「……こんにちは」
こわごわ店に入ると、コーヒーの匂いがして、スピーカーからは控えめな音が流れていた。その変わらなさに安心しかけたところで、岸さんが「ああ、ちょうどよかった」と顔を上げた。
サブスクで歌が流れてしまう件については、サブスクの会社に送られていた古い音源データの中に、Pale Shoreの音源が紛れ込んでいたらしい。特集用にまとめてデータ化されたものの中に、タイトル情報の壊れた音源が混ざっていて、それがランダム再生で流れていたらしい。
「同じ曲でも、当たる人と当たらない人がいるみたいなんだよ。完全に事故だな」
岸さんは溜め息混じりに言った。それだけ聞くと簡単な話みたいで、逆に現実味がなかった。
「こっちは……」
「――お姉さんの目が覚めなかっただけじゃなくて、伊織くんが眠りそうになった、と……」
高瀬が眠りかけたことを伝えると、隣で本人が小さく頷く。岸さんは腕を組んだまま、しばらくカウンターの木目を見ていた。
「あの歌――Silent Tide……どうしてあの歌で、こんなことが起こるんでしょう」
癒しの効果なら、アルバムのほかの歌だって同じはずなのに。どうしてあの歌だけ、こんなことが起こるんだろう。
「……あれはね」
岸さんは静かに言った。
「minamiの母親が入院してた頃に、書いた歌詞だ。minami、病室でよく歌ってたんだって。お母さん、minamiの歌が好きだったから」
岸さんのその言葉に、病室の母さんと自分の姿が浮かぶ。
ばあちゃんは、母の歌を聞くのが好きだったらしい――母さんと、一緒だ。
「Silent Tideは、minamiの母親のための歌なんだ……だからあの歌だけは、他と違うんだよ」
「そうなんですか」
「普通は、先に曲を出して、言葉を乗せる。でもSilent Tideは先に歌詞があった。渡されたとき、ほとんど形になってたから、それに音を当てただけなんだ」
岸さんはそこで言葉を切った。
「だから、あれは……」
岸さんは一度だけ言葉を切って、視線を落とした。
「……あの頃からかな。歌う前に、間ができるようになってさ」
岸さんはそれ以上続けなかった。
母さんが、ばあちゃんのために書いた歌。そう思うと、さっきまでの歌が違うものに思える。
「あれは、人を眠らせる歌じゃない。安らかに眠れるようにという、祈りだったんだと思う」
「祈り……」
言葉にすると簡単なのに、実際の重さがうまく掴めない。
「だからこそ、長く触れすぎると、戻る場所まで曖昧になるのかもしれない」
水の中の泡沫は言葉のかたち
触れれば消える 祈りみたいに
歌詞のひとつにそんな言葉があった。
他のはもっと難しい言い回しをしているけど、これは違う。Silent Tideの言葉は、比較的まっすぐだ。
「……ただ、祈りってさ」
岸さんは微かに笑った。
「時々、思いが強すぎるんだよ」
岸さんの声は落ち着いているのに、言っていることだけが少し現実から浮いていた。でも、その浮き方は妙に現実味を持っていた。
ばあちゃんのために歌った母さん。
そして今は、眠っている伊織のお姉さん。
同じ歌が、同じ場所で止まってしまっている。岸さんはしばらく考えてから、スマホに手を伸ばした。
「橋本さんに連絡してみようか。トライトーンが合併した時に退職して田舎に帰ったから、すぐは無理かもしれないけど」
「どなたですか?」
「Pale Shoreの担当だった人で……minamiの歌で眠った当事者だ」
一瞬遅れて、その言葉の意味が頭に届く。
眠りに落ちた当事者と会う。伊織のお姉さんのことが頭に浮かび、少しだけ怖かった。でも、もう話は進んでいるし、言い出したのは俺だ。今さら引き返す理由はなかった。
伊織も俺も何も言えない。その沈黙を押し戻すみたいに、岸さんは軽く手を叩いた。
「よし。話は一旦そこまでにして、ご飯食べよっか」
「え?」
「メニューにあるやつなら何でもいいよー」
