歌。
そう思った瞬間、さっきまで遠くにあったはずの光景が、急に近くなった。キッチンの匂いと西日の色だけが先に浮かんで、遅れて母さんの声が重なる。
カーテンから黄色い西日が透けて、部屋が金みたいにきらきらしている。何だかそれでテンションが上がって、テレビで流れていた何かの主題歌を口ずさんだ。
「凪、もう一回」
意味も分からない英語の部分も、そのまま真似して歌って、本格的に分からなくなって歌を止めるとキッチンから母さんが笑いながらねだる。
振り返ると、手を止めてこっちを見ている。
「凪、もう一回」
「えーだってあんま分かんないんだもん」
「だって凪が歌うの好きなんだもん」
そんなふうに言われると、口ではごにょごにょ言いつつも、嬉しくてまた俺は歌い出す。
あの頃は声が高いとか低いとか、そんなこと考えたこともなかった。母さんが嬉しそうに笑う顔を見ると俺も嬉しくなって、何度も歌った。キッチンで、母の拍手が小さく鳴る。
歌うと母さんが笑ってくれる。ただ、それが嬉しかった。
だから俺は家でも車の中でもCMの歌でも童謡でもテレビの主題歌でも、なんでも歌っていた。歌えば母さんは必ず笑って喜んでいた。
なのに、声が変だと言われるようになって、恥ずかしくなって、他所ではもちろん母さんの前でも歌わなくなった。ついこの前まで当たり前だったことが、急に出来ないことになった。
中学に入ってすぐ、母さんは身体を壊して入院した。中学時代の「ただいま」は、家より病院が多かったくらいだ。
病室は白と青みがかったグレーで構成されていた。母さんはテレビもつけない。枕元にある本と、見舞いの花だけが浮いたように鮮やかだったのはよく覚えている。
細くなった手を布団の上に出して、母さんは植物のようにゆっくり息をしていた。色をなくしつつある母の青白さも、病室の一部のようで怖かった。
「凪」
「なに?」
「久しぶりに、凪の歌、聴きたいな」
一瞬、時間が止まったような気がした。返事をしようとしても、喉の奥だけが先に硬くなる。
確かに歌は好きだった。母の前で恥ずかしげもなく何度も歌った。風呂やキッチンやリビング、家の中はもちろん、車の中や散歩中でも。
でもそれは少し前のことで、俺はいつからか自分の声を聞くのが嫌になっていた。そんな自分のことも、嫌だった。高いままの自分の声は、何かが違うという感覚だけがあって、恥ずかしいからだけでは言い表せない。その正体をうまく言葉にできないまま、ただ口を閉じるようになっていた。
歌おうとしても、声の出し方だけが急に分からなくなる。
「……ごめん」
心配させているのは分かっている。けれど小さく謝ることしかできない。
「凪は悪くないよ」
「ごめん」
ゆっくり息を整えながら、目を逸らした俺を見て、母さんも淡く目を逸らした。
「お母さんもね……『歌って』って言われて、歌えない気持ち、分かるから」
そう言って困ったように母さんは笑う。控えめで人の前で歌うような人ではない。だから歌うことが苦手なんだろうと勝手に思い込んで、その言葉の意味は、深く考えなかった。
入院してからも結局一度も歌うことはなかった。あの時はただ、責められなかったことに、ほっとしていた。結局母さんはそれ以上何も言わず、俺も歌わず、そのまま時間だけが過ぎていった。
母さんが亡くなる少し前にも「凪の歌が聴きたい」と言われ、歌おうとしてみたけど喉が動かなかった。結局歌ってあげられなくて、叶えてあげられなかった。
でも、母さんは何も言わなかった。
今思えば、歌えなくなる気持ちが分かるから何も言わなかったのかもしれない。
"美波ちゃんは否定してたけど……私、美波ちゃんの歌を聞いた気がするのよね"
橋本さんの言葉が、まだ耳に残っていた。
それは恐らく気のせいではない。母さんの歌が眠りに落としたかもしれない。でも眠りの中から引き戻してもいた。
二人から母さんの話を聞いてひとつだけ分かった。母さんは自分のために歌うより先に、誰かの方を見て歌う人だったのかもしれない。
だからばあちゃんが死んで、歌が人を眠らせるものになってしまって、その歌がもう、誰かのための歌じゃなくなって、母さんは歌えなくなった。
それを考えると、歌えなかったあの時の自分のことまで、違って見えてくる。
「お母さんもね、歌ってって言われて歌えない気持ち、分かるから」
あの言葉の意味を今になって考える。ばあちゃんが亡くなったあと。自分の歌が騒ぎになったあと。母も歌えなくなった。歌えない苦しさを分かっていた。
声が変だと笑われて歌わなくなって、母さんがいなくなって俺もずっと止まったままだった。俺の歌が聴きたい。すっかり弱ってしまった母の、ささやかな願い。なのにあの時歌うことがなかった。
母さんが入院してからは、俺も一緒に病室にいることが多くて、受験勉強も病室でしていた。母さんがいよいよという時も、俺はいつも通り母の病室にいた。普段なら夜には家に帰るけど、その日は帰らなかった。眠る母さんの隣で窓から夜空を見ながら、父さんが来るのを待っていた。
母さんは安らかだった。けど、あの静かな最後のひと時。
少しだけでも歌ってみればよかったと、本当はずっと思っていた。
母さんは、ばあちゃんのために歌った。
俺は、母さんのために歌えなかった。
それでも、今度こそ。誰かのためになら、歌えるのかもしれないと、俺はもう一度伊織を見た。
――今なら。今なら、歌えるだろうか。
もし、続きを歌うことができるなら。
