顔をあげて きみと歩いて

3章 「今」の気持ち


「…………の、のの! しっかりして!」

 微かに身体が揺れているのを感じた。
 意識が暗闇に戻ってくると、途端に倦怠感が襲ってくる。
 うたた寝からの強制起床が感覚として近いかもしれない。
 一瞬、なにが起きているのか認識が曖昧になった。

「ののってば!」

 耳元で響いた声に、顔を上げる。
 同時に自分の状況を理解した
 ヤバイ。
 涙とか洟とか、全然拭いてない無防備な顔だった。

「のの……だい、じょうぶ?」

 なにに驚いている顔だ。
 オレの顔がべしゃべしゃで驚いてるのか。
 悪かったな。
 理想なんて言葉を、オレに期待するなよ。
 いつだって地べたを這いずるリアルに惨めな人間様だぞ。

 捻くれ者はいつもそんなことばかりを考えている。
 怖くて口にできないのに、他人への文句ばかり思っている。
 オレがそういう人間だって、コイツは知らない。
 いつか離れる時が来て、コイツがぐずったらぶちまけてやろうと思っている「嫌」な部分。

「のの? 聞こえてる?」
「…………う、ん」
「はぁーーーーっ、よかったあぁ。戻ってきたらチョー隅っこで泣いてっし、呼んでも揺すっても反応ないし……!」

 オレの顔、汚いのに遠慮なく抱きしめてきた。
 思ったよりもゴワゴワした衣装に顔が触れる。
 洟って、シミになるよな。
 弁償なんて言われたらどうしよう。

「ごめんなさい。迎えに行って、話聞かなかったからだよな?」
「ちなう」
「違うくない。なにがあったのか聞いてれば、こんなにならなかったって知ってる」
「ウソ、ら」
「ヤなことあったって声でわかったのに。オレ、感情が混ぜこぜになって」
「混ぜこぜ?」
「ホッとして、嬉しくて、少しだけ腹が立って、でも本当に来てくれたってニヤニヤして、この格好見たら驚くかなとか」
「先に離れろ……汚れる」
「もう汚れてるからヘーキ!」

 言われて、ようやく墨の香りに気がついた。
 よくよく見れば、そこら中に墨が飛んでいる。

 顔にも撥ねていて、不意に拭いてやろうと思った。

「……」

 腕が、微かに動く。
 でも持ち上げるまではいかない。
 目の前の顔は触れてくれることを期待している。

 ダメだ。
 触れちゃいけない気持ちが想いを呑み込んでしまって、腕を動かせない。

「…………」

 項垂れた。
 涙がメガネの淵に溜まっているのを感じる。
 情けなさしかなくて、また泣けてきた。

「……ック、……ぅぅ」
「顔上げて?」

 頭を振る。

「顔、見たいな?」

 頭を強く振る。

「オレを見てよ」

 何度も頭を振る。
 振る度に濡れた頬が空気に触れて少し冷たい。

「しがみついて、いいよ」

 ひたすらに頭を振る。
 久史はオレが泣いても嫌にならないんだろうか。
 年上が泣いてるところを見ても何も思わないんだろうか。
 こんなことを考えているオレを、どう思うんだろうか。

「……思ってること、全部吐き出して?」

 お前が傷つくかもしれないから、そんなの無理だ。
 伝わってほしくて頭を振る。
 今はそっとしておいてほしいって、言わなくちゃ伝わらない。
 わかっているけど今は声を出したくない。

「声出してよ」

 嫌だ。
 泣いていて変な声しか出ないのに聞かせられるか。
 息継ぎが上手くできなくて、ひっくり返ってしまうからきっとお前でも聞き取れない。
 何度も聞かれるのも嫌なんだ。
 だから頭を振ってるんじゃないか。

 わからないよな。
 言わないと。

「話してくんなきゃ、わかんない」

 呻き声しか出ないから嫌だってば。
 オレはただ黙って、情けない泣き声が漏れないように口を噛むしかできない。

 しばらく、オレの情けない声だけが漏れ聞こえる。
 久史の手は緩くオレの腕に掴まっている。
 近くにいるのに、少しだけ不思議な感じがした。
 いつもなら、もっと触ってくるから。

 ああ、ほらやっぱり。
 こんな面倒なヤツ、さすがに呆れるよな。

 オレの全感情が暗闇に目を向けようとした瞬間。

「ん、わかった」

 なにがわかったんだと考える間もなく、濡れた頬が熱い掌に包まれた。
 強引に上を向かされ、唇を塞がれる。
 勢いで額がぶつかって、メガネの鼻パッドが危うく目に入るところだった。

「ん、んん……っ、っっ!」

 元より部屋の隅で縮こまっていたオレの背中は壁に押しつけられて身動きが取れない。
 がっちり頬をホールドされた上で口を塞がれ、強張ったままの手足では抵抗も逃走もできなかった。

 こんな時になにやってるんだという意識が、突然の行動に困惑を押しつけられる。
 意識も、身体も、身動きが取れない。

 ってか、窒息する……っ!

