セイレーンは朝を歌う

 電車は九時過ぎに、店の最寄り駅に着いた。駅を出て電車との温度差と眩しさに一瞬景色を見失う。アスファルトは既に熱を持ちきっていて、むわりと足元を歪めていた。
 信号を渡って海沿いの道に出ると途端に潮の匂いがして、防波堤の向こうから波の音が聞こえてきた。朝の海岸通りはまだそれほど人が出ていないが、サーファーが波打ち際にいるのが見える。
 海に季節は関係ないけど、白く広がる砂浜と入道雲、明るい空に輝く海原の感想は「夏」しかない。じいちゃんちや住んでるところの近くとは違ってオシャレで賑やかそうな海だ。ついつい眺めて歩くのが遅くなると、高瀬も何となく歩みを緩めてくれている。
「あ、ごめん」
「ううん、全然」
 悪いことしたなと小走りで駆け寄ると、高瀬は「いいのに」と笑っている。
「めちゃくちゃ夏! って感じで、つい見ちゃうよね」
「うん、本当に」
 特に歩調を合わせているわけでもないのに、高瀬と俺はそんなことを話しながら自然と並んで歩いていた。
 商店街に入ると、店のシャッターはちらほら上がり始めている。それを眺めつつ、通りを抜けて路地を曲がると、目的の店が見えた。入り口に小さな黒板が出ていて「本日は午後より営業です」と、その下に出演者らしき名前がつらつら書かれている。ドアを開けると小さな鈴の音が鳴る。外の音がそこで途切れて、新しい場所に入った感じがした。
 外の眩しさとの差で、店の中は暗く見える。奥には小さなステージがあった。隙間から見えるピアノと、会話の隙間を埋めるみたいに小さく鳴るギターの音。コーヒーの香りに、機材の熱が混じった空気まで含めて、外と時間の流れが違う気がした。カウンターの奥にはCDとレコードがぎっしり詰まった棚がある。
 ただ、ライブ喫茶ってあまりイメージできていなかったけど、音楽関連のものを除けば普通に海近くのオシャレなカフェという雰囲気である。
「やあ、いらっしゃい」
 優しげな男の人がカウンターの向こうから顔を上げて軽く手を振った。
「突然すみません。お世話になります」
「……お世話になります」
 高瀬が頭を下げ、俺も慌てて軽く会釈した。
 岸さんは母さんと同年代以上だから、四十代半ばくらいだろうか。ラフなシャツに細いパンツというシンプルな格好だけど、歳の割に若く見える。おじさんというより、いかにもなカフェのお兄さんといった雰囲気だ。
 そんな感想を抱いていると、高瀬が岸さんにお土産の紙袋を差し出した。けれど岸さんはすぐには受け取らず、まず俺を見て、それから高瀬を見て、もう一度俺を見て目を細めた。何かを見つけたような視線だった。
「……もしかして」
 小さくそう言ってから、岸さんはようやく口元を緩めた。
「凪くん、minamiに声がそっくりだね」
「え? ……そうですか?」
「うん。びっくりした。言われない?」
「いえ……初めて言われました」
 確かに声は高いけど、母さんに似ていると思ったことはないし、そう言われたこともない。父さんにもじいちゃんにも言われたことはない。俺が戸惑っていると、岸さんはようやく紙袋を受け取りカウンターに置いた。
「とりあえず座って座って。コーヒー……よりはジュースがいいかな。暑かっただろうし奢るよ。苦手なものとかアレルギーある?」
「いえ、大丈夫です……ありがとうございます」
 岸さんはカウンターの向こうで作業しながら、ちらりとこちらを見る。
「それで……Pale Shoreの話だよね」
 高瀬が小さく頷いた。
「はい」
 岸さんはそこで言葉を切り、指先でグラスの縁を軽く撫でて短く息を吐く。さっきまで軽かった雰囲気と店の空気が変わり、さっきまで流れていた音まですっと引いていく。
「結論から言うと、ネットの話の大筋は合ってるよ。あと、CDもここにある」
