顔をあげて きみと歩いて

2章 「今」のオレ


「……」

 参った。
 オレの予想をはるかに超える人間の数だ。
 書道の大会なんてそんなに来場者はないだろうと思っていたのに、当日券を求める人々がチケット売り場前で長い列を作っている。
 どんな世界にもディープな部分があって、たくさんのファン、イベントとして楽しむ勢なんかがひしめき合っているってことだよな。
 これは侮っていたオレが愚かなだけだ。
 自業自得にも程がある。

 油断してダフ屋に声をかけられ、驚きと恐怖に気力を大きく殺がれた。
 心の中では「なんでこんなイベントにまでダフ屋が湧くんだ。転売ヤーであれよ」と毒づいたけど、深い穴に吸い込まれたように気分が落ちていく。

 急に自分の周囲だけ曇り始めたような感覚の次に、視界が狭くなるように暗くなった。
 影の昏さすらも飲み込んでいくような闇が侵蝕してくる。
 小さな耳鳴りが止まず、騒がしい外周の音が消えて、独り冷たい場所にポツンと立っているような目眩を感じた。

「……っ、……」

 顔を上げていられない。
 震える指でメガネのテンプルを弄って、なるべく人目につかないようにと前髪を掴んで引っ張った。
 最近は久史がションボリするから、前髪は目を隠さない程度に切り揃えている。
 それがここでマイナスに働くなんて。
 そして、もっと分厚いフレームのメガネにすればよかった。
 そうすれば、見た目で近づく人間が限られてくるのに。
 つま先しか見えなくなる視界は久しぶりで、チラッと周囲を確認して向かう先を見定める。

 素早く人目につかない場所に移動しよう。
 そこから久史に連絡をすれば、迎えに来てくれる。

「……ぅ」

 でも。

 でも準備中で、スマホを持っていなかったらどうしよう?
 オレよりも大切な、知らない誰かが久史を訪ねて来ていたらどうしよう?
 本番前でオレに構っている時間なんてなかったらどうしよう?

「……、……っ」

 ダメだ。
 不安がどんどん膨れ上がる。

 アイツはスーパーヒーローじゃない。
 オレのことをいつも見ている訳でもない。
 口ではオレと一緒にいたいと言っているが、どんな本心が隠れているかオレにはわからない。
 それに、久史にだってオレがいない時間が必要な時もある。
 オレにはそれを拒否する権利なんてない。
 そんなご立派な立場じゃない。

 久史に会いに来なければ、こんな気持ちにもならなかったのに。
 久史の誘いに乗らなければ、惨めになりはしなかったのに。

 ああ、でも、久史のパフォーマンスはこの目で見たい。
 なのに。

「柏木か?」
「ぇ……」
「やっぱり。柏木じゃないか」
「…………、……ッ」

 悲鳴はなんとか噛み潰した。
 逃げ出す間もなく距離を詰められ、両肩に強い勢いで手が乗せられる。
 足に杭を打たれるような重みが肩から垂直に下りた。
 間違うことのない、絶望の楔。

「大きくなったな? もう、大学だったか?」
「……っ、ぅ」
「お前が書道に興味があるとは思わなかったな。言えば部活に入れてやったのに」

 オレの担任をしていた頃よりもちろん老けているけど、低くてよく通る威圧的な声は変わらない。

 どうにかして逃げなくては。
 過去の亡霊に時間を取られるなんて自責で動けなくなるよりダメだ。
 早く久史に連絡をして、早く久史の声を聞いて、早く久史の姿を見て安心したい。
 人混みとダフ屋の空気に負けたオレを笑いもせず心配してくれる久史の顔に「もう平気」と言いたい。

 なのに身体は意思を無視して硬直している。
 長年の、嫌な条件反射。

「オレは引率で来たんだが……今は中学で教えているんだ」
「そっ、そ……ぉ、……す、か」
「緊張症は相変わらずだな? 背は伸びても心は未発達のままか?」

 肩に乗った手が、ゆっくり上腕を撫でた。
 周囲から見れば、教師が学生を励ましているようにしか見えないだろう。
 昔と同じでゾッとする。

「大学生として恥ずかしくない成長をしているか、確かめてやろうか?」
「や、っ……いっ、……」
「あの頃のままでは、周囲にも迷惑をかけるだろう?」

 恐怖に絡めとられて、オレの脳は考えることを放棄し始める。

 少しの間オレが我慢すれば、それでいいんだ。
 そうすれば昔みたいに嫌な波風を立てることなく、離れてくれるはず。
 連絡先を教えられたら無視をすればいい。
 聞いてきたら適当に答えればいい。