さっきまでの話が嘘みたいに、店の中の音が戻ってくる。確かに抱えたまま帰れそうにはないけれども。勢いに押されて頼んだ料理を待つ間、何を話せばいいのか分からない。俺が黙っていると、向かいで伊織が水のグラスを持ち上げた。
「……岸さんの店ってさ、なんか落ち着くよね」
「……そう?」
言われて店の中を見回してみる。特別静かというわけでもないし、音楽も流れている。大体喫茶店ってこういうものだと思うけど。
「音がちょうどいいっていうか」
「音?」
「会話の邪魔しないくらいの音」
そう言われて、流れているギターの音を意識してみると、確かに意識しなければ流れていることも忘れるくらいの音だった。
「……そうかも」
頷くと、伊織は満足したのかグラスを置いた。
「でしょ」
それきり会話は続かなくて、また間が空きそうになる絶妙なタイミングで、皿が運ばれてきた。
目の前にはオムライス、向かいでは鉄板の上でナポリタンがじゅっと音を立てていた。鉄板の音とケチャップの匂いが、重い話を一度遠ざけてくれるみたいだった。
「やった。こういうの好きだけど、家じゃあんまり出ないんだよ」
「そうなの?」
「うん。バランス重視っていうか……美味しいんだけどね」
伊織はチーズをたくさん振りかけてフォークを手に取り、嬉しそうに笑っている。
「こういうちょっと偏ってるご飯、美味しい」
「偏ってるとか言うなよ」
「だって絶対これ、野菜足りてないでしょ。カロリーも多いし」
そのあとは軽く言い合いながら、一口食べて、伊織は嬉しそうにきゅっと目を細めた。さっきまでの話題に戻ることはなかった。食べて、他愛のない話をして、いつも通り店を出る。
――実際に眠った人に、会うことになるかもしれない。
外の空気は軽いのに、その考えだけが心に沈んだまま動かない。考えようとすると、またあの旋律が浮かぶ。
さっきの話も消えたわけじゃない。ただ、もう考えないふりをしても、先に進むしかないところまで来ているんだろう。
こわごわ店に入ると、コーヒーの匂いがして、スピーカーからは控えめな音が流れていた。その変わらなさに安心しかけたところで、岸さんが「ああ、ちょうどよかった」と顔を上げた。
サブスクで歌が流れてしまう件については、サブスクの会社に送られていた古い音源データの中に、Pale Shoreの音源が紛れ込んでいたらしい。特集用にまとめてデータ化されたものの中に、タイトル情報の壊れた音源が混ざっていて、それがランダム再生で流れていたらしい。
「同じ曲でも、当たる人と当たらない人がいるみたいなんだよ。完全に事故だな」
岸さんは溜め息混じりに言った。それだけ聞くと簡単な話みたいで、逆に現実味がなかった。
「こっちは……」
「――お姉さんの目が覚めなかっただけじゃなくて、伊織くんが眠りそうになった、と……」
高瀬が眠りかけたことを伝えると、隣で本人が小さく頷く。岸さんは腕を組んだまま、しばらくカウンターの木目を見ていた。
「あの歌――Silent Tide……どうしてあの歌で、こんなことが起こるんでしょう」
癒しの効果なら、アルバムのほかの歌だって同じはずなのに。どうしてあの歌だけ、こんなことが起こるんだろう。
「……あれはね」
岸さんは静かに言った。
「minamiの母親が入院してた頃に、書いた歌詞だ。minami、病室でよく歌ってたんだって。お母さん、minamiの歌が好きだったから」
岸さんのその言葉に、病室の母さんと自分の姿が浮かぶ。
ばあちゃんは、母の歌を聞くのが好きだったらしい――母さんと、一緒だ。
「Silent Tideは、minamiの母親のための歌なんだ……だからあの歌だけは、他と違うんだよ」
「そうなんですか」
「普通は、先に曲を出して、言葉を乗せる。でもSilent Tideは先に歌詞があった。渡されたとき、ほとんど形になってたから、それに音を当てただけなんだ」
岸さんはそこで言葉を切った。
