放課後の教室は、静かだった。
残っているのは、おれ、姫野夏海だけ。
誰もいない教室の静けさが好きで、こうしてたまにひとりで残って、本を読んだり、勉強したりしている。
今日は何もする気になれなくて、自分の席でひとり、頬杖をついて、ぼんやりしていた。
すると、開けっ放しになっていた前のスライドドアの所で、誰かが立ち止まるのがわかった。
誰……? クラスのやつ?
人影は、男で、そいつはおれと目が合うと、ゆっくり教室内に入ってきた。
……クラスのやつじゃない。
そいつは、いくぶん長めの金茶色の髪をしていた。
うちの学校には校則はないから、結構髪の色で遊んでいるやつもいるけれど、ここまで目立つ色をしているやつはあまりいない。
かなりの長身、黒のフード付きのプルオーバーにデニム。
左の耳元がキラめいているのは、いくつかつけたピアスのせいだ。
とんでもなく、顔立ちの整った男だった。
モデルとか芸能人並みにカッコいい。
はっきりとした彫りの深い目鼻立ちから、ハーフかクォーターだろうと思った。
こんなに目立つやつ、うちの学校にいたっけ?
すると、そいつが口を開いた。
「姫野……?」
「……」
「姫野、だよな……」
訊かれても、おれは、何も言えない。
なんで目の前のこの男は、おれのことを知っているんだろう。
驚きで、表情も身体も固まってしまった。
そいつは、なおも言い募る。
「姫野だろ。おれだよ、おれ──」
「……」
「おれ──」
「ごめんなさい、どちら様?」
それだけ訊くのがやっとだった。
そいつの表情が、静止した。
「おぼえて、ない……?」
「……」
「姫野、マジで……」
「……」
「本当に、おぼえてない、んだ……」
ぽつりと、落ちるみたいに言われた。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、どこか拍子抜けしたような声。
――なんだよ、その言い方。
知らないやつにそんなこと言われても、困るだけだ。
「……ごめん。ほんとに、わからない」
正直にそう言うと、そいつは目を伏せて、それから小さく息を吐いた。
「そっか」
納得したような、諦めたような声音。
けれど次の瞬間、ふっと笑う。
さっきまでと違う、どこか楽しそうな笑い方。
――嫌な予感がした。
「じゃあさ」
一歩、近づいてくる。
自然に距離を詰められて、思わず背もたれに体が触れた。
「ちょっと嫌がらせしていい?」
「は?」
意味がわからない。
というか、近い。
さっきより明らかに近い。
「なんでそうなるんだよ」
「だって」
あっさりと返される。
「このまま帰したら、絶対忘れるだろ」
「いや、そもそも知らな――」
言い終わる前に、手首を掴まれた。
「っ、ちょ――」
引かれる。
距離が一気にゼロになる。
視界いっぱいに、そいつの顔。
整いすぎてるくらい整った顔が、すぐ目の前にあって。
息がかかるくらいの距離で、視線が絡む。
「これくらいしないと」
低く、落ちる声。
「印象、残んないだろ」
――なに言って。
思った瞬間。
触れた。
唇が。
ほんの一瞬。
けれど、はっきりと。
何が起きたのか理解する前に、離れていく。
「……は?」
間抜けな声が漏れた。
頭が真っ白になる。
今の、なに。
なにされた?
