなんだ」
「うん。そうみたい。新たな発見だ」
足音がゆっくり重なっては離れる。俯くと、歩幅の差は広がっていく。
「……凪?」
「……俺もさ、昔は、歌ってたんだけど……」
「そうなんだ! 上手そう」
「いや、全然、そんな大したものじゃなくて……母さんが、喜ぶからって歌ってただけなんだけど……今さら、歌えるのかなって」
「凪の中にも残ってると思う。俺も、弾けると思ってなかったから」
言い切ってから、伊織はちょっと照れたみたいに笑って前を向いた。
「だから、多分、出てくるよ」
言い終えると、伊織はすぐに前を向いて歩き出した。言いながら照れてしまったらしく、その横顔を見ていると肩の力が抜けた。
潮の匂いを含んだ風が、前髪を同じ方向へ揺らす。足音がリズムよく重なって、気づけば歩幅がちょっと大きくなっていた。
「四年ぶりだし下手だったけど、一応俺、弾けてたでしょ。案外体が覚えてるもんだなって、ちょっと感動したし」
「そっか……俺も……」
歌えるかな。
それ以上続かない。伊織もそれ以上何も言わなかった。
遠くで波の音がして、頭の上ではカモメが一羽、のんびりと弧を描いている。ついそれを目で追うと、伊織もつられるように空を見上げた。
「……多分、大丈夫だよ」
無意識に喉に手がいった。何も変わっていないはずなのに、そこだけ少し熱を持っている。
「……」
高瀬の指は、さっきと同じようにリズムを刻んでいる。言い切られると困るはずなのに、なんだか救われた気がした。
家に帰った俺は、その日のうちにノートを開いた。
何度も見てきたはずの歌詞なのに、いざ続きを考えようとすると何も浮かばない。頭に浮かぶのは欠片だけで、歌になりきらないまま途中で途切れる。言葉はあるのに、母さんの歌の隣に置くと急に違うものに見えた。書いては消して、同じところをまたなぞる。その繰り返しだった。
気づけば最初の一行だけが、ずっとそこに残っている。
――水の中の泡沫は言葉のかたち
それ以上先に行けない。母さんなら、どうしただろう。
そう思ったところで、不意に別の言葉が浮かぶ。考えたというより、先にそこにあったものを拾ったみたいだった。自分で考えた形じゃなくて、ただそこに触れた感触だけが残る。
沈まないで 泡沫でもいい
消えそうでもいいから まだ、ここにいて
ぽつりと、そんな言葉が浮かんだ。自分で考えたというより、胸の奥に沈んでいたものがようやく上がってきたみたいだった。曲のリズムとは合わないけど、これは悪くない。
でも、いけると思ったのは一瞬で、俺は同じ行を何度も書いては消した。
沈まないで 泡沫でもいい
消えそうでもいいから ここにいて
場所を変えて岸さんの店で考えてみても、やっぱり何か違う。けど、どこが違うのかは分からない。こういう時に語彙力のなさが浮き彫りになる。
「ちょっと見せてもらっていい?」
向かいから伊織が覗き込んでくる。少しだけ躊躇いながら、俺はノートをそのまま押し出した。
「“から”がいらないかも」
言いながら、伊織は指でその部分をなぞる。
沈まないで 泡沫でもいい
消えそうでもいい ここにいて
「……なるほど」
確かにさっきより、収まりがいいかもしれない。
「あと、“泡沫でもいい”より、“泡沫のままでいい”の方が、音が揃うかも」
伊織はペンを持ってさらさらと書いている。
沈まないで 泡沫のままでいい
消えそうでもいい ここにいて
確かに、さっきより整っている。でも、そこだけ急によそゆきの言葉になった。
「……なんか、違う」
「え?」
「いや、上手く言えないけど……そっちだと、ちゃんとしすぎてる気がして……綺麗なんだけど、思ってるのより遠くなる」
伊織は一瞬だけ黙って、それから小さく頷いた。
「……じゃあ、戻す?」
「うん」
俺は消しゴムでなぞって、元の言葉に戻す。
沈まないで 泡沫でもいい
消えそうでもいい ここにいて
書き直して、見つめる。これでいいのかは分からないけど、さっきよりはしっくりきた。
「……いいと思う」
伊織はそれ以上、直そうとはしなかった。
「じゃあ、またね」
そう言って伊織は先に帰っていった。俺はドアが閉まったあと、しばらく動けなかった。
別に何かを言われたわけじゃない。むしろいつも通りだったと思う。それでも、さっきのやり取りはどこかに引っかかっていた。自分でも分からないまま、勝手に引っ込めてしまった。俺の言い方だけが感じ悪かった。何を守ろうとしてあんな風に閉じたのか、自分でもよく分からない。
伊織はどう思っただろう。気づけば足元だけを見て歩いていて、小さく息を吐いていた。
イヤホンを耳に差し込み、気晴らしに何か曲でも流すかとリストを見れば、画面には母さんのアルバムの名前が表示されている。再生ボタンを押すまでに迷いがあった。
俺は迷って、結局タップした。
小さく息を吸う音のあと、歌が始まる。イヤホンで聴くと思っていたよりもずっと近かった。すぐ傍で、誰かが静かに話しているみたいに声が落ちてくる。
足は止まらないのに、周りの音だけが遠くなる。信号の音も、車の音も、人の声も、全部一段向こうに下がって歌だけがはっきり残る。水の中に沈んでいくみたいだと思った。
苦しいわけでも体が重くなるわけでもない。ただ、じわりとどこかへ引かれていく。そのまま任せてしまえば楽になれそうだ。けれど、それは違うと頭のどこかが冷静だった。俺はイヤホンを外した。音が途切れた瞬間、外の音が一気に戻ってきて、息がしやすくなる。ただ、歌は消えるはずなのに、ほんの一瞬遅れて何かが残った。
俺は画面を伏せて、振り切るようにもう一度歩き出した。
