約束の日、岸さんの店はいつも通りだった。扉を開けると、コーヒーの匂いと、控えめな音楽がそのまま流れてくる。今日はピアノだ。
いつもと同じはずなのに、違って見える。店の奥に見慣れない女の人がいて、すぐに分かった。
あの人が、橋本さんだ。
「来た来た。こっち」
岸さんに呼ばれて近づくと、女の人がこちらを見る。
「初めまして。橋本です」
「篠原 凪です」
「高瀬 伊織です。今日はありがとうございます」
差し出された言葉は落ち着いていて迷いがなかった。退職して田舎に帰ったと聞いていたけど、橋本さんはハキハキした都会的な美人だった。いかにもキャリアウーマンという雰囲気で、正直、想像していた人と微妙に違った。聞けばレコード会社から地元の企画会社に転職したらしく、今でもこちらにはちょくちょく来ているそうだ。
挨拶もそこそこに店の奥のテーブルで四人で向かい合う形になると、橋本さんは目を細めて俺を見ている。その視線が落ち着かなくて、なぜか喉のあたりが気になった。
「……本当に、大輔くんの言った通りね」
「え?」
「声。美波ちゃんにそっくり」
「な。言った通りだっただろ?」
「ええ」
橋本さんは耳を澄ますようにしてから、懐かしそうに笑った。
「美波ちゃんは単純に上手いだけじゃなくて、声もちょっと珍しかったのよ。女性にしては中性的っていうか……」
「特徴のひとつとしては、1/fゆらぎってやつもある」
「あ、聞いたことあります。ヒーリング効果があるって」
思わず喉に手を当ててしまう。何の話か半分くらいしか分からないのに、その説明が当たり前みたいに通っている空気だけが妙に現実味を帯びていた。
「そうそう。だから眠りはともかく、元々リラックスさせる声質ではあるんだよな」
「エバーグリーンというか、あんまり世代を問わないというか……長く活躍する歌い手になるって、トライトーン……当時のレコード会社もかなり期待していたの」
「そんなに……」
「でもね、minami、歌手になるつもりなんて最初は全然なかったんだよ」
岸さんはコーヒーを入れながら、懐かしむように言った。
「高校の文化祭でさ。ただ頼まれて歌ってただけだった」
「断れなかったんでしょうね。美波ちゃん、そういうところあったから」
確かに、体育館のステージに立つ母の姿はうまく想像できない。
でも、断り切れず、困ったように笑いながらマイクの前に立つ姿なら、なんとなく思い浮かぶ。
「最初は『誰?』ってざわざわしてたんだけどな」
岸さんは笑った。
「歌い始めたら、みんな呑まれて静かになった。歌い終わったあともしばらく誰も喋らなかった。本人はそんなつもりなかったんだろうけど……見ててすっげぇ気持ちよかったよ」
「それで猛アタックしたんだもんね」
「そう。この声だ! って思ったんだよ」
「そうだったんだ」
「ええ。あの子、自分のために歌う子じゃないもの。岸くんの押しに負けたの」
「だってさ……説明できないんだけどさ。間違いようがないんだよ」
橋本さんに呆れ気味に視線を向けられ、岸さんは苦笑している。
「無意識に探してたパズルのピースが、声の形でそこにあったって感じで……」
「正直、あの時の大輔くんの興奮具合引くレベルだったし。そりゃ美波ちゃんも頷いちゃうわ」
そういうことか。母さんが歌手になる理由はいまいち実感できていなかったけど、それなら少し分かるかもしれない。
「すごい。録音とか残ってないんですか?」
「ないね。昔はスマホもないし、動画は気軽に撮れなかったからさ」
橋本さんも小さく頷いて、カップをソーサーに戻した。
「……それでね、当時は今よりもっと、“女子高生シンガー”って肩書きが売れたのよ。だから社長はどうしても早くアルバムを出したかった」
「録り直すって話も出てたんだがな。でも社長がminamiの意向を無視して押し切った」
「社畜が当たり前で、パワハラやモラハラって言葉もなかった時代だから、みんな疲れていたの」
