「……じゃあ、伊織くんも何かやってみる?」
「え、いや……なんでですか」
俺がぐるぐる考え込んでいると、岸さんは突然伊織に話を振って、伊織がすぐに首を振った。
けれど岸さんはじっと伊織を見つめたまま、机に軽く指を走らせる。伊織はそれを見て溜め息を吐く。
指先が同じ間隔で机を叩いていたことに、遅れて気づいた。
「……俺、本当に上手くないし」
「別に演奏会とかじゃないんだし、気楽にやればいいんだよ」
軽く返されて、伊織は店の奥に視線を向けた。
「……じゃあ、一曲だけ」
伊織は押しに負けてピアノに向かって歩いていった。椅子に座る前に、伊織は一度だけ手を開いて閉じる。指先の感覚を確かめているみたいだった。弾けるかどうかより、とにかく止めずにやると決めているようにも見えた。
鍵盤の蓋を開ける音が、静かに響く。
「指回るかな……」
そう呟きながら指を置けば、くぐもった音が店の中に広がる。続けて確かめるみたいに、和音をゆっくり鳴らした。
「――本当の本当に、期待しないでね」
期待値が下がるようにと念押しして、伊織は弾き始めた。
同じところを回っているはずなのに、前に進んでいるみたいだった。重なって、静かに続いていく。伴奏は同じ形を繰り返しているだけで、難しいことはしていない。でも俺からすれば、両手でピアノを弾けるだけでもすごいし、何より音が途切れない。
そこに伊織の声が乗る。演奏に気を取られているのか、わずかに掠れていた。ピアノも歌に合わせようとして、遅れたり早くなったりしている。
上手いとは言えない。ただ、無理をしていないのが分かる。演奏は止まらない。音が途切れて、そこでようやく息をついた。伊織はちゃんと弾き切った。最後の指を離したあとも、ピアノの中で、まだ何かが鳴っているみたいだった。
「……だから言ったのに。上手くないって」
ゆっくり手を引きながら、ぶっきらぼうに言うのは多分、照れ隠しだ。
「いや」
どう返そうかとちょっとだけ迷った。上手いかどうかで言えば違うと思う。
「……普通に、よかったけど」
この感想に間違いはない。そう言うと、伊織は黙って視線を逸らし、鍵盤の上に残していた指でもう一度だけ軽く音を鳴らした。さっきよりも弱い音が、短く残った。
「……そういうの、一番困るんですけど」
「いや、伊織くんよかったよ!」
「ええ、素敵な演奏だった」
「無理に褒めなくていいですって……」
「いや、本当によかったよ」
「凪も、もういいって!」
本気の感想なんだけどな。
確かに伊織の歌も演奏も、特別上手いわけじゃなかった。でも途切れなかった。揺れながらでも、ちゃんと先へ行っていた。同じところをなぞっているはずなのに、戻ってはいない。
気づいたというより、先に身体の方が反応していた。
さっきまで聞いていた音を、もう一度思い出してみる。伊織の歌はちゃんと先に進んでいた。揺れながらでも止まらず、やりきろうとしていた。同じ歌のはずなのに、戻ろうとはしていなかった。 それに比べると、母さんの歌は迷子みたいに同じ場所を行き来している。
このままだと、ずっと同じところで止まったままになる。けれど、少しでも先へ押し出せるなら、何か変わるんじゃないか。
そこまで考えて息が詰まる。すぐに否定しようとしても、否定の言葉が出てこない。
「凪?」
「……いや」
何でもないと答えかけて、言葉を変えた。
「……なんか、変な感じ」
怖いままなのに、さっきまでみたいに完全には引けなくなっている。うまく説明できないけど、さっきまでとは明らかに違っていた。怖さが消えた訳じゃない。それでも絶対に無理だとは思えなくなっていった。
「凪」
「……なに」
「……今さ、さっきまでと違う顔してる」
「え?」
自分では分からないので否定もできない。そうなのかなと確かめるようにぺたぺた顔を触っていると、伊織は視線を外して、俺に戻した。
「やっぱり……凪なら、歌えるんじゃないかな」
「……」
言ってることは分かるのに、すぐに返せなかった。否定しようと思えば、いくらでも言葉は出てくるはずなのに、何も出なかった。
「……何それ」
ようやく出たのはそれだけだった。伊織はそれ以上何も言わない。冗談交じりでもないし、強く押してくるわけでもない。
