セイレーンは朝を歌う

 バスを降りると、さっきまでの海の匂いが嘘のように消え失せ、代わりにアスファルトの熱気と緑の匂いがする。
 病院は白く大きく、入口の自動ドアが開くたびに清潔な冷気が外へ流れる。さっきまでCDだの歌だのと言っていたのに、ここへ来ると急に高瀬のお姉さんが眠ったままだということが、現実のこととして重くなっていく。何をするわけでもないのに、そのまま病室に入るのは落ち着かなかった。
 高瀬は何も言わず、歩くのをわずかに速めた。俺も自然とその後を追いながら、ふと廊下の端の自販機の前で足を止めた。
「ちょっと飲み物買っていい? お姉さんに会う前に汗も拭きたいし」
「あ、そうだね」
 暑い中を歩いてきたので汗もかいているし、喉も乾いている。俺は一気飲みに近い形でスポーツドリンクを飲み干した。病室に行く前だし、何となく綺麗にしておきたくて制汗シートで汗を拭っていると、高瀬も同じように汗を拭っていた。
「……お姉さんって、どんな人なの?」
 俺はひとりっ子なので、姉弟ってものがよく分からない。高瀬がここまで必死になる相手がどんな人なのか気になった。
「優しいけど、厳しい……かな。キツイってほどじゃないけど」
「厳しいんだ」
「うん。よく言えばストイック。自分の意志がはっきりしてる」
 高瀬は言葉を探すようにしてから続ける。
「褒めるより先に、直すところ言うんだよ。俺にも、自分にも厳しくて。でも、分からない顔してると結局最後まで付き合ってくれる」
 なんとなく想像はできた。面倒見はいいけど甘やかさないタイプ。あと高瀬は慣れてるだけで、多分キツめの性格をしているんだと思う。
「歌とか音楽が好きでさ。あと、意外と可愛いものも好き」
 そう言って、高瀬は一度視線を落とした。
「普段はきっちりしてるのに、手帳はめちゃくちゃで。思いついたことそのまま書いてるから、『これなんだろう……』ってよく自分で言っててさ」
 高瀬の話し方には独特の温度があった。お姉さんのことを話すとちょっとだけ口元が緩む。厳しい人だと言っているのに、その言い方はどこか大事なものを確かめるみたいだった。
「……高瀬は姉さん思いでいいやつだよな。俺、一人っ子だからさ、姉弟ってよく分かんないけど」
「……そんなことない」
「ん?」
 高瀬は短く息が抜けるみたいに笑って、それきり口を閉じてしまった。ゆっくり目を逸らして息を吐く。何かを言おうとして、やめる。やめようとして、また言いかけて唇をへの字に結ぶ。喉の奥に言葉があるけど出せないみたいだ。
 この雰囲気は自分にも覚えがある。うまく言えないことが喉の奥に引っかかっている時の、あの感じに似ていた。
 高瀬は膝の上に置いたスマホを一度持ち上げすぐまた伏せた。指先が落ち着きなくケースの端を何度もなぞり、叩く。話したくないというより、ちゃんと話さないといけないと思っているようだ。何かを飲み込み話す順番を必死に整えている。その様子から、この話が高瀬にとってそれなりに覚悟がいるものなのだと分かった。軽く返せる雰囲気ではない。俺もそれ以上急かさずに待った。
「……姉さんが眠ったの、多分、俺のせいなんだ」
「え?」
 高瀬のせい? そんな話になるとは思っていなくて、言葉がすぐには出てこなかった。
「姉さんの大学受験と俺の高校受験、被っててさ。姉さんは優秀で目標も高いから、親もそっちに力入れてた。責める気はないし、別に放っておかれてたわけじゃないけど……ちょっと、俺の方は、後回しっていうか……」
 高瀬は視線を落とし、壁にもたれかかって自嘲気味にそんなことを言ったきり黙ってしまった。絞り出すような間は途切れた言葉を探しているんじゃなくて、どう話せばいいか分からない。そんな沈黙だった。
「……俺は受かったんだけど、姉さんは落ちた。俺の祝いも控えめだった。それはまあ、いいんだけど……」
 何と相槌を打つのが正解か分からない。俺はじっと続きを待った。
「姉さん、今まで一度も失敗したことなかったんだ。ああいう風に落ち込むの初めてで、親もどう慰めたらいいか、分からない感じだった」
 高瀬のお姉さんは、滑り止めは行かずに浪人。家が微妙な空気になったのだという。
「高校に入学してしばらくして、些細なことで大喧嘩した」
 高瀬はスニーカーの爪先を見つめたまま、何度か息を吐いた。高瀬らしくないその不器用な間が、これから語られることの重さをじわじわと伝えていた。
「俺も姉さんも色々溜まってたんだと思う。今までのことを色々全部持ち出して喧嘩……『大体そこまでして行く必要ある学校なのかよ』って言っちゃって。それでその日は一言も口を利かないまま――姉さん、そのまま、起きなかった」
 顔を上げた高瀬の目は、赤くなって濡れている。泣いているわけじゃない。でもそれは、今だけ堪えているんじゃなくて、泣くのをずっと我慢している。そういう目だった。
「……岸さんが、心が弱ってる人が聴くとよくないって……傷ついてる姉さんに、俺が追い打ちをかけた。だから、別に優しくもなんともないんだよ」
「優しいじゃん。お姉さん思いだし」
 顔を上げた高瀬は驚いたように俺を見て、一度だけ小さく瞬きをする。
「だって今、こうしてる時点で、そういうことだろ」
 高瀬は言葉を見失ったみたいにまばたきをして視線を落とし、小さく息を吐く。何か言い返そうとして、結局何も言い返せない。そんな表情をしていた。
「……いいやつは凪の方だよ。お母さんの変な噂を持ってきた奴に夏休みにこうして付き合ってくれてる」
「俺だって別にいいやつなわけじゃない。母さんの名誉のためだ」
「それはそうだけど」
「……あと、俺も……母さんが死ぬちょっと前に、言われたこと……叶えてあげられなかったから」
 高瀬の言葉を聞いていると、心の襞に鈍く触られるみたいだった。
「罪滅ぼしっていうか」
 高瀬が家にやって来て母さんが歌手だったことを知ってから、俺は思い出さないようにしていた母さんの最後の方を時々思い返すようになった。弱々しくなって眠りがちになって、それでも元気だった頃と変わらず穏やかに小さく笑う。そんな母さんのささやかな願いを、俺は叶えてあげられなかった。
 その願いは父さんも知らない。心の隅に追いやっていた母さんの願いは、古傷のようにちくりと痛む。こういうものを後悔というんだろうな、と思う。高瀬もきっと同じなんだろう。
 ただ、俺のはもう取り返しがつかないけれど、高瀬の後悔はお姉さんが目を覚ませばきっと大丈夫なはず。
「だから、俺も高瀬のお姉さんが早く目を覚ましてほしいって思ってるだけ。早く起こしに行ってあげよう」
「……そうだね」
 鞄からCDとポータブルプレーヤーを出して軽く振れば、高瀬は戸惑いがちに唇の端をほんの少し引き上げる。笑うとまではいかない、頼りない形だった。
 そうは言ったものの、もしこれで何も変わらなかったら――CDケースを持つ手が、直前で止まる。
 いや。まだ試してもいないのに、最初から悪い想像をするのはよくない。立ち止まっていると余計なことばかり考えてしまいそうだった。
 高瀬も何か言いかけて、結局何も言わなかった。そのまま視線を逸らして、スマホをポケットへしまい、「行こうか」と歩き出す。俺は半歩遅れてその背中を追った。