 少しだけ我慢をして、それから逃げよう。

 オレの視界は、全部を隠すように暗くなった。
 諦めの暗闇。
 懐かしくて痛くて、苦い。

「待ってください」

 聞き慣れない声が聞こえたのは、手を掴まれ引っ張られた瞬間だった。
 細く開けた瞼の隙間から見えたのは、しっかりした体躯の人物。
 覚えはないのに、その人物は真っ直ぐオレを見ている。

「彼はボクの連れです。人違いじゃありませんか?」
「は? 私はこの子の小学校時代の担任だが?」
「はぁ。昔の担任がそんなに乱暴に手を引いて、どこに連れて行くつもりですか?」
「失礼だな……お前は大学生にもなって、こんな連中としかつき合えないのか」

 八つ当たりをされて、振り解くように手を離された。
 気配が去っていく。
 それだけなのに、膝に力が入らなくなってバランスを崩した。

「おっとと、大丈夫ですか?」
「だっ、誰、だ、れ……で、すか……っ」
「妙名嘉君の知り合いです」
「……ひっ、ひさ、久史の、し、知り、ぁ、合、い?」
「ツルギと言います。間違いでなければ、柏木君ですよね?」
「……っ、……」

 素直に「はい」と答えられなかった。
 久史の知り合いだと言っていたけど、本当かどうかはわからない。
 こんな状況だから、いつもよりも警戒心が前に出てしまう。

「あ、あ、疑われていますか? キミの話はよく妙名嘉君から聞いているんです」
「…………」
「嬉しそうに画像も見せてもらったので、はい、覚えていました」
「が、画像……?」
「怒らないであげてください、完全に盗撮ですから」

 あの野郎。
 いつの間にか盗撮にまで手を染めていたのか。
 今度スマホの画像チェックしてやる。

 オレの思考は、久史のことにだけはいつも通りに働くらしい。
 なんだか、少しだけ嬉しかった。
 この感覚が人として正しいのかは知らないけど。

「座れる場所へ移動しましょう。動けますか?」
「はい……すっ、すみ、ません」
「お気になさらず」

 ツルギと名乗った人は、ゆっくりとオレを支えて歩き始めた。
 けど、少し歩いては立ち止まるを繰り返す。
 オレを気遣ってではない動きに、不安になって顔を上げると会場の出入り口が見えていた。

「よかった、辿り着いた」

 辿り着いた?

「入場チケットを持っていますか?」
「久史、から……か、関係者、カード、を……も、もらい、ました」
「なら、直ぐに入れますね。ボクも同じのを持ってます」

 オレの状態に関して、疑問に思わないのだろうか。
 知り合いに似たような人がいるのかもしれない。
 聞かないでいてくれているだけかもしれない。
 空気を読むことができそうな大人に見えるし……チラ見だけど。

 怪訝なスタッフに「緊張で気分が悪いだけ」と軽くウソを言って入場すると、そこにあったベンチに座らせてくれた。

「あ、ありが、とう、ご……ござ、ぃ、ます」
「困った時はお互い様です」

 その言葉を聞いて「あぁ」と思う。
 他人が見て困っているように見えていたなら問題だ。
 他の誰が見ているかもしれない状況で、オレがアイツに怯えていると知られるのは拙い。
 解放されたはずの義務教育期間の悪夢は、まだオレの近くをウロウロしている。
 油断はしちゃダメだ。
 オレだけに影響が出るならいいが、久史が巻き込まれるなんてことになったら大変だ。

 面倒だな。
 嫌だな。
 せっかく来たのに、なんて気分だ。

「それでですね……落ち着いたら、座席を一緒に見つけてくれませんか?」
「え……?」
「自分でも呆れるくらい方向音痴なんです」

 ここは国立体育館だ。
 それなりに広い。
 いたるところに丁寧な案内板が出ているのに、迷うんだろうか。
 本当に?
 方向音痴の感覚がイマイチわからないから不思議だけど、そのことを考えると少しだけ気持ちが和らぐ。

