深淵の幼なじみ

至は、本当に、本能的と言うか、咄嗟だった。

慎重に考えたら、生身でない幽霊にグーパンが効く可能性は――極めて、極めて低い――

だが、まさに今幽霊の顔面に向い繰り出されかけたその至のグーパンの腕を、素早い動きで葵の手が掴んで止めた。

その静止に、至は一瞬動きを止めた。

幽体から出ているのだろうか?
真夏なのに凍りそうな冷気が前から来る。

至の息は、眼前のあり得ない存在で乱れて上がっていたが、そのまま叫ぶ。

「なんで!葵っ!」

すると葵は、そっと、ごく自然に、至を背後から抱き締めた。
葵の方が背が高いから、至は葵に包まれてるように見える。

ずっと――ずっと――
言葉にならない程に会いたかった葵に抱き締められ――
目の前には、幽霊がハッキリ見えて存在していた。
この状況に、至の頭はパンク寸前だった。

そんな中、葵は、背後から至の耳に囁くように呟き出した。

「安心して至。彼女は、別に俺達に危害を加えようとしてる訳じゃないよ」

「なな……なっ……何で、何で、そんな事わかるんですか?……」

至は、まだ真っすぐ幽霊を見たまま、焦りのあまり敬語に口調がバグっていた。

葵が、至の耳に吹き込むように言葉を続けた。

「さっき、この部屋の壁に手を当てて、視えたんだ、彼女の過去と今が。過去は、多分昭和の、日本が幸せで穏やかな時代だったんだろうな……この別荘も凄くキレイで、裕福そうなお父さんが、昭和の匂いのするこの部屋で新聞読んでて、優しそうなお母さんがそこに紅茶を持って来てた」

至は、黙って幽霊に視線を合わせたままそれを聞いた。

「彼女は、今と同じ黄色のワンピースを着て、昔はこの部屋にあったピアノを弾いて、窓から見える庭では4人いる弟や妹だろうな。マルチーズと一緒に駆け回ったり、ボール遊びしたり楽しそうにしてる……」

至は、ふと、今は荒れ果てた部屋を見渡し、窓の外にも視線をやった。
だが、至の貧しい想像力では、今のこの部屋と庭の惨状からとても思い描けない。

葵は、更に続ける。

「彼女が死んで、ここに来てここに居るのは、ただ、ここで過ごした日々が彼女にとって、生きている間1番幸せだったからだ」

「えっ?!」

「ただそれだけ……別に、人間に害を与えようなんて思ってない。ただ、人間が勝手にここへ来て、勝手に別荘を荒らして心霊スポットだの悪霊だの騒ぎ立ててるだけだ。彼女はこの建物が完全に朽ち果てるまで、ただ静かにここに居たい、ただそれだけだ。そしてここが朽ち果て消えたら、彼女もどこかに静かに消える。何も無かったかのように全て……」

「えっ?……」

「至は聞いた事無い?人間って死んだら、自分の一番好きだった所や思い出の深い所に行くって……」

すると――

幽霊は、何故か至達の前からスっと姿を消した。

「あっ!」

至が驚くと、葵がさらにギュっと至の背中を抱き締めた。
そして、苦しみと穏やかさの入り混じったような声で囁いた。

「至は……至は……俺の今言った事、信じてくれるか?」

あんな、恐ろしい外見の異形の者が、果たして無害なのだろうか?
至にそんな疑問が一瞬よぎった。

だが至は、そっと至を抱く葵の腕に、黒紫の禍々しい紋様の浮かぶそれに至の手を添えた。
そして、澱みなく答えた。

「信じるよ。信じる」

葵は、ハっとした表情になり、その後すぐに至を
もっともっとギュっと抱き締めた。

しかし――次の瞬間――


「なら……俺の事も信じるよな。俺が本当にいるって、存在するって事も……」

葵は、葵とは、全く違う喋り方をした。