「だから、あれは……」
岸さんは一度だけ言葉を切って、視線を落とした。
「……あの頃からかな。歌う前に、間ができるようになってさ」
岸さんはそれ以上続けなかった。
母さんが、ばあちゃんのために書いた歌。そう思うと、さっきまでの歌が違うものに思える。
「あれは、人を眠らせる歌じゃない。安らかに眠れるようにという、祈りだったんだと思う」
「祈り……」
言葉にすると簡単なのに、実際の重さがうまく掴めない。
「だからこそ、長く触れすぎると、戻る場所まで曖昧になるのかもしれない」
水の中の泡沫は言葉のかたち
触れれば消える 祈りみたいに
歌詞のひとつにそんな言葉があった。
他のはもっと難しい言い回しをしているけど、これは違う。Silent Tideの言葉は、比較的まっすぐだ。
「……ただ、祈りってさ」
岸さんは微かに笑った。
「時々、思いが強すぎるんだよ」
岸さんの声は落ち着いているのに、言っていることだけが少し現実から浮いていた。でも、その浮き方は妙に現実味を持っていた。
ばあちゃんのために歌った母さん。
そして今は、眠っている伊織のお姉さん。
同じ歌が、同じ場所で止まってしまっている。岸さんはしばらく考えてから、スマホに手を伸ばした。
「橋本さんに連絡してみようか。トライトーンが合併した時に退職して田舎に帰ったから、すぐは無理かもしれないけど」
「どなたですか?」
「Pale Shoreの担当だった人で……minamiの歌で眠った当事者だ」
一瞬遅れて、その言葉の意味が頭に届く。
眠りに落ちた当事者と会う。伊織のお姉さんのことが頭に浮かび、少しだけ怖かった。でも、もう話は進んでいるし、言い出したのは俺だ。今さら引き返す理由はなかった。
伊織も俺も何も言えない。その沈黙を押し戻すみたいに、岸さんは軽く手を叩いた。
「よし。話は一旦そこまでにして、ご飯食べよっか」
「え?」
「メニューにあるやつなら何でもいいよー」
さっきまでの話が嘘みたいに、店の中の音が戻ってくる。確かに抱えたまま帰れそうにはないけれども。勢いに押されて頼んだ料理を待つ間、何を話せばいいのか分からない。俺が黙っていると、向かいで伊織が水のグラスを持ち上げた。
「……岸さんの店ってさ、なんか落ち着くよね」
「……そう?」
言われて店の中を見回してみる。特別静かというわけでもないし、音楽も流れている。大体喫茶店ってこういうものだと思うけど。
「音がちょうどいいっていうか」
「音?」
「会話の邪魔しないくらいの音」
そう言われて、流れているギターの音を意識してみると、確かに意識しなければ流れていることも忘れるくらいの音だった。
「……そうかも」
頷くと、伊織は満足したのかグラスを置いた。
「でしょ」
それきり会話は続かなくて、また間が空きそうになる絶妙なタイミングで、皿が運ばれてきた。
目の前にはオムライス、向かいでは鉄板の上でナポリタンがじゅっと音を立てていた。鉄板の音とケチャップの匂いが、重い話を一度遠ざけてくれるみたいだった。
「やった。こういうの好きだけど、家じゃあんまり出ないんだよ」
「そうなの?」
「うん。バランス重視っていうか……美味しいんだけどね」
伊織はチーズをたくさん振りかけてフォークを手に取り、嬉しそうに笑っている。
「こういうちょっと偏ってるご飯、美味しい」
「偏ってるとか言うなよ」
「だって絶対これ、野菜足りてないでしょ。カロリーも多いし」
そのあとは軽く言い合いながら、一口食べて、伊織は嬉しそうにきゅっと目を細めた。さっきまでの話題に戻ることはなかった。食べて、他愛のない話をして、いつも通り店を出る。
――実際に眠った人に、会うことになるかもしれない。
外の空気は軽いのに、その考えだけが心に沈んだまま動かない。考えようとすると、またあの旋律が浮かぶ。
さっきの話も消えたわけじゃない。ただ、もう考えないふりをしても、先に進むしかないところまで来ているんだろう。