理解が追いつかない。
そいつは、そんなおれを見て、
少しだけ満足そうに笑った。
「これで覚えるだろ」
「は!? 意味わかんねぇって!」
ようやく声が出る。
心臓がうるさい。耳の奥で鳴ってるみたいだ。
「なんでいきなりそんなこと――」
「嫌がらせ」
さらっと言い切る。
「だからってキスするやつがあるか!」
「いいじゃん」
思わず立ち上がる。
けど一歩詰められて、逆に動けなくなる。
「……明日、わかるよ」
さっきと同じ、余裕のある声。
「なにが」
「全部」
それだけ言って、くるっと背を向ける。
「じゃあな、姫野」
軽く振り返り、手を振って、あっさりいなくなる。
残されたのは、おれひとり。
さっきまでと同じはずの教室が、妙に違って見える。
唇に残る感触が、やけにリアルで。
「……意味わかんねぇ」
思わず、そう呟いた。
翌朝。
教室に入った瞬間、空気がいつもと違うのがわかった。
ざわざわしてる。
やけに落ち着かない。
「ねえ聞いた? 編入生来るって」
「しかもめっちゃイケメンらしいよ」
前の方で女子が騒いでいる。
――編入生。
その単語に、嫌な予感がよぎった。
まさか、な。
いや、でも。
昨日のあいつの言葉が、頭の中で引っかかる。
『明日、わかるよ』
「……嘘だろ」
小さく呟いたとき、ドアが開いて、担任が入ってくる。
「はい、席つけー。今日は編入生を紹介する」
教室のざわめきが、一段大きくなる。
「入ってくれ」
その一言で、空気が変わった。
教室の視線が、一斉にドアへ向く。
そして。
入ってきた姿を見た瞬間。
時間が止まった気がした。
――昨日のやつだ。
間違いない。
あの、意味わかんないことしてきたやつ。
金茶色の髪。整いすぎた顔。
今日も同じ、余裕のある表情。
「白川朔哉です。よろしくお願いします」
落ち着いた声。
それだけで、女子の空気が一気に変わる。
「え、やば……」
「かっこよ……」
ざわざわどころじゃない。
完全にざわめきが広がる。
――いや、待て。
問題そこじゃない。
あいつ、普通に立ってるけど。
昨日、なにしたか覚えてるよな?
当然だよな?
なのに。
朔哉は、まっすぐこっちを見る。
目が合う。
にこ、と笑う。
――やめろ。
その顔、知ってる。
絶対ろくなこと考えてないときのやつだ。
「席は……姫野の隣が空いてるな。そこに座ってくれ」
担任の一言で、思考が止まった。
「……は?」
ざわつく教室の中、朔哉が、こっちに歩いてくる。
逃げ場、なし。
そして、俺の隣に腰を下ろした。
「よろしく、姫野」
小さく、囁かれる。
「……お前」
「なに」
平然としてる。
昨日のことなんて、なかったみたいに。
「昨日の、なんなんだよ」
声を潜めて言うと、
少しだけ楽しそうに、目を細めた。
「嫌がらせ」
「やめろ」
「やだ」
即答。
――最悪だ。
「あと」
さらに、少しだけ距離を詰めてくる。
「ちゃんと覚えた?」
「忘れられるか!」
即答すると、満足そうに、ふっと笑った。
「よかった」
そのまま、さらっと言う。
「これからいっぱい覚えさせるから」
「は?」
「姫野が、俺のこと」
当たり前みたいに。
逃げ場を塞ぐみたいに。
「ちゃんと忘れないように」
「意味わかんねぇって……」
小さく呟くと、朔哉は軽く肩をすくめて、前を向いた。
その横顔は、完璧な“王子様”。
さっきまでの会話なんてなかったみたいに。
――なんなんだよ、こいつ。
クラスの視線が、やけにこっちに集まっている。
ひそひそ声も聞こえる。
ふと、袖が軽く引かれる。
「なに」
小声で聞くと。
前を向いたまま、朔哉が言った。
「逃げんなよ」
「は?」
「次の休み時間、どっか行くだろ」
「行かねぇよ」
「行く」
即答。
――なんなんだよ。
「だから」
ほんの少しだけ、声を落とす。
「ちゃんと見てるから」
「……は?」
意味がわからない。
わからないのに。
心臓だけ、やけにうるさい。
――ほんとに、なんなんだよ。
昨日会ったばかりのはずなのに。
なんでこんなふうに。
当たり前みたいに、距離を詰めてくるんだ。
学校の王子様。
そんなやつに。
――なんでおれが、捕まってるんだ。
残っているのは、おれ、姫野夏海だけ。
誰もいない教室の静けさが好きで、こうしてたまにひとりで残って、本を読んだり、勉強したりしている。
今日は何もする気になれなくて、自分の席でひとり、頬杖をついて、ぼんやりしていた。
すると、開けっ放しになっていた前のスライドドアの所で、誰かが立ち止まるのがわかった。
誰……? クラスのやつ?
