顔をあげて きみと歩いて




 大学内専用SNSでシャルの話題が溢れ出した頃、事件が起きた。
 シャルにじゃなく、オレに。

「ウっソ、マジ?」
「…………っ、し、ら、ぃ……さ、さん?」

 普段は忘れる同級生の名前。
 でも彼女のことは忘れようがない。

「止めて! アンタに呼ばれたくないし声も聞きたくないわ! どうしてアンタが!」
「ど、どうしてって……オレ、こっ、ここ、に、通って、い、いるから……っ」
「本気なの? キモすぎ! 同じ大学だなんて、全然知らなかったし!」
「オレも、おっ、同じ、だよ」
「はぁ? 同じ? アンタが私と同じなワケないでしょ! クズ虫のクセにふざけないで!」

 特別講義で大学の別学科のある校舎へ入った際の遭遇だった。
 今まで遭遇しなかったのは、広すぎる敷地を有する大学の別学科だったからとしか言いようがない。

 彼女は隣に立つシャルに視線を奪われながらも、過去のしがらみに震え始めたオレに眉を吊り上げた。

「クズ虫と一緒なんて……! 気持ち悪いんですけど!」
「……」
「虫のクセに大学来てんじゃないわよ! クズ虫はクズらしく、引きこもりなさい! 今すぐ大学辞めて私の前から消えて!」
「そ……、それは……さすがに」
「あーもう! こういうの本気でムリなんですけど! サイアクすぎ!」

 土下座をして謝ったって、許してはくれないだろう。
 きっと今日一日は気分の悪いまま、オレのことに時間を使うに違いない。

 彼女は小学五年の時にオレのクラスに転校してきた子だ。
 クラス総出でイジメられてなお、不登校にもならずに居続けていたオレを気味悪がった。

 感情のネジが飛んでると彼女が言うと、コイツは不良品だからしょうがないよ、なんて会話をみんながしてたかな。

 嫌悪が転じて、彼女はクラスメイトで一番の猛威を振るうことになる。

 初めは、誰でも考えるであろう罵詈雑言を並べるだけだった。
 他のクラスメイトがやっているから、そんな軽い理由でオレの頬を叩いたり髪を引っ張ったりし始めた。
 誰もしていないから、虫を靴やカバンに入れてわざわざ踏み潰した上でオレに履かせたり頭から被せたりした。
 みんなが喜ぶから、カバンで殴って転倒させるとオレの上でジャンプしたり馬乗りになって教本の角で顔を狙った。

 行き過ぎて上腕に傷が残る怪我を負わされた。
 これは問題だと呼び出された親同伴で教師を交えて話し合いをした時、事実を知り激高した親に言葉で酷く責められ彼女は泡を吹いて気絶してしまった。
 オレはと言うと、その後の報復にただ怯えて小さくなっていた。
 こんな時でも来ない母親を恨み、味方だと熱血教師面でオレの傷に触る矢荻の手に嫌悪しながら。

「聞いてるのかよクズ虫っ!」
「きっ、き、聞こえ、て、るよ」
「忘れてたのに……! さっさと消えろクズ! 死ねよクズ虫!」
「そ、そんな、こと……叫ぶと、マズい、よ」
「はぁ? 同等に話してんじゃないわよ! 人間様の言うことには無条件で従え!」
「ご、ごめ……」
「ホントなによ、今更。どうしてお前の顔見なくちゃいけないの! 相変わらずジメジメして気色悪い!」

 過去の亡霊に遭ってしまって動揺しているだけだ。
 オレとしては、動揺の怒りをぶつけられてもなんとも思わないくらいには誹謗中傷にマヒしている。
 嫌ならさっさと行けばいいし、絡むから余計に気持ち悪くなるんだろ……って、ぼんやり思っていた。

 ただし、意識とは別の記憶が恐怖を引っ張り出して身体は強張り震えている。
 なんだっけ、PTSD?
 こうして思うと、矢荻に遭遇した時のほうがダメージが大きかったな。
 余計なことを考える余裕なんてなかった。
 なによりも先に、アイツから受けた絶望がオレを絡めとった。

「失礼、レディ。よろしいですか」
「は?」
「怒りを収めてください。望まぬ再会はどちらにも非はありません。互いに、穏やかに去るべきです」
「……っ、う、煩いわね。わかってるわよ!」