 散々っぱら泣きまくって洟がぎっちり鼻を塞いでいる。
 そこへ口を塞がれては、呼吸なんかできるワケがない。

「んーっ! んんーっっ!」

 どん底のヘタレ根暗モードなんぞ持続している場合じゃなかった。
 生きるか死ぬかの危険信号が脳内に灯って、オレは拳を握ると久史の脇腹へ叩き込む。

「ほぐぉっ!」

 脇腹を抑えて身体を捩じったところを蹴り飛ばし、いつでも逃げられるようにとその場に仁王立ちになった。
 鼻で息が吸えなくて満足に呼吸ができていないけど、命の危険に伴う怒りに着火する。

「アホかおまへはぁっ! 死ぬらろ! 鼻詰まってんろに口塞いらら死ぬらろぉらーっ!」
「ふぁい……ごめん、な、ちゃい」
「ったく、なんなんらよ……っ、オレは、真剣に凹んれんらろ」
「今も凹んでる?」
「凹んれられるか! 人工呼吸かってくらい口塞ぎやらって! メガネらって目に刺さるトコらったんらかんなぁ!」
「へへ。オレの顔、やっとちゃんと見てくれた」

 殴って蹴ったのに、怒ったのに、久史は嬉しそうに笑っている。
 途端に怒りが収まって、オレは再び久史の前に膝を折った。

 コイツはいつもこうだ。
 オレが怒ったって怒鳴ったって、殴っても蹴っても、ただ嬉しそうにする。
 イジメられるのが好きとかそういうのじゃなくて、単にオレと目が合うのを喜んでいる。
 オレからの仕打ちなんて、なんともないみたいに目を細める。
 この顔をされると、怒りはスッと収まるようになってしまった。

「鼻声、可愛い」
「煩い……ズズッ」
「ぎゅってしていい?」
「……ん」

 断ったら、また酷い目に遭いそうだ。
 結局、いつものパターンに流されてしまった。
 オレが黙っている=黙認と勝手に即決する、高校時代に食らったあのパターン。

 そっと髪に触れた指が、後頭部に降りて背中をさする。
 もう片方の腕が肩をすぎて背中に回る。
 慎重に包み込まれた久史の腕の中、体熱がしっとりしているのを感じた。

 そりゃそうか。
 あれだけのパフォーマンスをしたんだ。
 汗も存分に流れるだろう。

「……あの、ごめん」
「なにが?」
「パフォーマンス、最後まで、見れなかった」
「そっか……ま、動画配信サイトでライブ中継したから、残ってるっしょ。サイアク、ねーちゃんに言えばデータもらえるし」

 動画のライブ配信してたのか。
 そんな話、初めて聞いた。
 動画配信ができる環境が揃っているなんて、コイツの一家は凄いな。
 いや、やろうと思えば誰でもできる時代になったか。

「のののことだけ考えてたんだけど、わかった?」
「わかるワケないだろ」

 無になっているワケじゃなかった。
 オレのことを考えてたって、集中って言うのか?

 あんな凄いパフォーマンスを見てる間、オレはなにを考えてた?
 アイツの影が見えた気がして身体が自然に震える。
 久史がオレのことを考えていた間、オレは最後まで久史を見守ることができずにどうしてた?

 己を振り返ると、こんなままで久史の腕の中に収まっていることに抵抗を感じた。

「……」

 胸を押せば、優しく腕が解ける。

「し、小学生の時……オレに、ひ、酷いことした先生に、会った……んだ」

 言ってしまおう。
 隠していても仕方がない。
 無意味に心配させるくらいなら話してしまってどうするかを決めてもらいたい。

 このままオレを好きでいるのか。
 これまでを無駄な時間としてしまうのか。

「っ、五年、以上……会ってなかった、のに」
「……」
「アイツ、は、オレ……っ、オレを、お、お、覚えて、て」

 同級生なら遊びの延長だから忘れてくれる可能性はある。
 けど、大人が相手じゃ忘れてくれと言うほうが無理ってものだ。

 なぜかって、大人は無邪気にイジメを楽しまない。
 明らかな意図を持って、存分にイジメを悦しむから。

「そしたら、さ、やっぱり……じ、自分、が、どんなヤツだったか、お、思い、出して」

 頬が熱くなる。
 背筋に走るものがあって、それはじわっとオレの視界を滲ませた。
 あの頃いつも感じていた諦め。
 我慢すれば、時間がすぎれば、開放される。
 それまでの我慢をするために目を固く閉ざした。
 今でも同じように怯えるなんて、普通の人からすればきっと不思議だろう。
 忘れられないって、こういうことなんだ。