人影は、男で、そいつはおれと目が合うと、ゆっくり教室内に入ってきた。
……クラスのやつじゃない。
そいつは、いくぶん長めの金茶色の髪をしていた。
うちの学校には校則はないから、結構髪の色で遊んでいるやつもいるけれど、ここまで目立つ色をしているやつはあまりいない。
かなりの長身、黒のフード付きのプルオーバーにデニム。
左の耳元がキラめいているのは、いくつかつけたピアスのせいだ。
とんでもなく、顔立ちの整った男だった。
モデルとか芸能人並みにカッコいい。
はっきりとした彫りの深い目鼻立ちから、ハーフかクォーターだろうと思った。
こんなに目立つやつ、うちの学校にいたっけ?
すると、そいつが口を開いた。
「姫野……?」
「……」
「姫野、だよな……」
訊かれても、おれは、何も言えない。
なんで目の前のこの男は、おれのことを知っているんだろう。
驚きで、表情も身体も固まってしまった。
そいつは、なおも言い募る。
「姫野だろ。おれだよ、おれ──」
「……」
「おれ──」
「ごめんなさい、どちら様?」
それだけ訊くのがやっとだった。
そいつの表情が、静止した。
「おぼえて、ない……?」
「……」
「姫野、マジで……」
「……」
「本当に、おぼえてない、んだ……」
ぽつりと、落ちるみたいに言われた。
責めているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、どこか拍子抜けしたような声。
――なんだよ、その言い方。
知らないやつにそんなこと言われても、困るだけだ。
「……ごめん。ほんとに、わからない」
正直にそう言うと、そいつは目を伏せて、それから小さく息を吐いた。
「そっか」
納得したような、諦めたような声音。
けれど次の瞬間、ふっと笑う。
さっきまでと違う、どこか楽しそうな笑い方。
――嫌な予感がした。
「じゃあさ」
一歩、近づいてくる。
自然に距離を詰められて、思わず背もたれに体が触れた。
「ちょっと嫌がらせしていい?」
「は?」
意味がわからない。
というか、近い。
さっきより明らかに近い。
「なんでそうなるんだよ」
「だって」
あっさりと返される。
「このまま帰したら、絶対忘れるだろ」
「いや、そもそも知らな――」
言い終わる前に、手首を掴まれた。
「っ、ちょ――」
引かれる。
距離が一気にゼロになる。
視界いっぱいに、そいつの顔。
整いすぎてるくらい整った顔が、すぐ目の前にあって。
息がかかるくらいの距離で、視線が絡む。
「これくらいしないと」
低く、落ちる声。
「印象、残んないだろ」
――なに言って。
思った瞬間。
触れた。
唇が。
ほんの一瞬。
けれど、はっきりと。
何が起きたのか理解する前に、離れていく。
「……は?」
間抜けな声が漏れた。
頭が真っ白になる。
今の、なに。
なにされた?