 シャルは、怒りを露わにする人間の適切な対処法も学んでいるのだろうか。
 貴族だから、そういうの知っているのかも。
 引っ込みがつかなくなっている彼女を傷つけないよう、やんわりと退散させてくれた。

 用事があったとしても、二度とこの敷地には近づかないでおこう。
 また変に絡まれても面倒だし。
 彼女を嫌な気分にさせたいワケでもないし。

「彼女が邪魔なら消しますよ」
「怖いこと言うなよ。あれくらいなんでもないから」
「あなたの心の平穏を乱す者は、いつでも消す準備が私にはあります」
「遠慮するよ。先生の件でちょっと凹んだし」
「凹んだ?」
「犯罪の片棒担いだみたいで、嫌だったんだ」
「申し訳ありません。お知らせをしたほうがあなたが安心できると判断した私のミスです」

 すんなり嫌だったことを暴露してしまったけど、シャルは怒るどころか知らせたことを謝罪した。
 善意を踏みにじったとオレを責めない。
 オレのためを思ってのことなのにと、優しさを押しつけない。
 オレと自分の感覚の差がわかっているんだろう。

「オレさ、散々イジメられてたから……今みたいなこと、これからもあると思うんだ」
「はい」
「気にしなくていいよ」
「わかりました」
「……久史にも言わないでいいから」
「はい」

 普通の人なら「なぜ」と聞きそうなことも、本人が納得すれば深追いしない。
 むしろコッチに「聞かれても困るだろう」と気を使っているかもしれない。

 一般庶民から見ると度肝を抜かれることが数多あったとしても、シャルはブレることなくオレの隣に立ってくれている。
 本人がいつか言っていた、生まれや育ちで飾っているが中身は同じって気持ちは本当なんだろう。

「シャルは素直に聞いてくれるから助かる」
「互いの距離をわきまえるのは貴族の嗜みです」
「そ」
「ふふ」

 シャル的にジョークだったのかな。
 視線が合うとはにかむように目を細めた。
 例えオレがジョークに気がつかなくても、シャルはマイペースに楽しんでいる。
 過剰な反応を期待しない、けれど興味がないワケではない。
 そういう感じ。

 久史とは違う居心地の良さ。
 気負うことなく、自然にしていられる。
 つい口が悪くなっても、シャルの笑顔は変わらない。
 久史に感じる安心感とは違うんだけど、明確にはわからない感覚。

 不思議だよな、日本語が上手い外国人だからか?
 金持ちの余裕を感じているから?
 なんでも聞いてくれるから?

「なにか気に病むことでも?」

 思考に囚われて、オレは思ったより長くシャルを見上げていたようだ。
 小首を傾げて微笑みかけてきた。
 誤魔化すなんてことはシャルには通用しない。
 だから素直に言葉を口にする。

 大丈夫、上手く言えなくてもシャルになら意図が伝わる。
 久史よりもずっと明確に。

「えっと……一緒にいるの、お、思ったより、悪くない、よ」
「光栄です」

 いつもの笑顔。
 これまでのオレならなにを考えているかわからないって警戒をするレベルの、華やかな笑顔。
 久史も同じだ。
 アイツも、オレと目が合うといつも嬉しそうに笑って見せる。

「なんか不思議……久史にはこういうこと、ちゃんと、言えないんだ」
「なぜですか?」
「えっ、は、恥ずかしくて」
「喜ぶと思いますが」
「言う勇気が出なくて、色々考えて、堂々巡りしている間にタイミングを逃すワケ」
「善き言葉を口にする時、恐れる必要はありません」
「わかってるけど、慣れてないから。言う前に色々考える」
「あなたが言葉に迷う分、ヒサシはあなたへ想いを伝えたいと言っていましたよ。同じ気持ちの時、あなたはちゃんと見てくれると。それが堪らなく嬉しいそうです」
「アイツがそんな知的な言葉使わないだろ」
「はい。私が翻訳しました。ですが捏造ではないですよ」
「そか」

 久史は、シャルにどんな話をするんだろうか。
 オレのことを、赤裸々に話して聞かせているんだろうか。

 なんか、頭が痛くなってきた。

 久史からどんな情報を得ているかわからないけど、シャルは少なからず久史の色眼鏡越しに見るオレを知っている。
 オレからもあいつのことを聞いて、オレからの色眼鏡で久史を見ているだろう。
 思い違いとか、すれ違いとかを……オレたちよりも実感しているんじゃないのか?
 自らオレを観察しに来て、なにを感じているんだろう。