その中途半端な距離のまま、言葉だけが残る。今までずっと、逃げてきたのに歌えるわけないと思いながら喉に手を当てる。触れた場所は微かに震えている。
母さんの歌。伊織の歌。自分の声。
視線を落とすと、テーブルの端に置いたノートが目に入った。
どこかに、続きがある気はしていた。ずっと止まったままの旋律。繰り返される歌。指先が無意識にノートへ伸びて、ページを開けばSilent Tideの歌詞が目に入った。
水の中の泡沫は言葉のかたち
ふれれば消える 祈りみたいに
喉の奥が、またひりついて俯いてしまう。
途中で止まっている歌。書きかけの言葉。消し跡。ずっと繰り返している旋律。本当に泡沫みたいだ。口から離れた瞬間に、どこかへ消えていく。
母さんはこの先をどこまで歌ったんだろう。消えた祈りはどこへ行ったんだろう。
前に進めるなら。そう思うのに、すぐに頭の中を水が差す。歌なんてもう何年もまともに歌っていない。自分の声を出すのすら嫌で、怖くて、笑われるのが嫌でずっと避けてきた。死にゆく母さんが聴きたいと言った時でさえ、俺は歌えなかった。
そんな俺が今さら、母さんの歌の続きを、なんて。
無理だ。
そう思うのに、心の奥で声がする。
母さんにはもう何もしてあげられない。あの時歌えなかったことはこの先も変わらない。
でも、伊織のお姉さんはまだ眠っている。ここにいる。ずっとこのままとは限らない。もしこのまま時間だけが過ぎていったら、本当に間に合わなくなるかもしれない。
喉の奥のざらつきが強くなる。俺もさっきの声みたいに、ひとつでも前に進めるなら。
「……凪?」
呼ばれて顔を上げると、伊織と視線がぶつかった。伊織は何も言わない。急かすことなく俺を見ている。逃げる理由がなくなっていくようだった。
喉の奥を息でならすと、声はわずかに震えていた。歌えるなんてまだ思えない。それでも、このまま何も言わずに終わる方がもっと嫌だった。
「……岸さん」
一度止まりかけた声を、押し出す。
「母さんの歌の、続きを」
一人では無理でも、言葉と音を繋げられる人がいる。岸さんは静かに頷いた。
「え、いや……なんでですか」
俺がぐるぐる考え込んでいると、岸さんは突然伊織に話を振って、伊織がすぐに首を振った。
けれど岸さんはじっと伊織を見つめたまま、机に軽く指を走らせる。伊織はそれを見て溜め息を吐く。
指先が同じ間隔で机を叩いていたことに、遅れて気づいた。
「……俺、本当に上手くないし」
「別に演奏会とかじゃないんだし、気楽にやればいいんだよ」
軽く返されて、伊織は店の奥に視線を向けた。
「……じゃあ、一曲だけ」
伊織は押しに負けてピアノに向かって歩いていった。椅子に座る前に、伊織は一度だけ手を開いて閉じる。指先の感覚を確かめているみたいだった。弾けるかどうかより、とにかく止めずにやると決めているようにも見えた。
鍵盤の蓋を開ける音が、静かに響く。
「指回るかな……」
そう呟きながら指を置けば、くぐもった音が店の中に広がる。続けて確かめるみたいに、和音をゆっくり鳴らした。
「――本当の本当に、期待しないでね」
期待値が下がるようにと念押しして、伊織は弾き始めた。
同じところを回っているはずなのに、前に進んでいるみたいだった。重なって、静かに続いていく。伴奏は同じ形を繰り返しているだけで、難しいことはしていない。でも俺からすれば、両手でピアノを弾けるだけでもすごいし、何より音が途切れない。
そこに伊織の声が乗る。演奏に気を取られているのか、わずかに掠れていた。ピアノも歌に合わせようとして、遅れたり早くなったりしている。
上手いとは言えない。ただ、無理をしていないのが分かる。演奏は止まらない。音が途切れて、そこでようやく息をついた。伊織はちゃんと弾き切った。最後の指を離したあとも、ピアノの中で、まだ何かが鳴っているみたいだった。
「……だから言ったのに。上手くないって」
ゆっくり手を引きながら、ぶっきらぼうに言うのは多分、照れ隠しだ。
「いや」
どう返そうかとちょっとだけ迷った。上手いかどうかで言えば違うと思う。
「……普通に、よかったけど」
