「これがキングの言っていた、狭小ハウスですね」
「オレみたいな学生の独り暮らしはこれくらいでちょうどいいんです」
「敬語は不要ですよ?」
「明日からでいいんですよね?」
「確かに私からそう言いました。申し訳ありません」
スマートに反省された。
久史の家で慣れているからか、靴を脱ぐのにも抵抗がない。
オレよりも先に室内に入って色々と見て回っている。
普段からそれなりに掃除をしていてよかった。
ここに住み始めて、突然やって来て入りたいと玄関でごねるヤツがいるから始めたんだけど、それが役に立つなんてな。
「点在している書籍はなんですか?」
「いつでも読めるように置いてあるだけで、法則性はないです」
「どういう状況で読むのですか?」
「食べながら読んだりします」
「なるほど。自分の気分を優先するいい案ですね」
感心されるようなことじゃないけど、シャルはあちこちに置いてある本を手に取ってページをめくった。
その様子を見ていて、本当に貴族様の所作はオレたちと違うんだなって実感する。
「日本語の本、読めるんですか」
「はい。ですが理解には時間がかかります」
言いながらも、文庫を手に取りパラパラしている。
しっかり文字を追っているような視線だけど、日本語を母国語に変換してニュアンス共々理解するのは難しいのかもしれない。
なんとなく魅入ってしまっていると、バタンと音を立てて本を閉じられてハッとする。
「先に食事にしますか? 課題を終わらせましょうか?」
「早く弁当を食べてみたいって顔でそういうこと言いますかね」
「選択肢を用意するのは同棲の醍醐味だと聞きました」
「そんな醍醐味はオレに必要ないです」
「状況を楽しみましょう。でもオベントーは早く食べてみたいですし、期待もしています」
コンビニの弁当にどんな期待をしているのか。
確かに美味いが、続くと飽きる。
シャルの気が済むまでとは思うけど、どの道ほぼコンビニ弁当生活だ。
好きなだけ堪能するといいよ。
けど、コンビニは転々としたほうがいいかな。
同じコンビニだと変な輩が集まる可能性もあるし。
面倒が起きた時の対処方法の心配が浮かんだけど、オレが心配しなくてもキングが知らない間にどうにかしてくれるってほうが現実的か。
今日一日で何人がこの世から消えたんだろう。
そんな想像に身震いした。
怖いから考えないようにしよう。
そもそもオレには関係のない、大金持ちを狙う怖い奴らだし。
「安い日本茶しかないけど」
「ありがとうございます、構いません」
電気ケトルも珍しいらしく、シャルは興味津々で湯が沸くのを眺めていた。
こういうアイテム、久史の家にもなさそうだもんな。
「私に気にせず、いつものスタイルで食事をしてください。私もいつものように食事をします」
「はあ……じゃ、遠慮なく」
レンチンしたコンビニ弁当に手を合わせ、腕を伸ばして触れた本を持つと適当にページを開く。
シャルは箸すら持たずに、ジッとしていた。
よくある「神さまへのお祈り」みたいなのもなく、コンビニ弁当を見下ろしている。
「……食べないんですか」
「それぞれの造形やバランス、配置の美しさなど感心しきりです。温めたのに冷めてしまうと申し訳ないでしょうか」
「冷めても美味しいだろうから、心行くまで眺めるといいと思いますよ」
「そうですか、よかった」
久史もコンビニ弁当を一緒に食べた時、似たような行動をした。
金持ちは率先してコンビニで弁当なんて買わないよな。
料理を作る人間が家にいれば、コンビニの弁当なんか意識しないだろう。
アイスと駄菓子は買うと必死に訴えていたが、オレは要の食事がコンビニ弁当だからな。
自炊、少し勉強しようかな。
備蓄するだけじゃ飯は作れないし。
他人に迷惑をかけない程度の老後のために、栄養のバランスも考えないと。
あと、無粋な荒らしに耐えられる、生食できない加工前提の食材を確保したい。
「風呂はどうするんですか」
「ここでは入れませんか」
「シャワーしかないですけど」
「十分です」
「シャンプーとかも共用です?」
「私は構いませんよ」
そんなサラサラになるようなお高いシャンプーないですよ、と言う勇気はなかった。
気に入らなかったら自分でなんとかするだろ。
「寝る場所はどうするんですか」
「ふふ、急に質問攻めですね。もちろんベッドで寝ます」
「じゃ、オレはリビングで」
いつぞやに久史が持ち込んだ寝袋がある。