 結論としてオレが久史に相応しくないと感じたら、オレは自分が納得しない形で離れることになるんだろうか。
 シャルはそれができる。
 信じたくないけど、真実だ。

「ヤノ?」
「……悪い、ネガティブスイッチ入った」
「ふふ、その言い回しはあなた特有ですね。久史は好きだと言っていました。もちろん私もお気に入りです」
「オレは、嫌だ。こんなオレ……情けない」
「そうでしょうか?」
「アイツからしたら年上なのにさ、背は低いし目も悪くなったし、猫背も治さない、口も性格も悪いし会話もままならなくて、直ぐにネガティブになる最下層の根暗なんて」

 捻くれ大爆発で口を尖らせたオレに対して、シャルはなぜか大喜びで手を叩いた。

「オレの言葉、ちゃんと理解できてた? 喜ぶトコじゃないぞ?」
「賞賛に値します。素敵ですよ。ヤノの表現は豊かで感情の機微に富み、言葉は滑らかで聞き心地が好いのですから」
「はあ……?」
「ヤノ、私もヒサシもあなたを全てではないにせよ理解しています。その上で私は深く知りたいと興味を持ち、ヒサシは好意を持ったのです」

 どうしてそんなに自信満々に言い切れるんだ?
 自分でも把握できていないオレを理解しているなんて、余程じゃないと言えないぞ。
 しかも久史がオレを理解して好きになったなんて信じられない。
 あんな出会いかたをして、あんなことされて、付きまとわれて、オレは一秒でも早く逃げたいと思っていた。
 同じ時間、ヤツはオレのことを理解することに使って、その上で好意を向けていたと?

 久史にそこまでの脳ミソがあるとは思えない。
 でも、アイツは天性の感覚を持っている。
 常人では辿り着けない結論を、久史にしか理解できない方法で導き出したのか?

 いやいや、ありえない。
 オレに密着して喜ぶアイツに、そんな知的なことができるなんて信じられない。
 いや待て、オレの名前を本名で呼びたくない理由もアレだったし、アイツは人間として純粋な部分でオレを見て、オレを想って、好意を向けているのか?

 そうなのか?
 本当に?

「わからなくなってきた」
「なにがですか」
「久史の好きがどういう意味なのか」
「哲学ですね」
「そんなご立派なものじゃないだろ」

 オレはなにを考えていたんだ。
 久史のことで妙な結論を出すところだった。

 アイツのことは、アイツの言葉で確かめないと本当じゃない。
 シャルに言われたからって鵜呑みに信じるなんて、オレらしくない。

「あなたは、人の好意にもっと慣れないといけませんね」
「要らないよ」
「必要か不要かではなく、慣れてください」
「なぜ?」
「不足を補うことは大切だからです。満ちれば新たな気づきに繋がります」

 そっと微笑むものだから、オレは「そうかな」としか返事ができなかった。
 シャルの説得力は半端ない。


***


 それから数日が経った。
 午前の講義が終わり、昼過ぎまで空きになった。
 空きができるとシャルは冒険を楽しむようにオレを連れ回す。
 今日もどこかへ行きたがるかと構えていたけど、講義終わりの教室で静かに外を見つめるだけだった。

 講義が終わっても人が減らないのは、シャルがそうして外を見ているからだろう。
 みんなの視線は一点に集中している。

 話しかけ辛いけど声をかけるしかない。

「シャル」
「はい」
「行くところないのか?」
「少しの間、動くなと言われています」
「それって」
「命を狙う不届き者が来たようです」

 そんなに簡単に言っていいのだろうか。
 表面上物騒ではない国に生きているから「命を狙う不届き者が来た」の重大さがピンとこない部分はある。
 けど、シャルが素直に動かないってことは、確実にケガだけじゃすまないレベルなんだろうとは想像がつく。

 ていうか、シャルはどうやってキングと連絡を取っているんだろうか。
 オレの知る限り、頻繁にはスマホを操作していない。
 手紙が届くこともないし……謎だ、謎。

「図書室へ行きましょうか」
「え?」
「ここは次の講義に使用されますから、移動しましょう」
「あ……うん。動いても、いいのか?」
「はい。構内での移動経路はキングが確保します。それにこの程度なら茶飯事ですので」
「オレには茶飯事じゃないからなっ」
「ふふ、それもそうでしたね。では、私があなたを守りましょう」
「そっ、そんなことしたらキングに吊るし上げられる」
「キングが怖いですか? 誤認ですよ。あなたは仕事中の彼しか知らないから」
「そうかなぁ」