理解が追いつかない。
そいつは、そんなおれを見て、
少しだけ満足そうに笑った。
「これで覚えるだろ」
「は!? 意味わかんねぇって!」
ようやく声が出る。
心臓がうるさい。耳の奥で鳴ってるみたいだ。
「なんでいきなりそんなこと――」
「嫌がらせ」
さらっと言い切る。
「だからってキスするやつがあるか!」
「いいじゃん」
思わず立ち上がる。
けど一歩詰められて、逆に動けなくなる。
「……明日、わかるよ」
さっきと同じ、余裕のある声。
「なにが」
「全部」
それだけ言って、くるっと背を向ける。
「じゃあな、姫野」
軽く振り返り、手を振って、あっさりいなくなる。
残されたのは、おれひとり。
さっきまでと同じはずの教室が、妙に違って見える。
唇に残る感触が、やけにリアルで。
「……意味わかんねぇ」
思わず、そう呟いた。
翌朝。
教室に入った瞬間、空気がいつもと違うのがわかった。
ざわざわしてる。
やけに落ち着かない。
「ねえ聞いた? 編入生来るって」
「しかもめっちゃイケメンらしいよ」
前の方で女子が騒いでいる。
――編入生。
その単語に、嫌な予感がよぎった。
まさか、な。
いや、でも。
昨日のあいつの言葉が、頭の中で引っかかる。
『明日、わかるよ』
「……嘘だろ」
小さく呟いたとき、ドアが開いて、担任が入ってくる。
「はい、席つけー。今日は編入生を紹介する」
教室のざわめきが、一段大きくなる。
「入ってくれ」
その一言で、空気が変わった。
教室の視線が、一斉にドアへ向く。
そして。
入ってきた姿を見た瞬間。
時間が止まった気がした。
――昨日のやつだ。
間違いない。
あの、意味わかんないことしてきたやつ。
金茶色の髪。整いすぎた顔。
今日も同じ、余裕のある表情。
「白川朔哉です。よろしくお願いします」
落ち着いた声。
それだけで、女子の空気が一気に変わる。
「え、やば……」
「かっこよ……」
ざわざわどころじゃない。
完全にざわめきが広がる。
――いや、待て。
問題そこじゃない。
あいつ、普通に立ってるけど。
昨日、なにしたか覚えてるよな?
当然だよな?
なのに。
朔哉は、まっすぐこっちを見る。
目が合う。
にこ、と笑う。
――やめろ。
その顔、知ってる。
絶対ろくなこと考えてないときのやつだ。
「席は……姫野の隣が空いてるな。そこに座ってくれ」
担任の一言で、思考が止まった。
「……は?」
ざわつく教室の中、朔哉が、こっちに歩いてくる。
逃げ場、なし。
そして、俺の隣に腰を下ろした。
「よろしく、姫野」
小さく、囁かれる。
「……お前」
「なに」
平然としてる。
昨日のことなんて、なかったみたいに。
「昨日の、なんなんだよ」
声を潜めて言うと、
少しだけ楽しそうに、目を細めた。
「嫌がらせ」
「やめろ」
「やだ」
即答。
――最悪だ。
「あと」
さらに、少しだけ距離を詰めてくる。
「ちゃんと覚えた?」
「忘れられるか!」
即答すると、満足そうに、ふっと笑った。
「よかった」
そのまま、さらっと言う。
「これからいっぱい覚えさせるから」
「は?」
「姫野が、俺のこと」
当たり前みたいに。
逃げ場を塞ぐみたいに。
「ちゃんと忘れないように」
「意味わかんねぇって……」
小さく呟くと、朔哉は軽く肩をすくめて、前を向いた。
その横顔は、完璧な“王子様”。
さっきまでの会話なんてなかったみたいに。
――なんなんだよ、こいつ。
クラスの視線が、やけにこっちに集まっている。
ひそひそ声も聞こえる。
ふと、袖が軽く引かれる。
「なに」
小声で聞くと。
前を向いたまま、朔哉が言った。
「逃げんなよ」
「は?」
「次の休み時間、どっか行くだろ」
「行かねぇよ」
「行く」
即答。
――なんなんだよ。
「だから」
ほんの少しだけ、声を落とす。
「ちゃんと見てるから」
「……は?」
意味がわからない。
わからないのに。
心臓だけ、やけにうるさい。
――ほんとに、なんなんだよ。
昨日会ったばかりのはずなのに。
なんでこんなふうに。
当たり前みたいに、距離を詰めてくるんだ。
学校の王子様。
そんなやつに。
――なんでおれが、捕まってるんだ。