それを使えば寝ることはできるだろ。
「一緒に寝ましょう」
「は?」
「私と一緒はお嫌ですか?」
「いや……久史とも一緒に寝たことがないので」
「セックス後にピロートークはしないのですか?」
もうヤダ。
どうして明け透けにその単語を出してくるんだ。
キングもそうだけど、この国の人間にはないオープンな遺伝子を持っているに違いない。
「……そういう行為はないです」
「とても驚きです。すっかり充実しているのかと」
「価値観の違いじゃないですか?」
「価値観?」
「えーと。そういうのは、大事にする、とか」
自分でもなに言ってんだと思う。
大事にするなら学校で強要なんてしてこないだろ。
でも他に言葉が出てこなかった。
恋人になってから明け透けな素振りがないのは、久史がオレに合わせてくれているんだろうと思っている。
けど、それを他人に言うことには躊躇があった。
シャルはオレより久史のことを知っているだろし、久史からオレのことを聞いているだろう。
そんな相手に、久史のことを訳知り顔で言うなんてできない。
思い上がった勘違い野郎にはなりたくないからな。
「大事、ですか。セックスに関して言えば、ヒサシは相手が勝手に寄ってくると言っていました。断るのが面倒で相手をしていたとも」
「アイツが単なる受け身なワケないですよ。オレがどんなに嫌な思いをしたか」
「嫌な思い?」
つい、勢いづいてしまった。
言ってから後戻りはできず、好奇心に満ちた視線に負けた。
「アイツは、オレを脅迫して、無理やり、いかがわしいことにつき合わせました」
一週間に多くて三回。
オレが居るタイミングを狙って、図書室にふらりとやってきた。
今更ながらに、司書部の誰かが情報を流していたんだと思う。
そうじゃなければ、当日に代理が決まった日にまでやってこないだろ。
オレとするようになってからは他ではヤッてないと言っていたけど、元から来る人拒まず状態ならウソの可能性もあるな。
アレだ。
オレとは本番はナシだったワケだし。
「……」
自分で考えたことに恥ずかしくなって顔が熱くなった。
誤魔化すようにメガネを弄る。
「ヒサシの本気メンタルスイッチを入れたのは、やはりヤノだったのですね」
「入れた記憶はない、です」
「スイッチが入るとこうも変わるのだと、本当に思いましたよ」
「舞い上がっていただけじゃないですか? 寄ってこないオレが珍しかったとか」
「確かに舞い上がっていましたが、あなたを他の人と同じには見ていませんでした」
「にわかには信じられません」
「では、あなたに会うまでの彼のことを教えましょうか? 見る目が変わるかもしれませんし」
ドキリとした。
そんな風に言われると、色々と想像をしてしまう。
なにも面白くなかったと言っていた久史の声を思い出すと、急にオレの中にも好奇心が芽生える。
すぐに知りたい気もするけれど、でも、できれば久史の口から聞きたいと思う。
なんの気もない、日常会話の中で聞いてみたい。
それくらい気兼ねのない関係になってからでいい。
本人のいない陰口のような状態で聞くのはどうなんだろう……と思ってもオレだって人間だし、気になるものは仕方がない。
シャルが知っていてオレは知らない過去の久史。
「よ……要点だけ、お願いできますか」
「はい」
要求するオレを茶化すことなく、冷めきったコンビニ弁当をつつきながら、久史がどんな風だったか話してくれた。
具体的な内容はなに一つなく、要約すると常に気怠く生気の灯らない瞳で人を窺うように見ているだけだったと。
話せば反応するが、必要以上の進展はなく、けして笑ったり盛り上がることもなかったらしい。
「芸術家に多い気難しいタイプかと思っていたら、突然変わりました」
「さすがに言い過ぎじゃないですか」
「いいえ。あの日は偶然にも画廊コンセプトの相談のために妙名嘉家に滞在していまして。朝は気配が薄く陽炎のようだったのに、帰宅後は充実した表情がそれはもう眩しかったですよ」
目を細めるシャルからは、ウソ偽りを感じなかった。
オレには、その時の久史がどんな感じだったのか全然想像ができないけど。
オレが知っているアイツは、関わり合いになりたくない部類だった。
不純な行為にも抵抗のない、ませた頭の悪い金髪不良だと思っていたくらいにはギラギラしていた。
使いすぎのフレグランスやタバコの匂いをすぐに思い出せる。
あんなに鼻息荒く、強引にいたしていたのはオレの記憶違いか?