 辿り着いたとこぼしていたのを思い出して思わずまたチラ見で顔を見てしまった。
 鶴城さんは、穏やかに笑っている。

「どの辺りにあるかはわかるんですけど、ひとりだと全然ダメで」

 座席番号がプリントされた招待状を広げて見せ、懐っこい顔をした。
 鍛えた感のある体躯とのギャップが印象に残る人だな。

 久史に関係ある人なのはわかったけど、何を生業にしている人なんだろう。

「妙名嘉君に招待されたので、なんとか出てきました」
「か……関係者、で、です、よね?」
「はい。今回使用する彼の墨は、ボクが作ったんです」

 サッと俯くオレの目線に合わせて出されたのは名刺。
 そこには墨職人・鶴城宝生(つるぎたかお)と書かれてある。
 そしてふんわりと柔らかい香りが漂った。

「……な、何か、匂い……?」
「嫌じゃないですか?」
「は、はい……」
「特殊な技法で紙に墨の香りを染みつけているんです。この紙を作った人も、今日来ていると思うんですが会ってみますか?」
「あ、あの、あの、オレ」

 知らない久史の一面を見ることに気が引けて、鶴城さんの言葉を止めた。

「もう、大丈夫、なので……あ、あん、案内……します」
「そう? なら、よろしくお願いします」

 座席案内をしばらく眺め、鶴城さんの持っていた招待状の番号を確認する。
 見晴らしのいい2階席中央。

 ほぼ俯いたままで座席まで案内をするオレに、鶴城さんは驚き通しだった。
 人の気配はいつわかるのか、下を向いたままなのに方向がわかるのはなぜかなど、子どもみたいな質問がいくつも飛んでくる。
 好奇心旺盛なのかな。
 なのに口調が穏やかで一歩引いた気配だから、相手をするオレも気疲れしなかった。

 こういう人は、気が楽でいい。
 こういう人ばかりだといいのに。
 きっと、この人にも裏の顔があるんだろうけど、オレにそれを見せないならそれでいい。

「この階段を下りて、ひ、左、左側一番前の、座席の列……の、真ん中、です。あの、ば、番号、は……シートの、ここ、書いてますから、確認して、くださ、い」
「助かりました。ありがとうございます」
「いえ、あの、オレの、オレのほうこそ……あ、ありがとう、ございまし、た」
「また縁があるといいですね」

 オレの返事は待たずに、軽く会釈をして歩き出す鶴城さん。
 不安だったから、指定された席に着くまで見守ってしまったって、本人に言う機会はもうないだろう。



 ひとりになり、会場内の人の多さにも負けそうになった。
 久史に連絡をする、それだけを気持ちの支えにして、人の流れに逆らうようにエントランスに戻り、さらにトイレの個室にこもる。
 他人の視線を気にしなくてもいい場所で、ようやくちゃんとした呼吸ができた。

 便座に腰を掛けて久史に会話型アプリで会場に到着しているとメッセージする。
 すぐに電話が鳴ってすぐに通話ボタンを押した。

「は……」
『連絡遅くて心配した! どこ?』
「会場……2階の、東扉近くにあるトイレ」
『お腹痛いの?』
「違う」
『なにかあった?』

 顔も見ていないのに鋭いな。
 声、疲れて聞こえているのかもしれないけど。

「もう平気。鶴城さんって人が、助けてくれたから」
『……時間ないから、キングに行ってもらう。ジッとしてて』

 一方的に切れた。
 なにを思ったんだろう。
 いつもならどんなに時間がなくても、自分で迎えに来ると言い出すのに。

「いや……それは、オレの思い上がりだろ」

 いつの間にか、久史の中で自分は最優先だと勝手に思っている。
 そんなたいそうな存在でもないクセに、久史の一番なんてどこから出てきたんだ。
 久史の「好き」が続いている間だけ、アイツの傍にいられるレベルの違う人間でしかないのに。

「……ああ、嫌だな」

 すっかり気分が落ち込んでいる。
 久史のことすら放り出して逃げ帰りたい衝動しかない。
 そうしたら気拙くて、しばらくアイツと会えないだろう。
 そのまま、自然消滅とかもあるかもな。