この感想に間違いはない。そう言うと、伊織は黙って視線を逸らし、鍵盤の上に残していた指でもう一度だけ軽く音を鳴らした。さっきよりも弱い音が、短く残った。
「……そういうの、一番困るんですけど」
「いや、伊織くんよかったよ!」
「ええ、素敵な演奏だった」
「無理に褒めなくていいですって……」
「いや、本当によかったよ」
「凪も、もういいって!」
本気の感想なんだけどな。
確かに伊織の歌も演奏も、特別上手いわけじゃなかった。でも途切れなかった。揺れながらでも、ちゃんと先へ行っていた。同じところをなぞっているはずなのに、戻ってはいない。
気づいたというより、先に身体の方が反応していた。
さっきまで聞いていた音を、もう一度思い出してみる。伊織の歌はちゃんと先に進んでいた。揺れながらでも止まらず、やりきろうとしていた。同じ歌のはずなのに、戻ろうとはしていなかった。 それに比べると、母さんの歌は迷子みたいに同じ場所を行き来している。
このままだと、ずっと同じところで止まったままになる。けれど、少しでも先へ押し出せるなら、何か変わるんじゃないか。
そこまで考えて息が詰まる。すぐに否定しようとしても、否定の言葉が出てこない。
「凪?」
「……いや」
何でもないと答えかけて、言葉を変えた。
「……なんか、変な感じ」
怖いままなのに、さっきまでみたいに完全には引けなくなっている。うまく説明できないけど、さっきまでとは明らかに違っていた。怖さが消えた訳じゃない。それでも絶対に無理だとは思えなくなっていった。
「凪」
「……なに」
「……今さ、さっきまでと違う顔してる」
「え?」
自分では分からないので否定もできない。そうなのかなと確かめるようにぺたぺた顔を触っていると、伊織は視線を外して、俺に戻した。
「やっぱり……凪なら、歌えるんじゃないかな」
「……」
言ってることは分かるのに、すぐに返せなかった。否定しようと思えば、いくらでも言葉は出てくるはずなのに、何も出なかった。
「……何それ」
ようやく出たのはそれだけだった。伊織はそれ以上何も言わない。冗談交じりでもないし、強く押してくるわけでもない。
その中途半端な距離のまま、言葉だけが残る。今までずっと、逃げてきたのに歌えるわけないと思いながら喉に手を当てる。触れた場所は微かに震えている。
母さんの歌。伊織の歌。自分の声。
視線を落とすと、テーブルの端に置いたノートが目に入った。
どこかに、続きがある気はしていた。ずっと止まったままの旋律。繰り返される歌。指先が無意識にノートへ伸びて、ページを開けばSilent Tideの歌詞が目に入った。
水の中の泡沫は言葉のかたち
ふれれば消える 祈りみたいに
喉の奥が、またひりついて俯いてしまう。
途中で止まっている歌。書きかけの言葉。消し跡。ずっと繰り返している旋律。本当に泡沫みたいだ。口から離れた瞬間に、どこかへ消えていく。
母さんはこの先をどこまで歌ったんだろう。消えた祈りはどこへ行ったんだろう。
前に進めるなら。そう思うのに、すぐに頭の中を水が差す。歌なんてもう何年もまともに歌っていない。自分の声を出すのすら嫌で、怖くて、笑われるのが嫌でずっと避けてきた。死にゆく母さんが聴きたいと言った時でさえ、俺は歌えなかった。
そんな俺が今さら、母さんの歌の続きを、なんて。
無理だ。
そう思うのに、心の奥で声がする。
母さんにはもう何もしてあげられない。あの時歌えなかったことはこの先も変わらない。
でも、伊織のお姉さんはまだ眠っている。ここにいる。ずっとこのままとは限らない。もしこのまま時間だけが過ぎていったら、本当に間に合わなくなるかもしれない。
喉の奥のざらつきが強くなる。俺もさっきの声みたいに、ひとつでも前に進めるなら。
「……凪?」
呼ばれて顔を上げると、伊織と視線がぶつかった。伊織は何も言わない。急かすことなく俺を見ている。逃げる理由がなくなっていくようだった。
喉の奥を息でならすと、声はわずかに震えていた。歌えるなんてまだ思えない。それでも、このまま何も言わずに終わる方がもっと嫌だった。
「……岸さん」
一度止まりかけた声を、押し出す。
「母さんの歌の、続きを」
一人では無理でも、言葉と音を繋げられる人がいる。岸さんは静かに頷いた。