友人にもらったとローションを持ってきてオレの制服をこれでもかと汚したのはアイツじゃなかったのか?
ダメだ。
本気でオレの中の久史とシャルが言う久史が重ならない。
「一目惚れをした、離したくないんだと、熱く語っていました」
「ウザ……あんなにオレに迷惑かけたクセに会った当日になに言ってんだ」
「そんなに迷惑でしたか?」
シャルはどこまでか事情を知っていそうな顔で見ててくる。
スポンサーをしている書道家が夢中になっている一般人なんて、すぐに調べ上げられそうだからな。
きっとオレが気がついていないようなことだって報告されているかもしれない。
気拙くなったけど誤魔化せるほど器用じゃないし、シャルも引かない気がした。
「卒業まであと少しの時期に、面倒な年下につきまとわれたんですよ。あの時期は成績も食欲も落ちました。迷惑以外になにかありますか」
「痩せ衰えていくあなたを見て、ヒサシはなにもしませんでしたか?」
「特にはなにも。あの頃は自分の欲望をぶつけるだけで、配慮の欠片もなかったです」
「そうですか……別人かと思うほど変わりましたから、気遣いや思いやりも得たのかと思いましたが」
「……き…………聞いてない、から、本当のところは知りませんよ」
久史が冷酷非道だったかと言えば否だ。
司書部最後の日、その日だけは「センパイはそのままでいいの?」と遠慮がちに聞いてきた。
オレは口では早く出て行けと言いなが、自分からアイツの制服の袖を握っていた。
これが最後。
もう二度と会わないし、会う機会もなくなる。
やっと開放される。
清々すると思っていた。
だけど、どうしても握った袖を離せなかった。
久史はなにもせずなにも言わず、ただオレが袖を離すのを待っていた。
そうだ。
あの日だけはオレが先に図書室を出た。
「オレとしては、無気力になった原因が知りたいですね」
「何度か聞いてみましたが、ヒサシは答えてくれませんでした。原因がわかれば解決案も出せると言ったのですが」
「アイツ、変なところで頑固ですからね」
「ふふ、そうですね」
どうして無気力になったのか、いつからそうだったのか少しだけ気になった。
でも、オレが聞けば久史は話してくれる確信がある。
自惚れだけど。
「ヒサシが無気力のままであれば、あなたは迷惑をかけられることはなかった。そうは思いませんか?」
シャルの言葉に顔を上げた。
一方的に久史の味方だと思っていたけど違うようだ。
オレのことが知りたい、その言葉の意味は久史のためだけじゃないらしい。
嫌だと思っているなら久史から離れてくれて構わない、そんな意味合いにも聞こえる。
でもそうじゃないとキレイな微笑みは教えてくれた。
オレ自身は他人のことを信用していないと思っているけど、優しくされたり話を聞いてくれる相手にはチョロいのかもしれない。
微かな捻くれは一瞬だけで、すんなりと本心が口から溢れた。
「思わないです」
「そうですか」
理由を聞かれるかと思ったけどシャルはそれ以上は話さず、残りのコンビニ弁当に向かった。
不思議な人だ。
きっと異国の人であることや育った環境の違いがあるんだろう。
気構えるような荒い言葉を使わないし、なによりも常に穏やかで無邪気だ。
これが金持ちの余裕ってヤツなのかな。
***
「はあーっ?」
「驚くところでしょうか」
「驚くに決まってるだっ、で、すっ!」
狭いシャワー室に大はしゃぎでそこら中を水浸しにした無邪気な貴族様は、濡れた髪もあまり乾かさずにベッドへ座り着たばかりのオレの服を脱ぎ始めた。
仰天したオレが質問するとさも当然のように「裸で寝ますので」と言ってきたのだ。
「は、初めてのベッドですし、皮膚に悪いなにかがあるかもしれませんよ?」
「大丈夫です。アレルギー物質は検出されていませんから」
「あ?」
「ヤノを送り届けた際、キングが調べてくれました」
あの人は……っ!