「…………ック、ぅ……ん……」

 どんなに耐えようとしても、涙は勝手に溢れて零れる。
 メガネが邪魔で、外したついでにシャツの袖で涙を拭く。

「オレ、ぅぇっ、う、……んっ、オレ、ヒック、んん」

 伝えることが怖くなっても、言葉に詰まってどんなに時間がかかっても、コイツは最後まで聞いてくれる。
 待っていてくれる。
 言いたいことを伝え終わるまで、ずっとオレを待っていてくれる貴重な相手。
 だから最後まで伝えようと思えるんだ。

「こ、怖くてっ、ヒック、ック、にっ、逃げ、逃げら、れ……っな、くて」
「……」
「今まで、と、同じ……諦め、た。少し、が、我慢すれば、っ、オレが、んんック」

 本当は全力で逃げたかった。
 厳しい態度で拒否したかった。
 もう流されるだけじゃないって、態度に、出したかった。

 なにもできない。
 成長もしていない。
 変わった風に感じていただけ。

 久史の隣はそれほど、オレに安息を与えてくれていたってことだ。

 けど圧し潰されるような過去の恐怖に、これから先も自我を放棄して怯えることが出てくるだろう。

 その度に、コイツに迷惑をかけるのか?
 そんなことが許される人間なのか?

 甘えてはいられない。
 コイツがオレを「否」としたなら、いつでも離れられるようにしておかないと。

「のの……センセーの名前は?」
「え……? や、矢荻(やおぎ)……、どっかの、中学、で、書道……部活、してるって」

 アイツの名前。
 もっと恐ろしいかと思ったのに、案外あっさりと口にできた。

 名前を聞いて久史は僅かに眉を寄せた。
 感情がわからない空気が流れ、オレの洟をすする音が小さく響く。

 なにを考えているのか知りたい。
 なのにオレの口は嗚咽を我慢することに集中している。

 わかっているのに勇気が出ない。
 久史がどんな反応をするのか怖くて、必要以上の言葉が出せない。

 堂々巡りの面倒くさい感情をぐるぐるさせていると、見つめ合ったままの久史がゆっくりと瞼を閉じた。
 小さく呼吸を整えて、目を開ける。

「ヤなこと言わせて、ごめんなさい」
「?」
「確かめたくて、センセーの名前、聞いたんだ」

 久史の顔が、強張った。
 他人に対する感情……というワケではなさそうな表情になっていく。

「のの……ごめんなさい。オレ、そいつがこの会場に来るの、知ってた」

 知っていても、どうしようもない。
 オレが過去になにをされたのか、知らないんだから。
 なのに久史は両手をついて、額を床にぶつけた。

 鈍い音が床から膝に伝わって全身が驚く。

「小中学校の書道部顧問の名前、挨拶があるからって覚えさせらた。だから、オレ、その名前知ってる」
「久史」
「知ってたのに、オレが、ののを怖がらせたんだ」
「違う、だろ」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 いつもは頭の悪い口調なのに、謝罪だけは「ごめんなさい」と言う。
 そこがまた可笑しくて愛おしくもあるんだけど、今は謝ってもらう必要はない。

「アイツ、と、顔見知りって……お前、今……知ったのに、オレを、さ、誘った時、わかるはず、ない、だろ?」
「可能性とか予測とか、できること、きっとたくさんあった。それしないで、オレを見てほしいってだけで……ののを傷つけたんだ」
「違うって」
「違うくないっ! この先ずっとオレが守るんだって、決めてたのに!」

 胸が、チクチクする。
 久史は自分のせいでもない不慮の事故に心を痛めている。

 土下座のままの久史の頭部。
 金髪の流れがキレイな影と湾曲線を広げていた。
 オレも、こんな風に見えていたのかな。

 卒業後、久史に呼び出された時。
 天気のいい昼下がり、祖母に誤解されて持たされた大きなバラの花束を持って公園でオレを待っていた。
 初めて見る私服、初めて聞く過去形の言葉。
 爽やかに「もう会わないから安心して」と去って行く気配に、オレの中にあったもやもやが爆発した。
 感情が止まらなくて大泣きしたオレの手を引っ張って、久史は自分の家に上げてくれたんだ。

「ここまでついて来てくれたんなら、先輩のキモチを聞きたいなーと、思いマス」

 どう思っているか、一度だけ聞きたいと言った。
 どう思っていたか、ではなくて、どう思っているか。
 言葉の小さな違いに、あたたかい喜びに心が震えた。

 でも状況からして初めてのことで返答の最善も正解もわからず、今の久史みたく土下座をするように背を丸めて突っ伏したんだ。

 懐かしいな。

 オレは残った涙を拭き切って、洟をすすった。
 それでも止まらないから、長テーブルに置かれた箱ティッシュまで移動してわざと派手に洟をかむ。
 久史を盗み見したけど、土下座のままでジッとしている。