 未だに教室に残っている連中と、次の講義のために移動してきた生徒たちに「皆さまご機嫌よう」と爽やかに挨拶をすると、相変わらずの手ぶらでシャルは気ままに教室を出た。
 オレはそれについて行くだけで、どこに行くかもわからない。

 シャルはこの大学を事細かに調べ上げている。
 オレが知らない場所とか行ったことのない場所も余すところなく認知済だろう。
 非常時に対する備えと知識として生活圏内の把握は必須だ。
 どこにいてもそれを怠らないのは、彼が世界的な権力者でいつでも身の危険に晒されている認識と対峙する覚悟があるからだろう。
 怖いと言って簡単に逃げるようなオレにはわからないシャルの強さ。

 教室を出て、目的があるような堂々とした足取りでどこかへ向かう。
 方向的には図書室だけど、いつものルートじゃない。

「誰にでも善い部分は存在します。ですが、それを見つけてくれる他人は限られていると思いませんか」
「ある程度理解し合わないと無理かもな?」
「私の持つ善い部分の大半はキングが見つけてくれました。逆もまた然りです」
「ふぅん」
「あなたにも見つけてくれる他人が傍にいるのですから、大切にしたほうがお得ですよ」
「それ……久史って、言いたいのか」
「はい。無論、私もですが」
「それなら、気づきの相棒はシャルがいいな」
「非常に光栄ですが、ここはヒサシに譲りましょう。あなたの深い部分を読み解き本当の意味で理解し受け止めることができるのは私ではありません」
「そんなことないだろ」
「私には既にキングがいますので、同じだけ深くヤノを理解できる自信はありません」

 ボディーガードってそこまで理解する必要があるのか?
 理解し合っているからこそ、姿が見えなくても傍にいるって自信になってるってことか。
 やっぱり、理解したいと思ってオレと一緒にいるんじゃなかったのか。
 そうだよな、シャルの中でオレは久史の付属品だろうし、そこまで理解しなくても問題ないか。

 少しだけのガッカリ感と、同時にやってくる違和感。

 …………あれ、待って?
 どう考えてもオレたちとシャルたちの関係性は違うよな。
 関係性は違っても、同じように「深く理解」できる仲ってこと?

「どうかしましたか?」

 ええ?
 お貴族様が自分の善い部分を見つけてくれる「限られた他人」に、ボディーガードを含める?

 止まらない違和感に妙な汗が滲む。
 これは聞かないと夜眠れなくなるヤツ。

「あ、あの、あのさ……キングとどういう関係?」

 テンパりすぎて、オブラートに包むこともできなかった。
 さすがに怒られるかとも考えたけど、シャルは軽やかに髪をかき上げてオレを見ると上品な微笑みと共にド直球で返してきた。

「恋人です」

 何度か二人が一緒のところを見たことがあるけどそんな素振りは一切ない。
 なのに、正々堂々「恋人」と言えるなんて本気なのか?
 冗談……かもしれない。
 オレの反応を見て楽しもうって魂胆とか?
 冗談じゃなくて本当だとしたら?

 キングの記憶を引っ張り出す。
 シャルが短期留学と称してやって来た当初、オレに向けていた鬼の形相の意味が変わってくると同時に腑に落ちる。
 いやでもオレと久史との関係について調べるためのハッタリかもしれない。
 そういう可能性だってある。
 あるにはあるけど、断定できる材料がない。

「顔芸ですか?」
「自分の中で処理しきれない情報をなんとか処理しようとしている顔」
「私とキングが恋人である。とてもシンプルです」
「それって怒られないのか?」
「身分違いなどと古臭い思考は不要ですよ」

 一番にそれが出るってことは、相当誰かと揉めたんだろうな。
 シャルは伝統ある血筋の一族でもきっと優秀な一人で、その恋人がボディーガードのムキムキマンなんて心配にもなるだろうよ。
 ビジュアルは完璧だけどな。
 美女と野獣みたいで。

「片時も離れないために、キングは個人的に雇っています。他のボディーガードと行動を共にせず、常に私と行動を共にします」

 はい出た、お金持ちあるあるの個人的なヤツ。
 実際にあるとは思わなかったから、ちょっと驚きだけど。

「公私混同ってヤツ?」
「はい。形式上の契約締結はしていますが、彼への報酬は私自身です」
「えーと、お金は払ってないってこと?」
「ふふ。私たちは共同体ですから金銭的束縛は一切ありません。彼には私をお支払いしています」
「他に言い方ないのかよ」
「恋人ですから」
「キングは納得してる、んだよな」
「ええ。無欲ですから」