てか、前日にもうこうなることが予定されていたってことか。
生きる世界が違うと、見計らうタイミングが違ってくるのは、まあ、当然だろう。
そこを怒ったって仕方がない。
「なので安心してください。私が生まれたままの姿で眠ったとしても、何ら問題はありません」
「や、裸で眠れる実証してくれてたとしてもですよ。オレが隣で寝るのに、そんな」
「私を襲うつもりですか?」
「んなことしませんっ」
なんでちょっと嬉しそうなんだよ。
「もちろん、ヤノも裸で」
「嫌です」
「どうしてですか?」
「見せたくないからです」
「見られて減るものではありませんよ」
「……精神的に、キツいん、です」
それでもまだ押し通そうとする気配を察して、オレは咄嗟に口を開いた。
「久史にも見せたことないんです。さすがに無理ですよ」
シャルは久史を大切にしている。
だからこそ、久史のメンタルに影響するらしいオレの言葉を熟考しないワケがない。
こういうのって利用してるようで少し心苦しいけど、他人に肌を見せられる余裕はまだないんだ。
シャルは期待に輝かせていた視線を瞬き一つでいつもの落ち着いた気配に変えた。
そのアイスブルーの視線で真っ直ぐ射抜いてくる。
キレイだな。
曇りのない眼とはこのことか……いや、事実透明度の高い虹彩をしているだけか。
「理解しました。ヤノの一糸まとわぬ姿はヒサシに譲りましょう」
譲渡は止めてほしいんだけど。
あと勝手に決めるな。
「寝るなら髪はもう少し乾かしてください」
「キングがしているので勝手がわからないのですが、もう少しとはどれくらいですか」
「……ちょっと待っててください」
そんなことだろうと思った。
キングは本当にシャルのボディーガードってだけなんだろうか。
屈強な男の手に握られたドライヤー、慎重にブラシを使う様、想像すると不釣り合いでおかしい。
いや、各家庭の事情なんか知らないんだから余計な想像をして変な意識をしないようにしよう。
無関心が一番だ。
関わりは深くしないほうがいい。
リビングの収納ボックスから引越し祝いとして詩緒梨さんからもらった箱を漁る。
「妙名嘉家と同じドライヤーですか?」
「引越し祝いに家電一式をもらいました」
「使わないんですか?」
「ドライヤーは必要ないです」
簡単に説明書を読んでスイッチ操作を確認する。
電源を入れてからピタリと止まる。
「髪、触っていいですか?」
「はい」
「では……失礼します」
「お願いします」
シャルの髪は細かった。
そりゃそうか、あれだけサラサラしてんだもんな。
久史の髪は硬めで、脱色していることもあって少しゴワゴワしている。
「あの、昨日……アイツ、ちゃんと挨拶に間に合いましたか」
気がつけば、言葉が出ていた。
ドライヤーの音に消えそうなくらい小さな声になってしまったが、シャルは聞き逃さなかった。
「間に合いましたよ。なぜですか?」
「髪を乾かしてやってる時に遊んでしまって」
「同じ遊びをしてもいいですよ」
「あなたの長さだと完全に絡まります」
「絡まる?」
「髪の毛をぐしゃぐしゃに乾かすんです」
「ふふ、すみません。イチャイチャしていたと勘違いしていました」
温風(強)で細くて長い髪をめちゃくちゃにしてやろうかと一瞬思ってしまった。
あとな、イチャイチャは普通恋人限定だろうよ。
そんなに久史のことを知りたいのか?