 数回ティッシュを使って鼻の通りをスッキリさせると、久史の前に戻りしゃがみ込んだ。

「久史」
「ごめんなさい」
「顔、上げろ」
「許してくれるまでヤだ」
「あいつが中学で書道部の顧問をしているって知ってたら、お前がなにを言っても絶対に来なかった」

 照れもあって、人差し指で頭を突くだけにする。
 それだけなのにドキドキしてるって気づかれませんように。

「守ってくれるんだろ?」
「……守れて、ないじゃん。カッコ悪い」
「オレを見ないほうがカッコ悪い」
「!」

 脊髄反射並の勢いで、久史はバネみたいに顔を上げた。
 額が丸く赤くなっている。
 なのにイケメンには違いなくて、なんだよコンチクショウって思う。

 同じ人種で、同じ男で、こんなにも違うんだからな。

「……嫌いになった?」
「なってほしいのか」
「ほしくない」

 オレの見ていないところでは、案外ネガティブなのかもしれない。
 お気楽な性格だと思っていたけど、それはオレといるからだったりして。
 さすがに自惚れすぎか。
 縋るような視線はブレることなくオレだけを見ている。
 オレが下しか見ていない時からずっと、オレの顔を真っ直ぐ見たいと向けられていたであろう視線。

「……」

 ヤバイ。
 好きって、再認識してしまった。
 改めてオレはコイツに本気なんだって、納得してしまった。

 途端に顔が熱くなる。
 気拙くなって顔を逸らした。

「のの?」
「な、んでも……ない」
「やっぱり、嫌いになった?」
「恥ずかしくなっただけ」
「?」

 くっ、きょとんとしやがって。
 羞恥からの苛立ちを誤魔化すように久史の赤くなった額を指先で弾く。
 久史の声を聞くと詰まってしまいそうだったから、先に口を開いた。

「また同じようなことが起きたら「ごめんなさい」より「好き」って抱きしめろ」
「……え?」
「そのほうがオレには効く、から」

 恥ずかしいセリフだ。
 口にしてもよかったんだろうか。

 言ってしまってから不安になっても仕方がないけど、オレの性格上回避できないネガティブな部分。
 尻すぼみになってしまった声は最後まで聞こえなかった……なんてことはないだろう。
 全部ちゃんと聞いた顔をしている。
 聞いた上で、固まっている。

 言い方が変だったかな。
 もう少し考えて言葉を選んだほうがよかったか?
 でもあんまり遠回しだと気づかないし、言い直すのはもっと恥ずかしい。
 難しい言葉を使ってもコイツは理解できないから、直接的に言うしかない。

 あーもー、恥ずかしさ最高潮。
 けど、言わずに後悔するよりずっといい。
 不格好でも笑わない相手だって知っているし。

「わ、わかった、かよ」

 オレの確認の言葉に、ようやく表情が明るくなった。

「覚えた!」
「ん、偉いな」

 伸ばして届く久史の前髪を撫でると、嬉しそうに頭を向けてきたから頭を撫で直してやる。
 存分に撫でられて満足したのか、仰向けに倒れた。

「あーっ、ダサイ! ダサすぎるぞオレ!」
「もういいって」
「惚れ直してもらおうって、クッソ面倒なこと引き受けたのにぃ~!」

 大の字になると悔しそうに鼻を鳴らす。
 安心しろ、しっかり惚れ直して嫌というほど好きだと再確認したから。
 言葉にはしないけど。

「どこまで見てた?」
「歌曲でなにか書いてる辺り」
「あーっ、惜しいっ、それってチョー惜しいっ!」

 なにが惜しいんだ。

 そのセリフがオレの顔に書いてあったのだろうか。
 素早く上半身を起こして胡坐をかくと、久史はへらっと笑って緩く左右に揺れ始める。

「あの曲の歌詞、知ってる?」
「テレビCMで使われてたところなら少しは知ってる」
「淡く染まれよ恋桜。散るは花びら想いの煌めき。風は雅に花と舞い、あなたへ運んで恋のプライド」

 起用しただけに、歌詞もしっかり知っているんだな。
 ……好きなのかな。
 調べて、みようかな。

「あれラブレター」
「ラブレター」
「オレの中ではのの宛。けど、建前はふとくてーたすー宛」
「ふーん」
「ホールに展示してるけど、ヤなヤツが徘徊してるんじゃ見に行けないよな」