そう思った瞬間、さっきまで遠くにあったはずの光景が、急に近くなった。キッチンの匂いと西日の色だけが先に浮かんで、遅れて母さんの声が重なる。
カーテンから黄色い西日が透けて、部屋が金みたいにきらきらしている。何だかそれでテンションが上がって、テレビで流れていた何かの主題歌を口ずさんだ。
「凪、もう一回」
意味も分からない英語の部分も、そのまま真似して歌って、本格的に分からなくなって歌を止めるとキッチンから母さんが笑いながらねだる。
振り返ると、手を止めてこっちを見ている。
「凪、もう一回」
「えーだってあんま分かんないんだもん」
「だって凪が歌うの好きなんだもん」
そんなふうに言われると、口ではごにょごにょ言いつつも、嬉しくてまた俺は歌い出す。
あの頃は声が高いとか低いとか、そんなこと考えたこともなかった。母さんが嬉しそうに笑う顔を見ると俺も嬉しくなって、何度も歌った。キッチンで、母の拍手が小さく鳴る。
歌うと母さんが笑ってくれる。ただ、それが嬉しかった。
だから俺は家でも車の中でもCMの歌でも童謡でもテレビの主題歌でも、なんでも歌っていた。歌えば母さんは必ず笑って喜んでいた。
なのに、声が変だと言われるようになって、恥ずかしくなって、他所ではもちろん母さんの前でも歌わなくなった。ついこの前まで当たり前だったことが、急に出来ないことになった。
中学に入ってすぐ、母さんは身体を壊して入院した。中学時代の「ただいま」は、家より病院が多かったくらいだ。
病室は白と青みがかったグレーで構成されていた。母さんはテレビもつけない。枕元にある本と、見舞いの花だけが浮いたように鮮やかだったのはよく覚えている。
細くなった手を布団の上に出して、母さんは植物のようにゆっくり息をしていた。色をなくしつつある母の青白さも、病室の一部のようで怖かった。
「凪」
「なに?」
「久しぶりに、凪の歌、聴きたいな」
一瞬、時間が止まったような気がした。返事をしようとしても、喉の奥だけが先に硬くなる。
確かに歌は好きだった。母の前で恥ずかしげもなく何度も歌った。風呂やキッチンやリビング、家の中はもちろん、車の中や散歩中でも。
でもそれは少し前のことで、俺はいつからか自分の声を聞くのが嫌になっていた。そんな自分のことも、嫌だった。高いままの自分の声は、何かが違うという感覚だけがあって、恥ずかしいからだけでは言い表せない。その正体をうまく言葉にできないまま、ただ口を閉じるようになっていた。
歌おうとしても、声の出し方だけが急に分からなくなる。
「……ごめん」
心配させているのは分かっている。けれど小さく謝ることしかできない。
「凪は悪くないよ」
「ごめん」
ゆっくり息を整えながら、目を逸らした俺を見て、母さんも淡く目を逸らした。
「お母さんもね……『歌って』って言われて、歌えない気持ち、分かるから」
そう言って困ったように母さんは笑う。控えめで人の前で歌うような人ではない。だから歌うことが苦手なんだろうと勝手に思い込んで、その言葉の意味は、深く考えなかった。
入院してからも結局一度も歌うことはなかった。あの時はただ、責められなかったことに、ほっとしていた。結局母さんはそれ以上何も言わず、俺も歌わず、そのまま時間だけが過ぎていった。
母さんが亡くなる少し前にも「凪の歌が聴きたい」と言われ、歌おうとしてみたけど喉が動かなかった。結局歌ってあげられなくて、叶えてあげられなかった。
でも、母さんは何も言わなかった。
今思えば、歌えなくなる気持ちが分かるから何も言わなかったのかもしれない。
"美波ちゃんは否定してたけど……私、美波ちゃんの歌を聞いた気がするのよね"
橋本さんの言葉が、まだ耳に残っていた。
それは恐らく気のせいではない。母さんの歌が眠りに落としたかもしれない。でも眠りの中から引き戻してもいた。
二人から母さんの話を聞いてひとつだけ分かった。母さんは自分のために歌うより先に、誰かの方を見て歌う人だったのかもしれない。
だからばあちゃんが死んで、歌が人を眠らせるものになってしまって、その歌がもう、誰かのための歌じゃなくなって、母さんは歌えなくなった。
それを考えると、歌えなかったあの時の自分のことまで、違って見えてくる。
「お母さんもね、歌ってって言われて歌えない気持ち、分かるから」
あの言葉の意味を今になって考える。ばあちゃんが亡くなったあと。自分の歌が騒ぎになったあと。母も歌えなくなった。歌えない苦しさを分かっていた。
声が変だと笑われて歌わなくなって、母さんがいなくなって俺もずっと止まったままだった。俺の歌が聴きたい。すっかり弱ってしまった母の、ささやかな願い。なのにあの時歌うことがなかった。
母さんが入院してからは、俺も一緒に病室にいることが多くて、受験勉強も病室でしていた。母さんがいよいよという時も、俺はいつも通り母の病室にいた。普段なら夜には家に帰るけど、その日は帰らなかった。眠る母さんの隣で窓から夜空を見ながら、父さんが来るのを待っていた。
母さんは安らかだった。けど、あの静かな最後のひと時。
少しだけでも歌ってみればよかったと、本当はずっと思っていた。
母さんは、ばあちゃんのために歌った。
俺は、母さんのために歌えなかった。
それでも、今度こそ。誰かのためになら、歌えるのかもしれないと、俺はもう一度伊織を見た。
――今なら。今なら、歌えるだろうか。
もし、続きを歌うことができるなら。
