櫻井緑(さくらいみどり)は俺が生まれた時から隣の家に住んでいた従姉弟であり幼なじみだ。
六歳年上で姉のように慕っていた彼女を、恋愛対象として見るようになったのはいつの事だっただろう。
櫻井の家に産まれた彼女はやはり音楽の道を選択し、彼女の母と同じくフルート奏者として大学で学ぶ傍らコンクールを含め幾度かステージに立っていた。
透き通った音が空気をふるわせる。その澄んだ音色の隣でピアノを弾くのが好きだった。





「……やっぱり、そうなんだね。」
勝手に見てしまってごめんなさいと、美鳥は頭を下げた。
別に、見られて困るものではないはずなんだ。
従姉弟からの結婚式の招待状。
そこに書いてある名前がたとえ他の人間であったとしても、出席がほぼ強制である事に変わりはない。
それでも、櫻井緑の名前はどうしても胸の内に影を落とす。
美鳥の大会を緑の為に諦めざるをえなかった。その事実は、美鳥飛鳥の目にはどう映るんだろう。
互いに言葉を失って、視線を合わせることすら出来ずに流れる沈黙の時間。部屋の空気は潰れてしまいそうに重かった。
「……その、わるい。ちゃんと説明してなかったから。」
何とか声を絞りだせば、そらされていた亜麻色がちらりと俺を見てから、ゆっくりと頭をふる。
「僕なんかが聞いていい話じゃなかったよね。こっちこそ、ごめんなさい。」
「っ、なんで、お前が謝るんだよ!」
苦しそうに顔を歪め俯く美鳥に、俺は咄嗟にその両肩を掴んだ。
「お前には聞く権利がある。そんな事のために大会に来ないのかって怒る権利だってある。」
「そんな、……できないよ。」
なんでだ。なんで、いつだってこいつは全て自分で被ろうとする。俺を欠片も責めることなく受け入れようとする。
肩を掴むその手に力を込めても、美鳥は顔を歪めるだけで痛いとも言わない。なんの抵抗もなく黙って俺を見つめるだけだった。
「怒っていい。辛いなら、辛いって言えばいい。」
こんなにも近くにいて、なのにこいつは何も言わない。
なんでだ。どうして何も言ってくれない。
「だって、……辛いのは、櫻井君の方なのに。」
震える声で吐露された言葉は、やっぱりこいつ自身の想いではなかった。
「だってこんなの……こんなのってないよ。……櫻井君は緑さんの事が好きなのに。」
ぐしゃりと心臓が押しつぶされた気がした。
手にしていた封筒がはらりと手から滑り落ちる。
「……なんだよ、それ。」
自分でも信じられないくらい冷淡な声が出た。
心臓が潰され、中に詰まっていた感情は全て押し流されていって。
代わりに黒く汚れた何かで満たされていく。
ジャージの裾を握りしめ、今にも泣きそうになるのを必死に耐えて。
それは、そこにあるのは、自身の苦しみでも、ましてや俺に対する好意でもなかったっていうのか。
「同情、かよ。」
淡々と告げた結論にはっと顔を上げたその胸ぐらを、俺は掴んで引き寄せていた。
「ち、ちが…」
「違わねぇだろ!俺が辛いって、可哀想だって!だから黙って俺に抱かれたって事だろ!?」
亜麻色が大きく見開かれる。細い指が咄嗟に俺のシャツの裾を掴んだ。
裾を引き、俺を見つめ。けれど、その唇が開かれる前に、俺はその手を払い落とした。
絶望に立ち尽くす身体を、俺はベッドに押し倒す。
「っ、櫻井く、」
もう、何もかもがどうでもよかった。
胸に渦巻くどろどろとした黒いものが、全てを塗りつぶしていく。
シーツに沈みこんだ身体を押さえつけるように、俺は美鳥の言葉ごとその唇を奪っていた。