 さすがに徘徊まではしてないと思うけど、警戒してくれているのなら素直に従う。
 オレとしても、さすがにまた遭遇するという偶然は勘弁してほしいし。

「動画で読んでほしいな」
「気が向いたらな」

 返答にガッカリすることもなく、パッと顔を明るくした。
 表情に出る感情がわかり易いとオレも反応に困らなくて済む。

「ラブレター書いてたおっきな紙さ、墨の香りを吸って広げる特殊紙でさ」
「鶴城さんの名刺と同じヤツ?」

 ずさんにズボンのポケットに入れていたけど、出したら上品な香りが漂う。

「そうそう、これ。紙にしっかり墨の香り残すのって割と難しいんだ。だから、ちょーっとガンバっちった」
「お前が考えたのか?」
「うん。のの、墨の匂い好きって言ってたし、喜んでくれっかなーって」

 ん?
 そんなこと、言ったかな。
 確かに、書に向かっている久史の傍に何度かいたけど……匂いが好きだって、言ったことあったか?

「誰かと間違えてないか?」
「間違えてない」
「覚えがない」
「それはしょーがない」
「?」
「ずーっとずーっと前だから」
「え?」
「オレが四歳の時の話」

 そんなに前の話を覚えているのか?
 マジで?
 普通に凄い記憶力なんだけど。
 なぜそれが学業に使えないんだ?

「あの頃は書初め式に参加すんのが嫌でしょーがなくってさぁ。テーコーして道具持ってかなかったんだよね」
「お、おぅ……?」
「そこで道具を貸してくれたのがののなんだけど」
「うーん、まっっっったく覚えてない」

 父親が家にいた時代は、毎年近所の神社で開催される書初め式に参加していたのは知っている。
 アルバムに残ってたから知っている。
 オレの記憶としてはほぼないに等しい。

 習字に触れる機会はあの時と学校の授業だけだったから、覚えてなくても仕方がない。

 その書初め式で久史に会ってた?
 しかも、墨の匂いが好きって言った?
 久史が四歳ならオレは六歳……うーん、覚えがない。

「おとーさんの親戚に習字の先生がいるって話しで、確かに、ののが磨ってた墨はプロ仕様でさ」
「えっ、そうなんだ?」
「磨りながらメーソーして、心を空っぽにした時に浮かんだ文字を書くといいんだーって、話してくれたよ」
「恥ずかしすぎる」
「ののは空って書いてた」
「ひぇえ、単純……」
「んなことないよ。文字に対する向き合い方がカッコイイってオレ感動したもん。そしたら書きたくなって、でも道具ないからどうしようって半泣きになってたら貸してくれたんだ」
「オレから?」
「うん。そんなに書きたいなら貸してあげるって」
「初対面の子どもに謎の年上目線」
「嬉しくってさ。ののが座ってた場所に座って、同じように墨を磨ってメーソーして。で、そん時にののは墨の匂い好きーって言ってた」

 思い出の墨がオレの近くにもあったなんてな。
 父親が生きていた頃のことはほとんど忘れてしまっているから、そんなエピソードがあったなんて知らなかった。
 オレの父親はオレが七歳の時に転勤で家を出た。
 そして転勤先で交通事故に遭って他界したのが半年後。

 父親が近くにいてくれたら、少しはイジメも緩和されていただろうか。
 守ってくれたかな。

「どうして好きか言ってた?」
「好きってしか言ってなかった」
「そっか」

 深く追うのは止めよう。
 思い出さなくても支障のない記憶だ。
 ガキのオレが、父親からもらった墨の匂いが好きだって得意げに話してたってだけ。

「あの時の子がののだって、最近思い出したんだよね。これって必然ってヤツ?」

 ニヤニヤするな。
 お前が望む答えは言わないぞ。

「その時の書初め、なんて書いたんだ?」
「え? えーと「はつはるこいはる」だったかな。全部ひらがなで」
「はつはる……こいはる?」
「初めての春、恋した春」
「ホントに四歳だったのかよ」
「メーソーして浮かんだ文字だったから素直に書いただけだよ」

 ひらがなにしたのに意図はなかったんだろうか。
 さすがに四歳の久史を疑うのは気が引けるから、その疑問は胸の中に留めておいた。

「ま、サプライズのつもりで墨の匂いを楽しんでもらおうって準備したワケ」
「パフォーマンス凄かったって労うしかできないけど」
「じゃご褒美として一緒にシャワー入ろ!」
「はぁーっ?」
「オレ着替えなくちゃだし、ののだって顔洗ったほうがいいよ」
「ひとりで行けっ!」

 一緒にシャワーとか、バカじゃないのか!
 明るい場所では肌を見せないって、何度も何度も何度も何度も……っ!

 しかしながら拒否しかしないのは申し訳ない気がする。
 ほら、オレのために?
 本当は出たくなかったのに頑張って演目やったワケだし?
 サプライズって気合入れてたワケだし?