周囲が認知するほどの乱交魔が、急に底辺一般人に夢中になったんだから好奇の感情が湧いても仕方がない、かもしれないけど。
付き合わされるオレは迷惑だ。
シャルたちは、久史が気持ちよく書を生み出し発表しさえすれば満足なんだろう。
オレは単なるメンタルスイッチでしかない。
アイツがへそを曲げた時に使われる便利アイテム。
「……乾きました」
「ありがとうございます。お上手ですね」
半分以上を冷風にして乾かした髪は、オレが思うよりもサラサラになった。
ドライヤーの性能と、元からの手入れの賜物だろうな。
庶民との格差になんとなく気が重くなりながらドライヤーを片付け、着替えて振り返るとシャルはもうベッドで横になっていた。
壁に向かい合うように横になっている背中には、意外な傷がいくつかある。
キングが守りきれなかった傷なんだろうか。
あのキングが守りきれないなんてあるのか?
いや、人間なんだし隙ができても仕方がない状況もあったんだろう。
オレは、チラ見えしていたキングの古傷を思い出す。
二人は確固たる信頼で繋がっている。
雇用主のシャルが寛大なんだろう。
応えるキングの能力が高いんだろう。
どちらもが優秀で、だからかみ合っているのかもしれない。
タブレットの充電を始めて、明日の着替えを準備、部屋の隅に軽くたたまれたシャルの服を見る。
「……」
ラフな装いだとしても、オレの服の何倍も高級な服だろう。
それを床に置いておくことに抵抗があって、未使用のバスタオルに包んでおいた。
このバスタオルも、詩緒梨さんがくれたものだ。
実家を出る時、母親と大いに揉めた。
近所だからいつでも行けると何度も言ったけれど、彼女はオレを実家から出すことには賛成してくれなかった。
自分の頑張りを見せつける相手がいなくなる。
その恐怖が攻撃的な言葉になって降りかかった。
困り果てて久史の家に逃げ込んだ時、詩緒梨さんが協力してくれると言い出したんだ。
さすがに久史も驚いてた。
一番驚いたのは、オレの父親と幼なじみで詩緒梨さんを「親戚」と言っていたのは母親に変な妄想をさせないためだったこと。
だけど母親は詩緒梨さんが他人だと知っていて(戸籍を調べたらしい)、父親が話をする度に裏切りだとなじっていた。
こんな旦那を支えている自分、不倫女から家庭を守る自分、そんな思い込みの自分にすっかり夢中になっていたんだ。
詩緒梨さんが一緒に来てくれた時、母親の「悲劇のヒロイン」属性が爆発した。
調子の上がってくる罵倒は、心にもない言葉まで吐き出しているなと感じながらもオレは久史のことを考えていた。
親の代から縁があるなんて調子に乗るだろうな、と。
オレの父親が持っていた墨は詩緒梨さんが渡したんだと、容易に想像できることを名推理だとドヤるに違いない。
そんなことを考える相手がオレにできたことがくすぐったくて、必死に自分の大変さを訴える母親に向かって笑ってしまった。
傷ついただろうな。
バカにされたと思ったに違いない。
適当に置いてある文庫を数冊投げつけられ、家を出るなら縁を切ると激高した。
二つ返事をする勢いだったオレを止め、そこからは大人の話だと詩緒梨さんが追い出した。
その後なにが話されたのかはわからない。
連絡が来て実家に戻ると、母親は泣き腫らした顔で唇を噛み締めていた。
あなたのお母さんは自分の心をお父さんに捧げているの。
だからけして見捨てたりしてはダメよ。
そんなことを言われても、母親にこれからどう接して行けばいいのかわからなかった。
それから一度も家に帰ってないし、フォローするように詩緒梨さんが引越しのあれこれを手配してくれた。
詰まるところ、詩緒梨さんは久史のことを考えていたんだろうな。
おかげでここは久史の親公認で「恋人の家」になったんだし。
詩緒梨さんみたいな親は羨ましいけど、なんと言うか……もう居ない父親にいつまでも呪詛を吐く「可哀想な私」属性の母親は、オレの母親らしいと思うよ。
