セイレーンは朝を歌う

「普通だったら聞いても何ともないよ。でも、心が弱ってる人が聞くとよくないかもしれない」
「どういうことですか。じゃあやっぱり眠ってしまうってことでは」
「ある意味ではね」
 岸さん曰く、母の歌の系統はオルタナティブやノスタルジック、ヒーリング系のジャンルになるらしく、声質的にもリラックス効果があるらしい……が、何を言っているか若干分からない。
「minamiはさ、まだ性別がはっきりする前の子どもみたいな声質で、音域が広くて高い声も低い声も難なく出せるし、歌声に独特のゆらぎがあってさ――」
「へえ……」
「……なるほど」
 聞き返すタイミングをずっと探していたけど、話に頷くたび、タイミングはどんどんなくなっていく。
 それは高瀬もどうやら同じようで、この「なるほど」は単なる合いの手である。
「……とりあえず心地良い、癒し系の声だって理解でいいよ。だからこそ眠りの効果自体は、狙いから外れていなかったんだよ。睡眠導入音楽ってあるし」
 分かっていないのがバレてた。岸さんは苦笑いしていて、俺たちも揃って苦笑いになってしまった。
「まあ、まだ時間もあるし、試しに流してみよう。自画自賛も混じっちゃうけど、眠らせておくのが勿体ないくらい、いいアルバムだからさ」
 岸さんがCDを機械に入れ、再生ボタンを押した。
「わ……」
 最初の音が流れた瞬間、部屋の空気が変わった。どこからが音で、どこまでが空気なのか分からなくなる。黙って聴いていた方がいい気がして口を噤んだ。
 歌声とさざなみのように静かな旋律がゆっくりと寄せてくる。曲は最近の複雑なミックスではなく、声を最大限活かすような雰囲気だった。
 柔らかい女性の声。綺麗というより透き通っていて、張り上げているわけではないのに、遠くへ響いていくような声だった。
 潮が満ちてくるみたいに音だけが近づいてきて、逃げ場がなくなる。輪郭が少しずつ曖昧になって、考えるのをやめてもいい。それでいい。そんなふうに思ってしまうのが怖いのに、そのまま委ねてもいいような気がしてしまう。
 似ていると言われたことはなかったし、今まで似ていると思ったこともなかったけど、確かに自分の声を遠くから聞いているみたいだった。綺麗だとか、すごいとか、そういうありきたりな言葉しか浮かばないのに、その言葉を掴む前に歌の方が先へ行ってしまう。
 歌が終わると部屋がしんとした。静けさの中に、まだ音の気配だけが残っている。どこかまだ続いているようで、三分四十七秒は思っていたよりずっと短く感じた。
 視線を感じて隣を見ると、高瀬が指を机に歩かせながら俺を見ている。一定のリズムで指を動かしていて、何かを保っているかのようだった。
「……何」
「……実は最初さ、インターホン越しに声聞いたとき」
「聞いたとき?」
「最初に凪の声を聞いた瞬間、ここだと思ったんだ。本人かと思って」
「本人?」
「青井美波、本人かなって。でもこうやって聞くと、凪の声は凪の声だって、俺は思うかも」
「声紋っていうのもあるくらいだから、全く同じはありえないよ。でも、凪くんの声はかなりminamiに似ている」
「そうなんだ……」
 改めて母の声に似ていると言われても、まだどこか現実味がない。ただ、こうして歌の余韻の中に立っていると、自分の声の奥に誰かの影が重なっているような。それが嫌なのか、嬉しいのかは、自分でもよく分からなかった。
 やがてアルバムの曲が全て終わり、岸さんはノートパソコンを取り出した。
「CDを直に聞かせるのと、眠った時と同じようにスマホから聴かせるのと、両方試した方がいいんじゃないかと思うんだよね」
 岸さんはケースを手に取りながらそう提案してくれる。俺は言葉に甘えて、岸さんから借りたCDの全曲をスマホに取り込ませてもらった。
「とりあえず、Pale Shoreの歌がサブスクで流れてる件は、おじさんが会社に連絡取ってみるよ。権利は俺にもあるし」
「そんな簡単に連絡できるものなんですか?」
「ライブ喫茶は趣味で、本業は一応作曲家だからね。普通に取引先に連絡するだけだし。すぐ調べてくれるよ」
「ありがとうございます。では、お借りしていきます」
 俺たちが一緒に頭を下げると、岸さんは困ったように笑った。
「色々曲は書いてるけど、本名の『岸 大輔』名義の曲はPale Shoreのだけなんだよ。minamiの歌が好きだったからさ……歌う本人が悩んで苦しんで手放した歌が、こんな形で今も彷徨っているのは、俺も嫌だからね」
 岸さんの語り口は変わらず軽いけど、笑い方はぎこちない。
 本当に嫌なのだろう。大事だったものが、思いが。持ち主の手を離れて、誰かを傷つける噂として残ってしまっていることが。
 岸さんと母さんの間に何があったのかまでは分からない。けれど、あの歌を勝手に恐ろしいものとして消費されたくないと思っているのは間違いない。
 店を出ると、海からの風はぬるかった。さっきまで聞いていた歌の余韻が、まだ耳の奥に残っていて、風に流れてはいかない。耳の奥に残ったまま、消えどころを失っている。
 俺はそっと鞄の中のCDケースを指先で確かめた。
 本当にあった。
 半信半疑だった、噂の中にしかなかった母の歌が、今ここにある。俺も喋らなかったけど、高瀬も喋らない。まだ何も終わっていないと分かっているからだろう。会話がないまま、病院行きのバスだけが一定の揺れで進んでいく。エンジンの低い振動が、さっきの旋律にどこか似ている気がした。似ているだけなのに、一度そう思ってしまうと、もうただの振動には戻らなかった。