 オレも好きだって、再確認しちゃったし。

「……脱がせてやるから、ひとりで行ってこい」
「えっ?」
「ごほーび、だからなっ! 二度としないから」
「どうせならエロく脱がせて~」
「殴るぞバカ。ほら立って」
「ふぇ~い」
「返事はちゃんと」
「はいっ!」

 袴に躓くこともなくシャキッと立った。
 その久史の背後にはガラス窓があって、向こう側では小中学生達が一心不乱に半紙に向かっている。
 オレの視線の先に気がついたのか、久史の腕が向こうを遮るように上がった。

「見ないで」
「……ん、そだな」

 そっと膝立ちになる。
 このほうが紐や帯を外し易いって、なにかの雑誌に書いてあったけどオレたちの身長差だとやり難い気しかしない。
 でも立ち直すのも変だし、このままでいいか。

「よし、始めるぞ」
「はーい」

 分厚い刺繍で金の雲間を赤い鳳凰が何羽も飛んでいる派手な袴の紐は、一般的な結び切りになっている。
 しっかり結んであって解くのに苦労をしながら見上げると、口元が緩い久史と目が合った。

「いー眺め」
「勝手に妄想してろ」
「むふふ、遠慮なく」

 そういうの込みのご褒美だ。
 だからいつもみたいに怒ったりしないぞ……っ。

「着つけ、知ってんの?」
「本で読んだだけだ。雑学の範疇」

 やっと解けた紐を外し、袴を持って下ろす。
 ゴワゴワで型崩れしない、超合金みたいな袴に感心した。

「これ、相当重いだろ」
「一キロくらいだよ」
「これ着てよくあんなに動けたな」
「それはぁ、若さとののへの想いでぇ、カヴァーってヤツぅ?」
「あー、はいはい」
「嬉しくない?」
「どうだろうな」
「その返しは嬉しい時って知ってる」
「はいはい」

 袴を適当にたたんで脇に置く。
 パフォーマンス重視で簡略化されているかと思ったけど、意外にもしっかりと和装だった。

「ねぇのの。オレ汗臭くない?」
「まだ鼻が詰まってるから気にならない」

 ウソだ。
 本当は、漂う匂いを感じている。
 嗅ぐ度に思い出すのは、夕方の茜色に染まる図書室でのこと。

 カーテンで締め切られた室内に広がる汗と性の匂いが、存分な羞恥と嫌悪と不本気な行為の記憶に直結している。
 恥ずかしいし変な奴だと思われたくないから言わないけど、久史の汗の匂いは腰の辺りにゾクゾクくる。
 オレって匂いフェチなのか?

 いやいや、きっとあの時の刷り込みだ。
 刷り込みに決まっている。

「後ろ向いて」
「はーい」

 くるりと反転した久史の邪魔にならないように帯に挟んである着物をまず下ろした。
 こちらも派手な模様だった。
 ただの黒かと思った部分は、墨汁を滲ませたようなグラデーションが幾重にも重なっている。
 そこに細かく金糸の刺繍で波のような曲線が流れていた。
 薄墨色の生地は触り心地が良くて、ずいぶん高そうだ。

 それを遠慮なく墨まみれにするんだから、表現者って凄い。
 この価値のありそうな着物を前にそれしか思いつかない庶民なオレ。
 水準が違いすぎるんだよな。
 なんでも。

 着物の帯はシックな藍色で、織りの表現だけで鯉が静かに泳いでいた。
 一文字結びのそれを外せば、待ってましたとばかりに久史が両手を上げてくるくる回り出す。

「あ~れ~」
「着物の帯を外す時にやってしまう行動第一位((カッコ)暫定)(カッコとじ)
「配信で時代劇見てっと、大体やっててホント面白い」
「かどわかされて手籠めにされるシーンだぞ。面白いはないだろ」
「か、かど? お米?」
「拉致られて乱暴されるシーン」

 わかり易く言うと明け透けで嫌な気分になる。
 とは言え、アレは作り話だからダメージはない。

 あっという間に解けた帯を脇に放り投げ、着物を脱がせてインナーだけの状態にする。

「できたぞ。行ってこい」
「はぁ~い」

 聞き分けよく「シャワー室」と書かれたドアの向こうに消えて行く。
 さすがに裸で飛び出してきたりしない、よな。

 脱がせた着物を適当にたたみ、出入り口近くに重ねて置いた。
 衣装を入れていた袋なりなんなりはないんだろうか。
 室内にあるハンガーラックにそれっぽい物はかけられていない。

 探している途中にふと、窓の向こうに視線が向かった。
 冷静に考えて、この距離ならアイツの顔は判別できないだろう。
 かなり視界はぼやけてるし。

 ぼやける?