「……」
忘れていたことをこんなタイミングで思い出すなんて変な感じだ。
刺激になったのがオレの想像を超えた出来事だから、事象とすればちょうどいいバランスかもしれない。
シャルの希望で物を撤去したサイドテーブル。
そこに上品なハンカチが置かれている。
まじないかなんかだろうか。
実家のしきたりなのかもしれない。
「……寝よ」
静かになると思考が急に働き始める。
あれもこれもと、怒涛のようだった一日を振り返り理由を求める。
ついでに記憶が紐づいて、さらにたくさんのことを思考に混ぜてしまう。
一日だけじゃない。
今日からこの状態なんだ。
だから一つ一つを納得できる形に理解しようとするのは非効率だ。
必要以上に考えるのは止めにしよう。
明日からはタメ語というハードルが待ち受けている。
シャルが思うより言葉使い悪いほうなんだけど大丈夫かな。
本当に良いんだろうか。
不快ならそう言うか。
そういうことがスマートにできる人物だろうし。
止めようと思いつつも止まらない思考に頭を振り、可能な限り音を立てないようにシャルの隣に横たわる。
背中合わせの状態で、ついシャルの静かすぎる寝息に聞き耳を立てた。
唯一実家から持ってきたセミダブルのベッドがこんな形で役に立つとは思わなかったな。
父親がオレに買ってくれた誕生日プレゼントだ。
小学生には大きすぎると母親は嫌な顔をしていたが、父親はすぐに大きくなるんだからこれくらいでちょうど良いと言って笑った。
オレにとっては、数少ない父親の思い出。
「おやすみなさい」
小さく小さく呟いて、長く息を吐き出してから目を閉じた。
***
遠くでアラームが鳴っている。
おかしいな、サイドテーブルからの音じゃない。
意識が浅瀬に浮かんでハッとした。
スマホ、カバンの中に入れっぱなしだ。
反射的にベッドから降りてカバンを開けると、元気な音が突然大きくなる。
アラームを止めて充電残量を見た。
あまり使わないからまだ余裕だな。
「……」
自分はどこかで期待している。
久史からメッセージが届くことに。
気拙いままの気分でオレからなんとメッセージを送ればいいのかもわからない。
だから、こういう時は久史に甘えてしまう。
「っ!」
隣で寝ていたことに気がつかないくらい気配がなくて、ベッドを振り返ったオレは悲鳴を飲み込んだ。
オレが動いたことやアラームが聞こえて起きたんだろう。
シャルはしゃんとした顔でオレを見ていた。
「おはようございます」
「お、おはよう……えーと、ベッド、寝心地悪くなかった……か?」
言われた通り、普通に話す。
約束を守らなかったって顔をされるのが嫌なだけだけど。
畏れ多いと思うオレの気持ちは、シャルには関係ないからな。
本人がそうしてくれって頼むなら、出来る範囲で従ったほうが当たり障りがない。
久史にも迷惑がかからない。
「程よく眠れました」
「今日はこっちで眠って。寝る場所は交互にしよう」
「わかりました」
ボンヤリ霞む視界の中、サイドテーブルの上に見慣れないモノを発見した。
キレイにたたまれたシャルの服の上に、シンプルなのに品格のある紅茶葉の缶と一輪のバラ。
誰が置いたかなんてすぐにわかったが、どうやって入った?
客がいるというのもあって、昨日はしっかりと戸締りをしたのに。
一般的な防犯だけじゃ通用しないってことか。
さすがにキッチンを荒らした様子はなかったから安心した。
電気ケトルで湯を沸かしながら、服の上に置かれた紅茶を飲むのか聞こうとして唖然とした。
食ってる。
バラを。
「な、なに、してんの?」
「朝食です」
「バラ?」
「はい。朝は一輪のバラと紅茶だけです」
なにそれ。
そんなモーニング聞いたことない。
「血統の習慣なので気にしないでください」
「そうすか……」
「欠かすとキングが不機嫌になります」
なぜここでキングが?