 好きって言ったって、所詮は若気の至りだろ。
 一目惚れなんて、まやかしみたいなモンだ。

 オレたちは、不安定な想いで繋がっている。
 いつプツンと切れたって、文句は言えない。
 繋がりをこっちから切ったとなれば、ますます合わせる顔がない。

「嫌だな、こん、なの……っ」

 せっかく顔を上げて歩けるようになったのに。
 せっかく久史を素直に好きだと思えるようになったのに。

 やっと照れずに恋人らしいことがチラホラできるようになってきたのに。
 久史が隣にいてくれたら、オレはもっと。

「ここかぁ?」
「ヒッ?」

 思考低飛行中に乱暴にノックされて、大袈裟でもなく飛び上がった。
 ドアを拳で叩かれてたら誰でも驚くよな。

「あっ、は、入って、入って、ます……っ」
「気分はどうだ?」
「だいぶん、楽、です」
「歩けるか?」
「歩き、ます」

 まだ少し震える手でカギを外して、扉を開ける。

「まーまずは手を洗え?」

 立っているのは久史より大きくて筋肉質な男。
 キングと呼ばれている、某お貴族様のボディーガードだ。
 エキゾチックな琥珀色の肌に、白髪で黒のインナーカラーの長髪を後ろで一つ括りにしている。
 上品な深緑のスーツだが、胸板の厚さやふくらはぎの発達などが容易に想像できるスタイル。

 言われた通りに手を洗う様を見られているだけなのに、無駄に威圧感がある。
 なんとも気拙い。
 真横に立つの、止めてほしい。

「アイツ、ガチで心配してたぞ」
「……」
「一時間も前からスマホ握って「連絡が来ない」って控室の中イヌみてーにグルグルしてた」
「それで……、お、怒って、た?」
「怒るようなことしたのか?」
「通話、は、事実、を、伝えただけ」
「どーせ、どんな顔して迎えに行けばいいのかわからなくなったんだろ」
「え?」

 流れるようにハンカチが出てきて、それを使って手を拭くとまた流れるようにハンカチはキングのジャケットのポケットに消えて行った。
 呆けていると促されてトイレを出る。

「着信の時なんて半泣きでさ。そこから表情なくなってったから頭の中パニック状態だろ」
「そんな、ワケ、ない」
「おいおいヤノ~、アイツとのつき合いはオレのほうが長いぞー? それにオレはウソを吐かない!」

 流暢な日本語を発する目立つ格好の外国人は、周囲からも注目される。
 堂々と歩く様も雰囲気があるし、精悍で野性味溢れる顔立ち、色素が薄くて金色にも見える瞳が「カッコいい外国人」を演出している。

 オレはその隣で小さくなって、下を向いて、キングの言葉を信じられずにいた。

 この人は確かに、オレよりも久史とつき合いが長い。
 初対面の時、久史と幼稚園児みたいな言い合いをしていたのを今でも覚えている。
 あまりの光景に初対面にも関わらず叱ってしまったことも覚えている。
 正直知能は久史とどっこいくらいだろうが、ボディーガード……特に暗殺に関する知識と技能は飛び抜けて優秀だそうだ。
 この国の中でそんなことを説明されてもピンとくるはずもなく。
 本当のところはどうかわからないけど、たぶん、なにかに長けた凄い人なんだと思う。
 かっちりしたシャツの襟元から少しだけ見える、手荒な傷痕からも別の世界で生きているんだって想像できるし。

「カッコつけたい相手に、キョドってるトコ見せたくないのさ」
「そんなの、つけなくても、カッコいいのに」
「おっほ、惚気かよ! ごちそーさま!」

 背中を一発、強く叩かれた。
 息が詰まってむせる間もなく、オレはひとり部屋の中へ放り込まれる。

 久史がいた部屋。
 すぐにわかる。
 今日は、鶴城さんの墨の匂いもするから。

「……」

 力が抜けていくのが自分でもわかる。
 一番恋しい場所、匂い。

 じわっと出てきた涙を誤魔化すように咳払いした。

「んじゃ、確かに送り届けたからな」

 弱気なオレなんか気にもしていない。
 まあ、そうだよな。
 キングの本当の仕事は、別にあるワケだし。
 久史の傍にいたのも仕事の内だろう。

 一階部分から階段五段分くらい上がった部屋は、あまり見ない高さからの光景を見せてくれる。
 観覧に最適な場所からガラス窓越しに、会場の中を見渡した。
 開会式の挨拶が始まっている。

 けど、久史の出番には間に合ったようだ。
 視線は自然と久史を探す。

 壁際に、大量のバケツを準備しているスタッフの傍に見慣れた金髪を見つけた。
 少し長くなってきた後ろ毛を括って、ド派手な着物と袴を身に着けている。
 金と赤。
 久史の髪色が目立つようになのか、着物の肩付近にだけ黒が散らばっている。