「メガネ、どこ行った?」

 外して涙を拭いたまでは覚えている。
 置いたと記憶している場所には当然ない。

「まさか」

 シャワー室のドアを睨んでも後の祭りだ。
 久史は、オレのメガネで勝手にシコった前例がある。
 今回もそうなら、いや、そうに違いない。

 まあ今は都合がいい。
 もしかしての時、嫌なヤツの顔を見なくて済むし。

 奔放な久史の行動に頭を押さえつつ、着物を入れる物を探すことも諦めた。
 軽快な水音を聞きながら、シャワー後に飲むミネラルウォーターのペットボトルを探すことにするが。

「ないな」

 ケータリングで何本もペットボトルが並んでいたが、ミネラルウォーターがない。
 飲み切ってるなら、スタッフに頼んで用意してもらっとこう。
 シャワー上がりにミネラルウォーターがないって騒がれるのも面倒だ。

 出入り口の脇に設置された内線用電話の受話器を持ったタイミングでドアが勢いよくノックされる。
 悲鳴を出す間もなくドアが開く。

「ヒッサシー! って、いないのかよ」

 こういう勢いで入ってくるのは、大体がキングだ。
 室内を見渡し、久史がいない理由を無言で聞いてくる。

「いっ、今、シャワー中、ですっ」
「相変わらず準備が遅いなぁ。あ、セックスしてた?」
「セッ……すっ、は、す、するはずないでしょーっ!」
「なんでだよ恋人だろ? どうせ外から見えないんだから遠慮すんなって」

 ここは安全管理上鍵がかからないようになっている部屋だぞ。
 外から見えなくても侵入されたらどうするんだよ。
 今みたいに、今みたいに!

 それにそういう行為は、まだ無理な話で。
 身体の隅々まで見られたらどうしようとか、キングにとってはどうでもいいような不安がこっちにはあるんだ。
 説明したところで理解してくれそうにないけど。

「ま、いいや。ヒサシに早く準備して挨拶に来いって伝えてくれるか?」
「わかりました」
「で、ヤノはなにしようとしてた?」
「あ、えっと、ミネラルウォーターを頼もう、かなと」

 動悸がまだ早い。
 この人は久史に輪をかけたように行動が大雑把なところがある。
 繊細さも大切だと思ってたんだけど、大物のボディーガードは違うのかもしれない。

「まだ届いてないのか。お前を迎えに行く時に依頼したんだが」
「そうなんですか」
「慣れてないスタッフだったかな。悪い、すぐ持ってくる」
「キングがしなくても」
「ヒサシに頼まれたのはオレ。だからこの仕事はオレの責任」

 キングはオレが持っていた受話器を取り上げ、本体に戻した。
 真面目な顔で部屋を出て行って、五分もしない内にミネラルウォーターを持って戻って来る。

「三本で足りるか?」
「はい。ありがとうございます」
「じゃ、伝言ヨロシク」
「わかりました」

 不意に匂いが漂ってきた。
 キングについた、華やかな花の香り。
 会った時には匂わなかったから、オレと別れた後にどこかで移ったんだろう。
 彼がフレグランスを使うワケがないから、これはきっと「彼」が今日つけているフレグランス。
 さすが、お貴族様。
 身だしなみは完璧だな。

 キングがボディーガードとして仕えているのは、ヨーロッパを拠点とする大貴族の末裔。
 経済やら文化やらを陰で支えていると言われる、由緒正しき血統の持ち主だそうだ。
 見目麗しく物腰柔らか、完璧な貴族の威厳を放つ彼は、日本の書道に魅了されその中でも久史にご執心だったりする。

 凄いよな。
 貴族が目をつける才能って。

「はぁ~、サッパリした!」
「久史、キングが早く準備をして挨拶に来いって言っていたぞ」
「メンドーだなぁ。ののと一緒にいたい~」
「怒られるからワガママ言うな」

 敢えて誰にとは言わないが、久史は察して首を竦めて「はーい」と返事をした。
 ミネラルウォーターの一本を渡すと、半分くらいを一気飲みする。

「オレのメガネ」
「あ」
「使ってないだろうな」
「一緒にシャワー入ったけど、使ってない、ヨ」
「一緒に入るなっ!」
「いーじゃん、キレイになったんだし」

 はい、とオレの手に戻ってきた。
 高校の頃の黒縁じゃなくて、シックなマーブル模様が施されたメガネ。
 他人との壁としてかけていた頃よりも視力が落ち、今では完全にメガネありきの生活になっている。

「勝手に持ってくな」
「いやぁ~、ののの私物って思っちゃうとつい~」
「変態」

 メイク用のドレッサー前に座った久史は、手にしたミネラルウォーターを飲み切った。
 やっぱり激しいパフォーマンスの後だし、喉乾いてたんだろうな。
 なのに世話させてしまうなんて、オレは何やってんだ。