 歩きながらする会話じゃない気もするけど、面と向かっては聞にくい内容なのは確かなんだよな。
 それにオレの質問に対して嫌な顔もせず答えている。
 心なしか声音にいつもと違う高揚を感じる。
 聞いてほしいのかな。
 まあ、こんな話誰彼とは言えないよな。

 そう思うと、話し相手にはなれているんだという安心感が湧いた。

「彼が雇われていたテロ組織に、私が身代金目的で誘拐されたことが運命の始まりです」
「はっ?」

 運命の始まりにしては物騒だな。
 サラッとキングがテロ組織に雇われていたって……この国じゃ犯罪者扱いされても文句言えないんじゃないか。

 オレの表情で察したのか、丁寧なフォローが入る。

「彼の生まれ育った環境ではテロ組織に属することが一番の保身だったのです。察してください」

 家計が苦しくて身売りされる子どもたち。
 サバイバル能力に長けた子どもだけが生き残れる環境。
 強いものには巻かれて当然の世界。

 オレが考えたって、紙上の空論だ。
 リアルに現実を知っている人間より、何百倍も重大さや重要さなんかわからない。
 そのリアルを、シャルは貴族なのに知ってるんだよな。
 世界って凄い。

「あの頃のキングは、野生動物のような獰猛さを持っていました。なのに慈悲深く心が広くて」

 始業のチャイムが廊下に響き、授業のある生徒たちは続々と教室へ消えて行く。

「一度止まりましょう」
「うん」

 静かになった廊下の脇に設置されているベンチに座ると、シャルはそこからの景色に目を細める。
 大きな窓ガラスの向こう側には、土足厳禁の芝生が陽光に照らされて輝いていた。

「第三勢力に私が二次誘拐されそうになっていると知り、彼から提案をしてくれました」
「提案?」
「「オレと逃げるか、ここで死ぬか」と。駆け落ちの言葉のようですよね」

 懐かしそうに笑うが、オレとしてはとんでもない状況だったとしか想像できない。

「一応聞くけど、何歳の時の話?」
「私が八歳の頃の出来事です。キングは恐らく十二歳前後でしょう」

 厳しい環境にありがちな、正確な生年月日がわからないってヤツか。
 そんな身元不明な人間が恋人だと、シャルは伝統を重んじる一族に向かって堂々と言ったのかな。
 言ったから、ひと悶着あったんだろうな。

「「オレはここで死ぬ気はない。お前もそうなら、オレと逃げればいい」……あの時の言葉は一言一句忘れたことはありません」

 キングにとって第三勢力は、所属していた組織よりも強かったってことか。
 負けるとわかっている組織に属したまま殺されるよりも、逃げるほうが生き残る可能性は高いと判断した。
 そして、シャルを見捨てず声をかけたってことは、二人ででも逃げ延びる自信があったんだろう。

 凄いな。
 十二歳くらいでそこまで考えられるなんて。
 オレなんてクラスでイジメられて、どうすれば助かるのかすら考えられなかったのに。

「子どもである利点を駆使した逃亡は大冒険でした」
「誘拐されて命を狙われてたのに、大冒険って言える神経が羨ましいよ」
「キングが楽しそうだったからでしょうね」
「必死になってくれたほうが子どもらしいけど」
「それはこの国で育ったあなたの認識です」
「……そっか」
「はい」

 環境が変われば常識は変わる。
 小さな島国の地域でも常識に差がある。
 大国との差なんてあって当然だ。

 シャルは咎めることもなく、スマートに微笑んだだけで長い髪を耳にかけ直す。
 おかげで気拙さを感じることもなく、オレはシャルと同じ方向に視線を投げることができた。

 普通なら出会うことのない立場の人間が、オレの隣に座っている。
 そしてオレにとんでもない身の上話を聞かせている。
 不思議と気拙さはなくて、とても普通で、オレの中にはシャルの言葉に対する卑屈はない。
 なにをされるかわからない恐怖に飲まれることもなく、極度の緊張に追い込まれることもない。