そして社員が眠り、事故があって、歌の噂が出始めた。
「掲示板の書き込みも絶対社員だよ。週刊誌に喋ったのも、運送会社に漏らしたのもそうだったし」
岸さんと橋本さんは当時の不満をつらつらと吐き出し始め、ハッと気づいて止めた。
「青少年に聞かせる話じゃなかった。ごめんなさいね」
「いえ……」
岸さんが苦い顔をして、橋本さんは小さく肩を竦めた。
「あの頃の業界は雑だったのよ。売れると思ったら、とにかく出してたから……現場も会社もかなり混乱しててね。止めるかどうか判断がつかないまま、関係者の間で音源が一部流れちゃったの」
「掲示板で噂になって、それを週刊誌が拾って、社内の誰かが余計なことまで喋った。もう収拾がつかなくなって、正式に出す前に回収。そのままお蔵入り……って流れ」
「どうにかしたかったけど、眠っている間に全部、終わっちゃってた。置いていかれたみたいで、しばらく現実味がなかったの」
橋本さんは「申し訳なかった」と小さく零し、机の上に置いた手をゆっくり組み直した。この人もまた、後悔を抱えたままここにいるんだと思った。
「橋本さんのせいでは……」
「……それで、眠った時のこと――本題なんだけどね」
どう返していいか分からないなりに何かを言おうとしたけど、それより先に橋本さんの声の調子が変わった。さっきまで気にならなかったピアノの音が近くなり、急に遠くへ下がっていく。
「美波ちゃんは否定してたんだけど……私、目が覚めた時、歌を聞いた気がするのよ」
「歌……?」
「ええ。はっきり覚えてるわけじゃないの。ただ、目が覚めた時、すぐ傍で誰かが歌っていた気がして」
「minamiの?」
「そう」
「だからね。あの歌は、眠りに落ちるだけの歌じゃなかったんじゃないかって、ずっと思ってたの」
岸さんは何も言わず、ただ、小さく息を吐く。
グラスの氷がひとつ、ぱきんと鳴った。
何かが引っかかった。橋本さんの一言が、頭の中でリフレインのように繰り返され、心の奥に小さな波紋が広がっていく。
店の中がすっと静かになって、その静けさの中、俺の頭には母さんのノートが浮かんでいた。
――水の中の泡沫は言葉のかたち
見比べていて気づいたことがある。ノートの歌詞は、アルバムのSilent Tideよりも言葉が多い。全く同じではないのに別の歌として切り離すこともできない。途中までは同じ場所を流れているのに、どこかから先に進みかけて、そこで止まっているみたいだった。
だからあの歌には、まだ先がある気がしていた。でも母さんが書いたものは途中で終わっている。Silent Tideはそこで閉じている歌に聞こえるのに、橋本さんの話を聞いたあとだと、そこが終わりではないようにも思えてくる。終わっているはずなのに、どこかでまだ待っているみたいだった。
「……続き、あるいは……」
続きというより、止まったままの歌の、その先。
眠りへ落ちるところで途切れた歌に、まだ先があるのだとしたら。
言葉はそこで止まり、考えが形になる手前で揺れていた。もし母さんが、眠りに落ちた人を呼び戻すための歌を歌っていたとしたら、あのノートに残っている言葉は、その欠片なのかもしれない。
「……凪?」
伊織の声ではっとすれば、いつの間にか三人ともが俺を見ていた。
「いや……」
続きを言いかけて、俺は迷った。
母の歌の続きを。
そんなこと出来るはずがない。
でも、俺はあのノートを見つけてから、何度も何度も読んだ。それは心のどこかで、ずっと言葉の続きを探していたのかもしれない。
「……もし、あの歌に続きがあるなら」
大きな声ではなかった。
「それを」
歌えば。
それを口にした瞬間、何かが決まってしまう。助けを求めるように視線を彷徨わせると、伊織と目があった。
伊織は何も言わない。ただ、静かに俺を見ていた。
そうだ。伊織のお姉さんは、まだ眠っているんだ。
俺は、喉の奥に残っているざらつきをなめすように、小さく息を吸った。
「……試してみる価値は、あるかもしれない」