「乾かして!」
「はぁ?」
「いーじゃん、ご褒美の延長~♪」

 嬉しそうにしやがって。
 二本目のミネラルウォーターを渡して、仕方がないからドライヤーを手にした。
 遅れるとオレがキングに怒られるし、オレが一緒だと久史がだらしなくなるって思われたくないからな。

 人の髪を乾かすなんてことは初めてで、ちょっと緊張する。
 何事にも自信がないから、なにをするにも不安で仕方がない。

 慎重に、襟足から順番に熱すぎない距離で温風を吹かせる。
 久史の濡れた髪に触るのも初めてかもしれない。
 ダメだ、意識すると動悸が激しくなって手が震える。
 バレないように気をつけないと。

「髪の毛、切ろっかな」
「好きにすればいい」
「どんな髪型が好き?」
「お前に似合う髪型」
「それって一番難しいよぉ」
「だから好きにすればいいじゃないか」
「んも~、イジワルぅ~」

 鏡に映る久史がオレを見て笑う。
 怒る気になれなくてドライヤーで髪をめちゃくちゃに乱してやったら、楽しかったのかもっとやってとせがみ始める。

「鬱陶しいなっ、遅れるからダメ!」
「もっかい! もっかいだけ!」
「ガキじゃあるまいしっ」
「ののよか若いですぅ~」
「二歳なんか差に入るか!」

 とかなんとか言い合いながら、結局オレは、何度も久史の髪をドライヤーでめちゃくちゃにしてしまった。
 乗せられた。
 無邪気に笑って楽しんでいるのを見ていると、いつの間にか甘やかしている。

「挨拶、直ぐに終わらせるから待ってて。いっしょ帰ろ」
「でも」
「一緒の車で帰ろうよ」

 意味を察した。
 久史はまだオレのことを心配してくれているんだ。
 そこに意地を張る必要はない。

「……わかった」

 挨拶用の服も用意していたようで、久史はフォーマルな服装に着替えた。
 敷地内にある第二体育館に立食パーティー会場が設えてあって、そこに行くそうだ。
 どこまでも貴族的だなと思ってしまう。

 いや、それほどに大きな大会だってことだろう。
 海外からも注目される書家が開会式のセレモニーを飾ったんだ。
 立食パーティーくらいするか。

「行ってきまーす!」

 せっかくのフォーマルが台無しなくらいに大きく手を振り、部屋を飛び出して行った。
 急に、静かになる。
 ガラス窓の向こうはいつの間にか終わっていて、スタッフが掃除をしていた。

「……はぁ」

 疲れた。
 正直に疲れた。
 人の多さに削られたHPが、矢荻に遭遇してさらに削られ毒った気分。
 HPは回復したけど、毒は未だに続いていてオレの中に痛みを広げる。
 でもそれもいつの間にか忘れているに違いないから、アイツと遭遇したことはこれ以上考えないようにしよう。

 鶴城さんは帰れただろうか。
 立食パーティーに参加しているなら、知り合いに送ってもらうとかしたほうがいいんじゃないかな。
 少し見ただけでも、あの人の方向音痴は本物だった。

「ま、余計な心配かな」

 見た目からしても、オレよりずっと年上だ。
 そんな、方向音痴を自覚する大人が何らかの手を打っていないはずがない。

 鶴城さんは、久史とどんな風に話すのかな。
 久史はオレと話すみたいに気軽に声をかけてるのかな。
 オレの知らない久史。
 知る必要もないと思っている書家としての一面。

 ドレッサーの前に座って、ライトを消した。
 途端に薄暗く感じて意味のない寂しさを感じる。

 久史が飲みかけて放置してあるミネラルウォーターに口をつけた。
 本人の目の前だと「間接キスだー!」って壊れたみたいに喜ぶから絶対にしないけど。

 床に落ちているバスタオル。
 存分に拭いたあと落としていきやがった。
 わざとなのかな。
 オレが片付けるって思ってやってるのかな。

「……」

 バスタオルは当然湿っていて、シャンプーやボディーソープの香りがついている。
 そして、微かに久史の匂い。
 国立の体育館のシャワー室に似つかわしくないフカフカのバスタオルには、金糸でエンブレムが刺繍してあった。

 なるほど納得。

 じゃあ、あのフォーマル服も貴族の彼が準備したで確定だ。
 久史に似合うモノを仕立てたのかも。

 アイツはわかってんのかな。
 似合うように、恥ずかしくないようにって準備されたものを「当たり前」に使っているのかな。
 感謝したことあるのかな。

 それにしても柔らかい。
 枕みたいなボリュームのバスタオルに突っ伏していると、直ぐに睡魔が意識の周囲をふわふわし始めた。

 ダメだ、久史が帰ってくるのに。
 直ぐって、言ってた。
 直ぐってどれくらいだろ。
 今?
 この瞬間?

「……どうせ、遅いんだろ……」

 待っていればいいんだから、こっちはのんびりしておくさ。