その疑問がオレの顔に出ていたんだろう。
「私を嗅ぎ分けられるようにすることも花食の目的の一つですので、欠かすと困ると」
「たまに香るフローラルな匂いって、バラを食ってるシャルの体臭なの?」
「正確にはバラと紅茶です」
なんてこった。
とんでも習慣を知ってしまった。
バラと紅茶で体臭を変えるお貴族様がいるなんて世界は広い。
匂いで嗅ぎ分ける芸当を持っているキングも凄いけど。
「紅茶、それだよな?」
「はい」
「ちゃんとした作法がわからないんだけど、今朝は適当でいい?」
「構いません」
茶こしがない状態での紅茶の作り方をスマホ片手に検索しつつ、花食を続けるシャルを盗み見する。
とんでもない絵面だ。
朝の陽ざしに照らされながら、美麗な異国の人が素っ裸で真っ赤なバラの花びらを優雅に口へ運んでいる。
狭いアパートの、干したことのない布団を敷いてあるベッドの上で。
「ヤノの朝食は?」
「食パンとコーヒー」
「紅茶用のジャムを買いたいので、パンに合うジャムも購入しましょう」
「残ると勿体ないから要らないよ」
「無欲なのですね」
「必要ないと思うだけ」
「美味しいかもしれませんよ?」
「そういう冒険的観測の意味がわからないんだ」
「想像してワクワクしたりしませんか?」
「想像は想像で満足できるから、想像を現実に具現化する必要がない」
「やはり無欲ですね」
トースターにパンを放り込んで、インスタントコーヒーを準備する。
コーヒーの匂いが漂う中、なんとなくそれっぽい感じにできた紅茶をマグカップに入れてシャルに渡した。
「マグカップしかなくて」
「ありがとうございます。気にしないでください」
「オレは向こうで食べとくから着替え済ませておいてくれる?」
「はい」
表情ひとつ変えず素人が作った紅茶を飲むシャルを見ている間にトースターからチンと音がした。
軽く焙っただけのパンをそのまま齧りながら、晩とは違う本を広げる。
「ヤノ、本を読みながらの食事に難癖はつけませんが、姿勢が悪いのは直したほうがいいですよ」
「わかってるけど直らないんだ」
「猫背は解消されてきていると、ヒサシは言っていました」
「ああ、うん。そうだな」
一瞬だけ、会話が切れた。
シャルが着替える衣擦れの音が微かに聞こえる。
昨日着ていた服は、バスタオルごとなくなっていた。
なんか、そう言うサービスみたいだな。
便利でなにより。
今日の分を包むバスタオルはもうないけど。
「ヤノ。本日の近代史学に学ぶ宗教論と言う授業がとても興味深いのですが、講義内容はどのようなものですか?」
「各国近代史を比較して、多方面の発展と衰退で根付いている宗教の価値やら教えの真意を研究しようって感じ」
「面白そうですね」
「殆どの生徒が昼寝に使ってる講義だけどな。オレはそれなりに面白いよ」
「ヤノは将来、どんな風になりたいのですか?」
「就職ってこと?」
「いえ、もっと先です。最終的に、どのように道を残し去って逝くのか」
いやいや、朝からする話じゃないだろ。
それとも貴族って輩はいつでもこんな話に没頭しているのか?
