セイレーンは朝を歌う

 ここへ来るまでは歌の話だったのに、ドアの前に立つと急に人ひとりの時間を前にしている気がした。一枚向こうに人がいるだけなのに、そこまでが遠い。けど、高瀬は躊躇いなくドアを開けた。
 病室の空気は昼間なのに、光が届ききっていない。カーテンは半分だけ閉じられていて、窓際の光が白い床に四角く落ちて、水の匂いと薬品の匂いが混ざり合っている。棚の上には夏を切り取ってきたような鮮やかな花が飾られていた。けれど花びらの端は萎れかけている。静かすぎて、ここだけ外と切り離されているみたいだ。
 ベッドの上で、高瀬のお姉さんは静かに眠っていた。いや、眠っているというより、そこに時間ごと置かれているみたいだった。高瀬によく似た顔の色は白く整いすぎていて、呼吸しているはずなのに、胸の上下はほとんど分からない。枕元の心電図の音だけが、規則正しくそこに生きていた。
「こんにちは……」
 返事が返ってこないと分かっていても、口をついて出てしまう。その瞬間、ベッドの上の手がわずかにだけ震えた。気のせいかもしれないと思ったのに、目がそこから動かなかった。
 点滴とベッド脇の機械が小さく音を重ねている。整いすぎた静けさのせいか、この場所だけ時の流れが淀んでいるみたいだった。
 近づくだけなのに、やっぱり遠く感じる。ベッドまでの数歩が、廊下を歩いてきた時よりずっと長い。
 立ち止まったままの俺の横を、高瀬は迷いなく通り過ぎ、ベッドの脇まで歩いていった。
「姉さん」
 高瀬がお姉さんを呼ぶ声は、普通だった。いつもこんな風に呼んでるんだろうなと想像できる呼び方だった。
 お姉さんの返事はない。それを当然と思っているのか、高瀬は気にした様子もなく、身をかがめて指先を重ねた。
 でも、何も返ってはこなかった。
「……流してみよう」
 再生ボタンを押したCDプレーヤーから流れ出した声は、思っていたよりも小さかった。それでも部屋の奥まで染み入るように広がっていく。壁やカーテンに触れて、遅れて返ってくるみたいに、同じ旋律が重なっていく。
 その中で、ひとつだけ変化があった。
「姉さん……!」
 高瀬の声が強くなる。ベッドの上のお姉さんの瞼が、かすかに震えた。閉じられたままの目の下で、何かが動いたように見えた。
 呼吸は変わらない。指先も動かない。
 それでも今、確かに反応した。音は変わらず流れているのに、その変化だけが引っかかった。何かが起きる気がして期待してしまう。
 けれど、それ以上は続かなかった。何事もなかったように静かになる。
 反応した。でも、それだけだった。呼吸は変わらないし、目も開かない。期待は形になる前に崩れて、高瀬は力が抜けたみたいに椅子に座り直した。
「……もう一回、スマホで流してみよう」
 同じ音源でも、何かが違うかもしれない。そのために入れてきたんだからと声をかければ、高瀬は力なく頷いた。
 もう一度スマホで流し始めると、今度はお姉さんより先に、部屋そのものが静かになりすぎている。点滴の音も、モニターの電子音も、消えていないはずなのに、周りの音が引いて歌だけが残る。
 再生すれば、静かな旋律が戻ってくる。母さんの声は柔らかくて穏やかで、遠い。それを追うように、俺まで聴き入ってしまいそうになる。
「駄目だ……」
 ただ、高瀬のお姉さんに変わりはない。高瀬は目に見えて落胆していた。いたたまれなくなった俺は、音を追うように目線で部屋を見渡す。
 点滴、モニター、白いカーテン。何も変わっていないはずなのに、見ているうちに違和感を覚えた。波形の揺れと呼吸の間隔が歌の流れに近すぎる。偶然と言い切るには揃いすぎていた。
「……え?」
 高瀬のお姉さんの呼吸とモニターの波形、その間隔が、歌のテンポに引き寄せられている。全く同じ音じゃないし、完全じゃない。でも、まるで合わせにいっているかのように近すぎる。ふと、シーツの上でお姉さんの指がわずかに動いた。規則的に二度、三度。どこかで見た動きだった。
「なあ、高瀬……」
 俺は思わずモニターを見ながら高瀬を呼んだ。けれど何も返ってこない。
「……高瀬……?」
 見れば高瀬は、椅子に座ったままじっとスマホを見ていた。まばたきが減って、焦点が合わなくなっていく。呼吸の間隔まで、どこか歌に引かれているみたいだった。頭がすっと前に落ちる。その動きが静かすぎて、逆にぞっとした。眠る時の崩れ方じゃなくて、何かに引かれるみたいな傾き方だった。
「……高瀬、聞こえる?」
 反応がない。一気に背筋が冷たくなった。声を掛けながら傾く体を支えて肩を叩いてみるが、やはり高瀬の反応はない。
「なあ、高瀬、高瀬ってば!」 
 肩を揺すりながら名前を呼べば、かすかに反応はある。けどあまりにも弱々しい。どうしよう。どうすれば。
 一瞬だけ、そのまま委ねてあげた方が楽になれるのではと浮かんで、背筋が凍った。
「……伊織」
 それは駄目だと思った瞬間、口から勝手に名前が出た。
「伊織! 伊織……! 眠っちゃ駄目だ!」
 するとようやく高瀬はゆっくりと顔を俺に向ける。よかった。でもホッとしたのも束の間だった。
「……え?」
 でも、声がまだどこか遠い。そうだ。噂話には「歌を聴くのを途中で止めろ」とあった。慌ててスマホを止めると歌が途切れ、点滴とモニターの音以外が消える。
 それでも余韻のように何かが残っている。完全には切り離せていない。戻ってきたはずなのに、引き戻されそうな感じが消えない。
 俺は恐ろしくて高瀬から手を離すことができなかった。
「……凪?」
「よかった……」
「……もしかして……眠りかけてた……?」
「……うん」
 ようやく安心できたところでもう一度モニターを見ると、波形はまだ揺れている。
 歌と同じように。
「これ……お姉さんさ。夢の中で、ずっと歌を聴いてるみたいな感じなんじゃないかな」
「……いや、違う。歌の中に、入る感じだった」
「……入る? どういう意味だよ」
「優しく手を引かれるみたいな感覚になって、他の音が、消える。病室の機械音が、遠くなって、さっきまで聞こえていたはずの外の音も、傍にいるはずの凪の声も聞こえなくなって……」
 伊織はそこで言葉を止めた。病室の機械音が一瞬だけ、引き剥がされるみたいに遠くへ引く。
「あの歌しか、聴こえなくなる」
「……歌の中にいるなら……同じ歌を流しても」
 そこまで言って、言葉が止まる。意味がないのか、逆に深く入ってしまうのか、自分でも分からなかった。
 沈黙の中、ベッドの上で高瀬のお姉さんの指先が、リズムを取るかのように小さく動いた。伊織も気づいて息を呑む。シーツの上で動いた指先は、ただ痙攣したというより、何かの拍を探るみたいな動きだった。
 俺は恐る恐るスマホを見つめた。ちゃんと止まっているのに、まだ同じ旋律が続いている気がする。止まったはずなのに、耳の奥にはかすかに歌が残っていた。
「……岸さんにお願いして、目を覚ましたって人に当たってみよう」
「……うん」
 俺達は上手く言葉にできないまま、逃げるように病室を後にする。歌は止めたはずなのに、まだ細く続いている気がした。振り返ったらまたそこへ引かれていきそうで、最後まで振り返れなかった。