セイレーンは朝を歌う

「篠原くん、聞こえていますか?」
 イヤホン越しに、担任が呼ぶ声。画面の右下で名前が点滅しているのを見て、一拍間を置いてミュートを外した。
「……はい……おはよう、ございます……」
 言い終わりの音が遅れて落ちる。押し下げるようにして、いつもより半音ほど低く声を出したのに、それでも高く響いてしまって唇をきつく結んだ。誰かが小さく笑った気がした。画面の向こうの様子はほとんど分からないから、そういうことにしている。
 俺は自分の声が嫌いだ。高くて、細くて、頼りない。
 低く出したつもりでも、思っているよりずっと高い。電話に出ると、よく「奥様ですか」と言われる。間違いに気づいた相手が慌てて謝るとき、胸の奥に細い棘みたいなものが残る。
 まだ入学して間もない頃のことだった。誰も馴染んでいない教室で出席番号順に座って、みんなが順繰りに自己紹介をして、言われたとおり自分のことを少しずつ開示していく。聞く側も反応様々である。
 ところが俺の番がきて声を出した瞬間、周りの視線がうるさくなった。
 最前列の男子がぴくりと眉を動かした。さっきまで退屈そうにしていた数人の目がこちらを向いて、女子の一人が口元に手を当てた。あくびかもしれなかったけど、多分そうじゃなかった。
 悪いことに篠原という苗字は教室の四方から見られる位置だ。周りの反応で「ああ、そうだった」と思い出してもあとの祭り。嫌でも口を動かし続けるしかなかった。
 名前、出身の中学、入りたい部活。声が小さくなって途切れる前に終わってしまえと早口で頑張ったけど、上手くできてはいなかった。
 隣の男子がこちらを見ずにふっと息を抜いた。笑い声ではなかった。でも笑い声だった。
 それでも何とか言い終え、次の生徒が立ち上がって低い声で喋り始めると、教室の空気は元に戻り、自己紹介は続いていく。
「――あの声さ」
 後ろからくぐもった笑い声が聴こえるが、振り向いたときにはもう誰も笑っていない。続きは聴こえないけど分かってしまう。直接何かを言われたわけじゃない。それでも笑われていると分かる。
 中学までは顔を知っている相手が多かったからか、多少からかわれても平気だった。というより、母の病院と学校を往復していたから気にしている余裕もなかった。
 でも高校では、ほとんどの人が俺を知らない。ただ「変な声のやつ」として認識されて、教室で発言するたび喉がひっくり返りそうになる。自分が声を出したあとの囁きが全部自分のことみたいに聞こえる。廊下で笑い声がすると、その音だけやけにくっきり聞こえて自分のことを言われている気がしてしまう。
 話すときはできるだけ短く、笑わないように目立たないように。気づけばマスクを外せなくなって、喋るどころか声を出すこと自体が怖くなっていた。誰にも何も言われていないのに、勝手に疲れて全部から離れたくなった。頑張って勉強して入ったばかりの高校なのに、一学期の途中から学校に行けていない。
 オンラインで授業は受けさせてもらっているから遅れはない。でも、このままじゃよくないとは思っている。
 ホームルームが終わり、担任の声が「以上で」と締めくくった瞬間教室がざわつく。ブラウザを閉じると、黒くなった画面に自分の顔が映る。
 やっと終わった。パソコンを閉じれば、ぬるっと夏休みが始まる。
「……疲れた」
 自分で出した声なのに他人のものみたいだ。録音でも何でもないのに、耳の奥で一瞬だけ遅れて返ってくるような感じがして、そのたびに心に靄がかかったみたいになる。
 それもこれも全部、この女みたいな声のせいだ。声変わりはそのうち来ると思っていたが、そのうちが一向に来ない。
 夏休みのうちに、低くなってくれたらいいんだけど。
 溜息を吐いてイヤホンを外した瞬間、さっきまで聞こえていた音が一気に遠のくはずなのに、何かが残った。音が途切れたはずなのに、ほんの一瞬だけ遅れて何かが追いついてくる。何かは分からない。気のせいだと思って耳を塞ぐと、それも一緒に消えた。それまで聞こえていたものはうまく思い出せない。
 父さんは仕事でいないしテレビもついていない。冷蔵庫の低い唸りとエアコンの風、朝と同じ高さで鳴き続ける窓越しの蝉。扇風機が首を振りながら夏の空気を切り刻み、一定の間隔で風が触れては離れ、音が遠のく。いつも通りの家の音だった。
 一応真面目に着ていた制服のボタンを上から順に外していくと、首や胸のあたりに溜まっていた熱がほどけていく。引き出しからTシャツを取り出して袖を通すと、布が肌に触れる感触がいつもより軽い。下もハーフパンツに変えれば、すっかり家の装いである。
 夏休みの初日だというのに家の中は妙に静かだった。
 やることがないわけじゃない。宿題だってあるし、父さんには「できるだけ外には出た方がいい」とも言われている。
 でも、今日はまだ、何もする気になれなかった。
 のそのそキッチンのシンクを覗いて、昨日の洗い物が残っていないか確認すると、何もなかった。昼は俺一人だし、面倒だから素麺でいいや。湯が沸くまでの間、窓の外を何気なく見ると、高い空でもくもくした夏の雲が動かずにいる。外は風もないし、かなり暑そうだ。
 家の中から始まった夏休みは他人事のよう。どこへも行けないような、それでもどこへでも行けてしまいそうな。
 そんなことを考えていると、鍋の中で小さな泡が立ちはじめた。扇のように広がった白い麺が水の中で揺れて、ゆっくりほぐれていく。とりあえずは昼ごはんを食べてからにしようと、氷水でしめてセンチメンタルも一緒に無理やり流す。薬味とめんつゆをかけていざ食べようとした瞬間、タイミング悪くインターホンが鳴った。