 久史の隣と同じ空気だ。
 シャルの隣も、俯かなくていい場所なんだな。

「……ふふっ」
「素敵なものでも見つけましたか?」
「前にも言ったけど、シャルの隣は悪くない。オレは人目を気にして俯かなくてもいいし、昔の知り合いに会っても撃退してくれる」
「はい。ヤノを貶める者は許しません」
「オレがなぜか気に入られてるのも面白いよ」
「面白いですか?」
「オレとは間接的な知り合いだろ。本来なら接点はもっと小さい。だから関わらない選択肢もあるのにシャルは自ら接点を広げにきた」
「ヒサシがあまりにも夢中になってあなたの話をするので興味が尽きず、周辺を調査しても明確な納得が得られなかったので直接お会いさせていただきました」
「シャルはオレのなにに興味を持ったの?」
「ヒサシが心酔する人物、その一点です。ですが私もまた、あなたに夢中です」
「どこに夢中になる要素が?」
「あなたは気がついていません。あなたの持つ魅力も能力も、強さも」

 柔らかくて穏やかな声音は、存分な包容力をもってオレに向けられる。
 ムズ痒い照れ臭さが湧いてきて、誤魔化すようについ捻くれが口をつく。

「オレはそんなんじゃないよ。同じ人間で申し訳ないくらいの存在だし」
「何者なら申し訳しなくてもいいのですか?」
「う~ん……無限に近い無数が集まった集合体?」
「それは生物であり人間なのでは?」
「生物って意志を持って「生きている」イメージだから……オレの中でニュアンスが違う」
「では、数式の集合体でいかがですか。物質は無限に近い数字の集まりとも表現できます」
「いいかも。ただ「有る」感じがいい」
「満足しましたか?」
「うん、気に入った」

 そうだ。
 シャルといて気持ちがいいのは久史じゃ相手にならない、こういう部分にもあるんだ。
 けしてオレの言葉を否定せず、一つの意見として汲み取り同じレベルで応対してくれる。
 自らの意見も与えてくれて、より視野を広げて思考ができる。
 そうしていつでも着地点がある。
 その心地良さ。

「移動しましょう」
「え、う、うん」
「図書室へ行くのは止めて、ティータイムにしましょう」
「わかった」
「ありがとうございます」

 図書室へ行かないことへの申し訳なさを含んだ感謝の言葉は、シャルの真面目な部分が出ている。
 静かに立ち上がり左右を見た行動に浮かんだ緊張を解してくれるような笑顔を見せ、シャルはほんの少しだけ速足で歩き始めた。
 キングから連絡が入ったのかな。

 ラウンジへ行くには遠回りな階段を使い、反対へ向かう廊下を歩く。
 追跡者をあぶり出しているのかと思ったけど、無駄なことを話すような雰囲気じゃない。
 シャルは明らかに指示を得て移動している。
 オレが一緒だから然程不自然でも目立たないが、急に曲がったり方向転換をしたりしながら歩き続けた。

 じわじわと胸を絞める緊張。
 なにが起きているのかわからない不安。

 それらはオレの感覚を過敏にさせた。

「シャル」

 不意に違和感があった。
 なんだろうかと考えるまでもない。
 授業中なのに人が多すぎる。

 フリー時間を過ごすための教室が解放されている区域じゃない。
 気軽に訪れることのできる教授のいる区域でもない。

 なのに、点々と人がいる。
 大学に溶け込む格好をしていても、異質と感じる視線をしている。

「シャル、アイツら」
「大丈夫です。こちらへ」

 シャルは包囲するように増えていく連中を眼中に入れることなく、堂々と歩き続けている。

 キングへの絶対的な信頼なんだろうな。
 他人を信頼するなんて、オレには無理だけど。
 どんなに信じていても裏切られることが怖いし、絶対なんてあり得ないし。
 離れて哀しくなる相手なら余計に信頼なんてできっこない。

 ああ、違うのかな。
 オレの思っている「これ」は依存なのかも。
 信頼は依存じゃない。

 シャルを見ていればよくわかる。

「っ!」

 ぼんやりしていた。
 オレは腕を掴まれて引っ張られる。
 足がもつれて転びそうになったけど、優雅に立たせてもらった。
 鼻先に来たシャルの身体からは、可憐なバラの香りが漂っている。
 こういう時に嗅ぐと、少し安心するな。