伊織は何も言わなかった。
でも、そっと安心したように息を吐いていた。
いつもと同じはずなのに、違って見える。店の奥に見慣れない女の人がいて、すぐに分かった。
あの人が、橋本さんだ。
「来た来た。こっち」
岸さんに呼ばれて近づくと、女の人がこちらを見る。
「初めまして。橋本です」
「篠原 凪です」
「高瀬 伊織です。今日はありがとうございます」
差し出された言葉は落ち着いていて迷いがなかった。退職して田舎に帰ったと聞いていたけど、橋本さんはハキハキした都会的な美人だった。いかにもキャリアウーマンという雰囲気で、正直、想像していた人と微妙に違った。聞けばレコード会社から地元の企画会社に転職したらしく、今でもこちらにはちょくちょく来ているそうだ。
挨拶もそこそこに店の奥のテーブルで四人で向かい合う形になると、橋本さんは目を細めて俺を見ている。その視線が落ち着かなくて、なぜか喉のあたりが気になった。
「……本当に、大輔くんの言った通りね」
「え?」
「声。美波ちゃんにそっくり」
「な。言った通りだっただろ?」
「ええ」
橋本さんは耳を澄ますようにしてから、懐かしそうに笑った。
「美波ちゃんは単純に上手いだけじゃなくて、声もちょっと珍しかったのよ。女性にしては中性的っていうか……」
「特徴のひとつとしては、1/fゆらぎってやつもある」
「あ、聞いたことあります。ヒーリング効果があるって」
思わず喉に手を当ててしまう。何の話か半分くらいしか分からないのに、その説明が当たり前みたいに通っている空気だけが妙に現実味を帯びていた。
「そうそう。だから眠りはともかく、元々リラックスさせる声質ではあるんだよな」
「エバーグリーンというか、あんまり世代を問わないというか……長く活躍する歌い手になるって、トライトーン……当時のレコード会社もかなり期待していたの」
「そんなに……」
「でもね、minami、歌手になるつもりなんて最初は全然なかったんだよ」
岸さんはコーヒーを入れながら、懐かしむように言った。
「高校の文化祭でさ。ただ頼まれて歌ってただけだった」
「断れなかったんでしょうね。美波ちゃん、そういうところあったから」
確かに、体育館のステージに立つ母の姿はうまく想像できない。
でも、断り切れず、困ったように笑いながらマイクの前に立つ姿なら、なんとなく思い浮かぶ。
「最初は『誰?』ってざわざわしてたんだけどな」
岸さんは笑った。
「歌い始めたら、みんな呑まれて静かになった。歌い終わったあともしばらく誰も喋らなかった。本人はそんなつもりなかったんだろうけど……見ててすっげぇ気持ちよかったよ」
「それで猛アタックしたんだもんね」
「そう。この声だ! って思ったんだよ」
「そうだったんだ」
「ええ。あの子、自分のために歌う子じゃないもの。岸くんの押しに負けたの」
「だってさ……説明できないんだけどさ。間違いようがないんだよ」
橋本さんに呆れ気味に視線を向けられ、岸さんは苦笑している。
「無意識に探してたパズルのピースが、声の形でそこにあったって感じで……」
「正直、あの時の大輔くんの興奮具合引くレベルだったし。そりゃ美波ちゃんも頷いちゃうわ」
そういうことか。母さんが歌手になる理由はいまいち実感できていなかったけど、それなら少し分かるかもしれない。
「すごい。録音とか残ってないんですか?」
「ないね。昔はスマホもないし、動画は気軽に撮れなかったからさ」
橋本さんも小さく頷いて、カップをソーサーに戻した。
「……それでね、当時は今よりもっと、“女子高生シンガー”って肩書きが売れたのよ。だから社長はどうしても早くアルバムを出したかった」
「録り直すって話も出てたんだがな。でも社長がminamiの意向を無視して押し切った」
「社畜が当たり前で、パワハラやモラハラって言葉もなかった時代だから、みんな疲れていたの」
そして社員が眠り、事故があって、歌の噂が出始めた。
