セイレーンは朝を歌う

「ただいま」
「おかえり」
 家に帰ると、父さんが帰って来ていた。何も聞かれなかったけど、今はそれがありがたい。帰ってからも、歌と高瀬のことが頭から離れない。思い出そうとしなくても勝手にフレーズが浮かんでくる。
 岸さんは「心が弱っている人が聞くとよくないかもしれない」と言っていた。その言葉を思い出すたび、病院で眠りかけた高瀬の横顔が一緒に浮かぶ。うまく順番にはならないのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
 高瀬はかなり弱っている。無理もない。喧嘩して酷い言葉をぶつけた直後にお姉さんが眠ってしまい二ヶ月も眠っている。ずっと必死になって目を覚ます方法を探しているのに、どれもこれも効果がない。歌に望みを託していたのに、それも叶わなかった。
「何か……」
 何かもっと、俺にできることはないだろうか。
 そう考えれば考えるほど、母さんの歌が頭の中で何度も繰り返され、なかなか眠れない。あの旋律を思い出すたび心がざわつく。落ち着くはずなのに、目を閉じてはいけないと思ってしまう。
 あの歌を聞き続けていたら、本当に目が覚めなくなったんだろうか。
 ……高瀬は、大丈夫だろうか。
 スマホを手に取って、連絡しようとしてやめた。何て送ればいいのか分からない。大丈夫かと聞いたところで気を使わせてしまうだろうし、こっちだって大丈夫じゃない。
 考えるのを止めようと画面を伏せると部屋の暗さの中で耳だけが妙に冴えて、エアコンや扇風機の風の音まで、歌の続きを薄くなぞっているみたいに聞こえる。止まったはずなのに、まだどこかで続いているようだった。
 結局、その日は連絡できず、翌日何とか高瀬に連絡し、駅で待ち合わせることになった。父さんには、高瀬と出かけることだけ伝えたけど、「気をつけてね」と言われただけだった。
「高瀬、あの後大丈夫だった?」
「伊織」
「え?」
「伊織。あの時は名前で呼んだじゃん」
 会って早々苗字ではなく、名前で呼べと。高瀬は歩みを止めないまま、視線だけ俺に向けた。
「あれは……とにかく声掛けしなきゃって思ったから……」
 意味を掴みかねて、ごにょごにょと言い訳めいたことを口にしてしまう。自分でも何を言っているのか分からなかった。
「……大体、名前呼ばれるのあんまり好きじゃないんじゃなかったっけ」
「からかったりするような奴はね。でも凪は違うし」
 足が一瞬もつれそうになって、危うくつまづくところだった。「凪は違う」の意味を咀嚼しようとするけど、うまくできない。ただ、呼び方が変わっただけで、距離の取り方まで曖昧になる。伊織はそれを特別なことのように言わなかった。だからこそ、どう受け取ればいいのか分からなかった。
「……じゃあ、伊織」
「うん」
 高瀬――伊織は満足そうに頷いて、にこにこしている。病院であんな顔を見たあとだから、そのいつも通りみたいな笑い方にほっとした。
「……それで、体調は大丈夫なのかよ」
「大丈夫。健康体だよ」
 何がそんなに嬉しいのか分からないが、元気なら何よりである。
「ならいいけど……じゃあ、行こうか」
「あ、でも……」
「でも?」
「もう一度、聴いておきたいかもしれない」
 そう言われて、すぐには返事が出なかった。前みたいに伊織が眠りかけるかもしれないと思うと怖い。それでも、怖いまま終わらせる方がもっと嫌だった。
「……じゃあ、うちで聴いていこうか」
 声が、歌が。誰かの意識を遠くへ連れていくあの瞬間が忘れられない。それでもふたりとも聞いておきたいという気持ちが勝って、CDを返しに行く前に、もう一度だけ歌を流してみることになった。止めておいた方がいい気もしたけど、それでも確かめておきたかった。
 それに、多分。二人いれば大丈夫だろう。
 家に戻り、リビングで再生ボタンに指をかけたまま止まり、母さんのノートの表紙を一度だけ撫でた。開けば何か分かるわけでもないのに、そうしないと音を迎えられない怖さがあった。聞くの自体を止めておく選択もあるけど、そっちはもう選ばない。
 ノートと歌詞カードを広げ、再生ボタンを押す。静かな旋律が部屋の空気にゆっくり溶けていき、やがてSilent Tideが流れ始めた。
 揺れる水面のような緩やかな歌に耳を澄ませていると、音が遠くへ引いていくような感覚に陥る。手を引かれるみたいに、静かに沈んでいく――その感覚に耐えきれず、思わず伊織を見る。
 伊織はしばらく黙って聞いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「――大丈夫」
「眠くならない?」
「うん。あの時とは違う……凪のおかげだと思う。引き込まれる感覚が、止まってる」
「……そっか」
 俺もあの時とは違う気がした。同じように聴いているはずなのに、昨日みたいに委ねようとはしていない。
 改めて聴いてみても、どの歌も優しくて切なくて、綺麗だ。母さんがこんな歌を歌っていたなんて。
 なのに、どうしてこの歌は。
 窓の光が、部屋の床をゆっくり動いていた。歌は終わったはずなのに、部屋のどこかでまだ続いている気がする。
 伊織は壁にもたれながら、無意識に指先で小さくリズムを取っていた。
 気がつくと、俺も小さく旋律をなぞっていた。歌うつもりはなかったのに、止めようと思うより先に、喉が勝手に音を拾っていった。声を重ねた瞬間、さっきまで流れていた歌が、別の場所へずれたみたいだった。音をなぞっているつもりなのに、どこか少しずつ違っていて、歌と今の音が重なりきらない。
「……」
 伊織はリズムを取るのを止め、ただそれを聞きながら俺の声の方を見ていた。自分が歌っていたことが、急に気まずく恥ずかしくなる。
「……似てる」
「え?」
「minamiに」
 そう言って、伊織は黙り込んでしまう。
「……いや、同じじゃないけど」
 そこでまた言葉が切れる。考えながら喋っているみたいだった。
「でも、同じ歌じゃ駄目なら……似ているけど、違う歌を」
 何となく考えを遮ることができず、隣で伊織のひとりごとを聞く。インターホン越しに最初に伊織と話したときのことを、ふと思い出した。
「……凪は、歌えるんじゃないか」
「え?」
「……同じ歌じゃなくていいなら」
 そのとき、遠くなっていた蝉の声が急に戻ってきた。さっきまで遠くにあったものが、一気に現実に引き戻される。
 確かにあの歌には、まだ続きがある気はしていた。でも、誰が歌うって。
 俺は何も返すことができず、ノートを閉じる。表紙の感触だけが指先に残った。