「疲れましたか?」
「ごめん、集中切れてた」
「怖いですか?」
「シャルがいるから平気」
「光栄です」

 シャルは目を細めて手の甲でオレの顎のラインを撫でる。
 意味は全くわからなかったけど、照れ臭い気持ちになるのはシャルが嬉しそうだから。

「次回はぜひ、私の屋敷でティータイムを楽しみましょう」
「ヤだよ、海外だろ」
「これを機にパスポートを作ってください」
「久史を釣るために?」
「ふふ、素晴らしい着眼点です」

 あくまでも優雅に、オレをリラックスさせるための会話をする。
 シャルは楽しそうなままで再び移動を始めた。
 オレはその隣を歩く。
 ただの留学生と大学生が、世間話や恋バナを楽しみながら空き時間に構内を散歩しているような空気で。
 誰かに狙われていようが考えない。
 そこはオレに影響はない。
 
 だからただ、シャルと軽い話をしながら歩き続けた。


***


 ずいぶん長い移動になった。
 それでも講義前にお茶をする時間が残されているのが驚きだ。
 ラウンジにいる疎らな生徒の殆どは、シャルを見てテンションを上げているのがわかる。

 いつもは不愛想なウェイトレスが可愛くオーダーを取る様を冷めた目で見つつ、オレはメロンソーダを頼んだ。

「疲れましたか」
「走ったりしたワケじゃないから平気」
「午後からの授業は普通に参加できますよ。済みましたので」

 どういう意味での「済んだ」なのか、聞く気もない。
 久史の書道家としての活動と同じで、聞いてしまえば関係してしまう。
 オレはいつでも離れられるように、関係値を限りなく低くしなくちゃいけない。
 シャルとの関係もそうだ。
 気の合う会話ができる相手だからって甘えちゃいけない。
 そこは、ちゃんとわきまえないと。

「どこにいてもこうなのか?」
「そうですね。隠すようなことではありませんから、私の居所は検索可能です」
「検索って」
「パパラッチと呼ばれる皆さんや情報屋さん、一般の皆さんが利用するSNSを巡ればすぐにわかる世になりました」
「オレの家も特定されてるのか?」
「いいえ」
「ホントか?」
「はい。特級レベルで全ての情報網から排除しています」
「スゲ」

 あの狭小ハウスがVIP対応で隠されている、そんな時が来るとは思わなかったな。

「あなたとヒサシの大切な場所ですから、不徳な輩からは絶対的に守らなくてはなりません」
「そこまで仰々しい家じゃないよ」
「大切な場所には変わりないでしょう?」
「まあ、な」

 あの家以外、どこにも行く場所がない。
 実家には帰る気もないし、久史の家に世話になるつもりもない。
 出ていくことになったら、保証人になってくれた詩緒梨さんにどの面下げて謝ればいいんだ。

「ヒサシに会いたいですか?」
「え、別に」
「なぜですか?」
「連絡をしたいって思わない」
「ヒサシはずっと泣き通しですよ」
「さすがにそれが許される年齢じゃないぞ」
「察してください。彼は大好きな人と突然切り離され、しばらくの間外界に出ることを禁止されたのです」
「だからって泣いてばかりいても仕方がないだろ」
「その表現はクールですね」

 クールと言われても、実際にそうだからな。
 泣いていたって助けが来る保証はないんだ。
 確実に助けてくれる人が近くにいるとわかっていて、アピールするために泣くなら話は別だけど。
 ……あ、そうか。
 久史の近くにはシャルと連絡が取れる誰かがいるのか。
 とは言え「泣き通しだ」と聞いてシャルが助けの手を差し伸べる可能性はゼロに近い。
 そしてきっと、久史が泣き通しなのは本当なんだろう。
 ホントにガキだ。

「アイツがどこにいるか、聞いてもいいのか?」
「彼は今、イギリスにいます」
「は?」
「この国のどこにいても面倒が起りそうでしたから、私の別邸へ連れて行きました」

 拉致……監禁?
 いや誘拐か?