本から眼を離し、着替えの終わったシャルを見る。
「空気みたいな存在でいい。必要以上に構ってもらわなくていい。子孫も作らない。オレはオレで終わる」
「孤独者のようなことを言うのですね。ヒサシが聞いたら泣くかもしれませんよ」
「アイツは、どこかの段階でオレの隣から消える。消えなくちゃいけない」
「なぜそう思うのですか? これ以上ないくらいにあなたを想っているのに」
「……違いすぎる、から」
いつかきっと、足を引っ張ることになる。
だから、アイツとの関係は適度に終わらせるのが最善だ。
今は好きだとしても、明日はどうなっているかわからない。
そんな明日が本当にきた時、衝撃が少ないようにとシミュレーションはしている。
昨日一日、連絡を取り合わなかった。
それどころかオレは朝に見たきり、スマホの存在を忘れていた。
でもオレは普通に過ごせているし、アイツもきっと同じだろう。
互いに依存しない関係を上手く保って、適齢期には離れないと。
あの家を継ぐなりなんなり、オレよりはるかに出来ることや成せることが多いんだから。
「住むべき世界も違うし」
「それはあなたが感じる勝手な引け目です」
「だとしても、オレがアイツの道を変えてしまうのは嫌なんだ。アイツにはもう、それなりの道が用意されているワケだし」
「人は生まれや育ちで着飾っていますが、中身は同じです。その中で惹かれ合うことがどれほど確率、奇跡的であるか想像しませんか?」
「同類が個として惹かれ合うのは同類だからでしかない」
「同じだからこそ、個が個を認識し寄り添う可能性が如何ほどの奇跡か考えてみてください」
「個体が別個体を認識するのは恋愛じゃなくても事実可能だから、惹かれ合う事象が奇跡だとは思わないな。オレからすると、どちらかと言えばアクシデントに近い」
「……ヤノの思考は深いですね」
「捻くれているだけで褒められたものじゃないよ。今日は午前中に講義があるから準備をして出よう」
「はい」
朝食を終えたシャルは空になったマグカップをオレに渡してくれた。
それから洗面台に向かう。
見るとそこにも見慣れない歯ブラシセットが置かれていた。
オレの歯ブラシはどこ行った?
「ヤノの歯ブラシもここに置きますね」
シャンプーを置いている棚に移動させられていた歯ブラシを、シャルは歯ブラシスタンドに入れてくれた。
その顔は嬉しそうだけど、どこか悪戯っ子のようにも見える。
「自分の意思でそうしたってちゃんとボディーガードに伝えておいてよ?」
「もちろんです」
朝からハードな問答があるとは思わなかった。
おかげで頭も冴えた。
パンを口に詰めて、コーヒーで流し込む。
洗い物や洗顔などのあとに着替えてカバンを持つ頃には、シャルはちゃんと靴を履いて待っていた。
妙な問答をしたが、気拙い空気にはなっていない。
目が合うと、シャルは微かに口角を上げて笑みを作った。
普通の人間にはない自然感みたいな空気が、オレの警戒心を簡単にすり抜けてくる。
「さっきの会話、久史に言うなよ?」
「はい」
***
シャルが押しかけてきた真意はわからない。
本当に時間ができたから興味のあったことを実行しているだけかもしれないし、本人が言うようにオレのことを知りたいだけなのかもしれない。
いや、彼の中には明確な目的がある。
オレと友人になるなんて、どう解釈したらいいものか。
素直に受け取れないのは他人を信用したことがないからだけど、そう言っても「確証はある」とか言って笑うんだよな。
こっちは疑問しかないっての。
久史は一切オレに接触をしてこない。
どうなっているのか詩緒梨さんに聞くのも変だし、シャルに聞くのも違うと思うと自分から連絡を取る案しか残っていない。
そんなの無理。
既読にならなかったらと思うと……まだそのダメージに耐えられそうにない。
オレは前夜の気拙い空気を思い出しては肥大させて、より陰鬱に沈んでいく。
挙動不審になり、言葉を詰まらせ、しゃがみ込んで動けなくなることもある。
沈む度にシャルは呆れもせず引きずり上げてくれて、その対価のように久史とのことを聞きたがった。
シャルは都度、会話は楽しむものだと言う。
だからだろうか、久史の話をする時も自分のことを吐露する場面も、宇宙の真理や宗教観で意見交換するとしても、まったく茶化さずになんでも聞き込んでくれる様子には好感が持てる。
話の腰を折られることもなく、オレの発言にかぶせて発言することもなく、ただ、真っ直ぐオレを見て本当に会話を楽しんでいるようだった。
それに、ひとりで難しく考えすぎたことなんかは吐き出してしまったほうが楽になることが多い。
シャルは聞くだけではなく、オレが求める言葉で応えてくれる。
的確に、知的に。
オレの話を邪魔しない点では久史と同じだが、こういう感じは久史じゃ体験できないだろうな。
絶対。