「……え?」
「合ってる……ですか?」
「ただし、デタラメも多いけどね」
 岸さんは肩をすくめ、高瀬は前のめりになった。俺はいいことと悪いことをいっぺんに聞いた感じになって、どう反応したらいいのか分からなかった。目の前に置かれたサイダーの泡だけが呑気に弾けている。
「まず、正式発売前に回収されたって話は本当。でも呪いとか人が死ぬ歌とか、そういうのは違う。あ、冷たいうちに飲んでね」
 そう言われても、今はとても飲む気がしない。それは高瀬も同じみたいだ。グラスは汗をかくように、じわじわと濡れていく。
「ただ、CDを聴きながら運転してた人が事故を起こしたって話も本当……でも俺は歌のせいじゃないと思ってる」
 そうはいうものの、言い切るまでにわずかな間があった。断定するでも庇うでもない、知っている人間だけが持つ言い方だった。
「どうして」
「当時、長距離ドライバーの過労事故が社会問題になってた。だから……偶然が重なっただけだと思うんだよ」
 岸さんは視線を落とし、そこで一度言葉を切った。
「……ただ、その頃ちょうど社内もごたついててさ。止めるかどうか判断が遅れてる間に、関係者の間で噂が流れちゃったんだ」
「……流れた?」
「その噂が掲示板に上がって一気に広まった。それを週刊誌が拾って、“危険な歌”とか“セイレーンの歌”とか面白おかしく書かれて」
「……それで回収?」
「そう」
 岸さんはカウンター内の椅子に腰掛け、肘をつく。
「……母さんは」
 そこまで言ってから、自分が何を聞こうとしているのか遅れて分かった。岸さんは一度だけ視線を伏せた。
「歌えなくなった。随分と自分を責めちゃってね。CDが出る直前、試聴会でも眠っちゃう人がいたから、曲の差し替えと発売延期も話してたのに、結局社長が押し切ったんだよね」
「待ってください。じゃあやっぱり目が覚めなくなった人もいるってことですよね」
「うん。当時のレコード会社で担当してくれた人や社員さんが。でもちゃんと……目は覚ましたよ」
 今度も言い切るまでに間がある。まるで安心させるための言い方にも聞こえた。
「……目を覚ました? それ、どれくらいで」
「数日くらいだったと思うけど……」
 数日。なら何故高瀬のお姉さんは二ヶ月も眠っているのか。
 言葉が出ないまま、視線が高瀬と重なった。
「minamiはさ、元々そんなに表に出るタイプじゃなかったんだよ。でもあの騒ぎで、minamiのせいじゃないのに……結局完全に歌うのを止めてしまった。俺はminamiの声が好きだったから……本当に、残念だったけどね」
 高瀬が鞄から手帳を、俺がノートを出す。
「……岸さん、この歌詞、見てもらえますか」
「――水の中の泡沫は言葉のかたち」
 並べたそれに目を通した瞬間、岸さんの眉が動いた。
「……これ」
 岸さんの目が手帳とノートを往復して、壊れものに触れるみたいにノートの文字をなぞる。その指先が止まった場所を、俺も思わず目で追った。
Silent Tide(サイレントタイド)だ」
 高瀬と俺が同時に顔を上げる。
「やっぱり……!」
「アルバムの表題曲だよ。ちょっと待ってね……」
 岸さんはそう言って、棚から一枚、CDを引っ張り出した。
「これが……」
 ノート上に置かれたCDの表紙には、「Silent Tide」と書かれていて、海が写っていた。
 波打ち際を斜めから撮った写真で、遠くに二人の人影が立っている。岸さんらしき男性はギターケースを背負っていて、母さんらしき女性は海の方を向いて立っている。逆光で顔は見えず、全体的に淡く褪せていて昔のカメラで撮ったようなアナログ感が強い。
「……これが。あの、お借りできるんですか」
「うん。ただ……CD、貸すのはいいんだけど、聞くときには気をつけてね」
「え……」