 それらに近い状態が久史の身に起きたと容易に想像できる。

「狙ってたろ、それ」
「はい」

 嬉しそうに笑うなよ。

「オレが心配するとか、考えなかった?」
「考えましたが、実際にあなたは心配の欠片も心に浮かんでいませんし」

 ごもっともだ。
 口先だけで心配しているとか、そんなに器用なことはオレにはできない。

 まあ、本当に心配でもないし不安でもないし、連絡を取りたくて仕方がないワケでもない。
 仮にも恋人が海外に拉致られて会うことができない状況なのに……冷めてるのかな、オレ。
 世間一般がわからないからどうなのかは知らないけど。

 久史のことより、自分の気拙い気持ちだけがずっとわだかまっている。
 自分のことのほうが、アイツよりも大切なんだ。
 それはこれからも変わらないだろう。
 まともな人間関係を他人と築けないまま生きているオレに、どうやって他人の心情を気にしろって言うんだ。

「アイツ、パスポート持ってんだ」
「はい。六代目の展覧会をフランスで開催した際に作ってもらいました」
「海外に行く時って色々準備がいるよな?」
「はい、色々と準備しました」
「にこーっ、じゃない」
「にこーっ」

 恐るべしお貴族様。
 平然と犯罪を犯している。
 それとも、これくらいは犯罪に入らないのか?

 笑ってなんとかなると思っているのか。
 思ってるか。

「来月の後半には戻ってきます」
「そ」
「入れ違いで、私の留学も終わりです」
「半年だったか……早かったな」
「寂しいですか?」
「うん」

 正直に答えたのに、シャルは急に真顔になった。

「どうした?」
「ヤノが羞恥に倒れそうなハレンチなことを存分にしたい気分です」
「……止めろよ?」
「はい。帰宅するまで我慢します」
「帰宅しても止めて」
「お断りします」
「お断りしないで」
「嫌です。こんなにも感激したのは久しぶりです。存分に味わってください」

 逃げられる気がしない。
 オレが羞恥に倒れるようなハレンチな行為からは全力で逃げなければ。

 共同生活の中でも、シャルの素性はあまりわからない。
 本当のところどんな性格なのかもよく知らない。
 けど、やりたいことへの執着というか、強引さは身をもって学習している。
 だからこその不安なんだ。
 ハグはまあ我慢できるが、キスとなると場所によっては問題がある。
 それ以上のことはされない、よな……?

「あなたは本当に素晴らしい。個人的には、キングとは不可能な会話も嬉しく思っています」
「それを聞いて確信した。キングも久史と同じで幼稚園児レベルなんだろ」
「ふふ。残念ながら肯定せざるを得ませんね」

 知性というレベルがとにかく低い。
 しかも同族嫌悪なのか、いつもどちらが頭が悪いかで言い争っているくらいだ。
 シャルもたまには哲学的討論とかやりたいんだな。

「ヤツらが目を回しそうな話がしたくなったら、相手になるよ」
「本当ですか? 約束ですよ?」
「……ああ、約束する」

 気軽に約束なんてするものじゃない。
 けど、シャルとなら約束をしてもいい。

「と、っ……と、友だち、だ、し?」
「光栄です。これからもよろしくお願いしますね、ヤノ」

 心底嬉しそうな笑顔を見て、シャルにも少なからず不満があったんだと思う。
 語りたい時、語りたい話題を同じステージで話せる相手がいるほうがいいに決まってる。
 会話はスムーズなほうが楽しいし、ストレスもない。
 地頭がいいから、長い議論や突き詰めとかきっと好きだろう。

 その相手にオレがなれているなら、それはオレも嬉しい。

「久史に連絡が取れるならさ、シャルが満足する書が書けたらご褒美やるって伝えて」
「なぜですか?」
「そうしたらヤツは泣き止んで、シャルが求める作品を幾らでも作るだろ」
「ヒサシのためではなく、私のために言ってくれているのでしょうか」
「うん」

 友だち、だから。
 シャルのためになることをしてやりたいと思う。
 久史には、こんな感情あったっけ……。

 まあ、オレの場合感情って石炭みたいなものだからな。
 火種がないと燃えない。
 久史がいないと久史のことを考えない。
 そいうこと。
 つまりは、シャルのことも傍にいるから考えるのであって、離れてしまえば必要以上に考えなくなるだろう。

「オレはこんなだからさ」
「はい」
「深く考えると嵌って動けなくなって沈むだけ、考えが浅いと関心が薄くなる。面倒くさいヤツだからさ」
「はい」
「だから傍にいる時くらいは、友だちって思ってもらえるようなことがしたいって思うんだ」
「離れていても友ですよ。それに、己ができる範囲を知っていることは大切なことです。不相応の施しを私は求めません」
「そか」
「はい」

 本当に、シャルは賢くて優しい。
 オレが欲しいと思っている答えをきちんと選んでいる。
 けして感情的にならない静かさが、シャルの能力を引き立てているんだろう。

 いつもは薄いメロンソーダが、今日はやけに甘くて炭酸が効いていた。