「掲示板の書き込みも絶対社員だよ。週刊誌に喋ったのも、運送会社に漏らしたのもそうだったし」
岸さんと橋本さんは当時の不満をつらつらと吐き出し始め、ハッと気づいて止めた。
「青少年に聞かせる話じゃなかった。ごめんなさいね」
「いえ……」
岸さんが苦い顔をして、橋本さんは小さく肩を竦めた。
「あの頃の業界は雑だったのよ。売れると思ったら、とにかく出してたから……現場も会社もかなり混乱しててね。止めるかどうか判断がつかないまま、関係者の間で音源が一部流れちゃったの」
「掲示板で噂になって、それを週刊誌が拾って、社内の誰かが余計なことまで喋った。もう収拾がつかなくなって、正式に出す前に回収。そのままお蔵入り……って流れ」
「どうにかしたかったけど、眠っている間に全部、終わっちゃってた。置いていかれたみたいで、しばらく現実味がなかったの」
橋本さんは「申し訳なかった」と小さく零し、机の上に置いた手をゆっくり組み直した。この人もまた、後悔を抱えたままここにいるんだと思った。
「橋本さんのせいでは……」
「……それで、眠った時のこと――本題なんだけどね」
どう返していいか分からないなりに何かを言おうとしたけど、それより先に橋本さんの声の調子が変わった。さっきまで気にならなかったピアノの音が近くなり、急に遠くへ下がっていく。
「美波ちゃんは否定してたんだけど……私、目が覚めた時、歌を聞いた気がするのよ」
「歌……?」
「ええ。はっきり覚えてるわけじゃないの。ただ、目が覚めた時、すぐ傍で誰かが歌っていた気がして」
「minamiの?」
「そう」
「だからね。あの歌は、眠りに落ちるだけの歌じゃなかったんじゃないかって、ずっと思ってたの」
岸さんは何も言わず、ただ、小さく息を吐く。
グラスの氷がひとつ、ぱきんと鳴った。
何かが引っかかった。橋本さんの一言が、頭の中でリフレインのように繰り返され、心の奥に小さな波紋が広がっていく。
店の中がすっと静かになって、その静けさの中、俺の頭には母さんのノートが浮かんでいた。
――水の中の泡沫は言葉のかたち
見比べていて気づいたことがある。ノートの歌詞は、アルバムのSilent Tideよりも言葉が多い。全く同じではないのに別の歌として切り離すこともできない。途中までは同じ場所を流れているのに、どこかから先に進みかけて、そこで止まっているみたいだった。
だからあの歌には、まだ先がある気がしていた。でも母さんが書いたものは途中で終わっている。Silent Tideはそこで閉じている歌に聞こえるのに、橋本さんの話を聞いたあとだと、そこが終わりではないようにも思えてくる。終わっているはずなのに、どこかでまだ待っているみたいだった。
「……続き、あるいは……」
続きというより、止まったままの歌の、その先。
眠りへ落ちるところで途切れた歌に、まだ先があるのだとしたら。
言葉はそこで止まり、考えが形になる手前で揺れていた。もし母さんが、眠りに落ちた人を呼び戻すための歌を歌っていたとしたら、あのノートに残っている言葉は、その欠片なのかもしれない。
「……凪?」
伊織の声ではっとすれば、いつの間にか三人ともが俺を見ていた。
「いや……」
続きを言いかけて、俺は迷った。
母の歌の続きを。
そんなこと出来るはずがない。
でも、俺はあのノートを見つけてから、何度も何度も読んだ。それは心のどこかで、ずっと言葉の続きを探していたのかもしれない。
「……もし、あの歌に続きがあるなら」
大きな声ではなかった。
「それを」
歌えば。
それを口にした瞬間、何かが決まってしまう。助けを求めるように視線を彷徨わせると、伊織と目があった。
伊織は何も言わない。ただ、静かに俺を見ていた。
そうだ。伊織のお姉さんは、まだ眠っているんだ。
俺は、喉の奥に残っているざらつきをなめすように、小さく息を吸った。
「……試してみる価値は、あるかもしれない」
伊織は何も言わなかった。
でも、そっと安心したように息を吐いていた。