 和装姿は一度見た事があるけど、ザ・舞台衣装みたいなのは初めて見た。
 背が高いからなにを着ても似合うよな。
 姿勢が良いから見栄えもする。

 息を呑む。
 ため息が漏れる。
 ずっと、視界に入れていたい。

 オレは気落ちしていた自分を忘れて、ただ久史を見つめていた。

 やがて書道協会のお偉いさんと思われる数人の挨拶が終わり、ざわめきと共に照明が落とされる。
 部屋の二角隅に設置されたスピーカーからは、準備をするスタッフの声と始まる演目に盛り上がる客の声が混ざって聞こえてきた。

『続きまして、妙名嘉久史による開会の宣言パフォーマンスをご覧ください』

 歓声と拍手に音が割れる。
 オレは無意識に身体を乗り出し、ガラス窓に手をつけた。

 ふんわりした速度で照明が明るくなると、大き目の白い紙が何枚も広げられた中央に久史が大きな筆を手に立っていた。
 四方に一礼をしてから正座をして筆を置くと、仰々しくタスキをかける。
 控えめな青金の袴を穿いたスタッフが舞台に合う装飾を施されたバケツを一つ、二つと久史の周囲に流れるように置いていく。
 最後に運ばれてきたのは、先に置かれている紙より大きな紙が四枚。

 そこでようやく、パフォーマンスはもう始まっているんだと理解した。
 会場の中の誰よりも遅く気づいたに違いない。

 スタッフが紙の間を抜け消えて行った後しばらくして、久史が静かに立ち上がり目の前に置かれたバケツの中に筆の先を入れた。

「はっ!」

 気合のタイミングで周囲の紙に筆を走らせる。
 同じタイミングで照明も忙しなく色を変え始めた。
 身体全体を使って、大胆に、細やかに動く久史に合わせて流れるのは驚くほど尖った音楽。
 テクノ系なんて、聞いて不快になる人は出ないだろうか。
 ……なんて心配は上辺だけで、オレはあっという間に眼前のパフォーマンスの虜になった。

 ちゃんと、一つ一つの動きを「見せて」いる。
 たくさんの人がいる前で書くのは得意じゃないと言っていたのに、堂々とした動きをチカチカする照明と独特なリズムに上手く合わせている。
 着ている着物の金糸が輝き、それ自体が光を放っているみたいだ。
 生み出される墨色の曲線、直線、全部に意味があるんだと、説明が難しい高揚感に包まれる。

 耳に残る機械的な曲とギラギラした照明の中、書き上げられたのは幾つかの文字。
 程なく久史がしゃがみ、足早に出てきたスタッフたちが一斉に大きな紙を中央に運び寄せる。

 四枚の紙が合わさった時、そこには「風雅花舞」の文字。
 歓声と拍手が終わらない間にスタッフが散り、再び立ち上がった久史は殺陣のように新たに現れたスタッフが持ち上げた紙に筆を払う。
 そこからは和風な曲に赤と白の照明が続いて、ますます久史の姿が時代劇よろしく刀を振る侍に見えてくる。

 時には受け、時には避け、久史は蠢く紙になにかを書き続けた。
 今度は一体どんな文字を書くのだろうか。
 きっと、その期待はオレだけが思ったことじゃない。
 初めに見せられたライティングやリズムの中で仕上がった文字は、それでも優雅で美しかった。
 和風なリズムの中で生まれる文字の美しさに期待してしまうのは当然だ。

 そう思わせる魅力が久史の文字には存在する。

 曲はやがて歌舞伎のような調子になって、鼓の合いの手も聞こえ始める。
 紙は止まらず久史を襲い、それに対して久史ばひたすら筆を向ける。

 相当な体力が必要じゃないだろうか。
 アイツが筋トレなんかしているところを見たことがない。
 つい、バテて恥をかかないかと心配してしまう。
 足元がフラついて予定通りにできなかったら?

「……そんなこと、ないか」

 仮にも書に関してはプロだ。
 それくらいの采配はきちんとできているはず。

 久史の動きは振りも大きくアクロバティックになり、筆を支えにした体操みたいな動きを見せ始める。

 あんなこと、どこで練習してたんだろう。
 でもそれはオレの知らない久史の時間だから、気にしたって仕方がない。

 技(?)が出る度拍手が沸き、会場もヒートアップしていくのを感じた。

 鼓がひときわ大きく空気を震わせ、久史によって様々な「花」と書かれた紙が幾つもスタッフの手から離れて床に散らばって行く。
 最後の紙が床に落ちると曲がボリュームダウンして、スタッフは腰に巻いていた薄い布をふわふわと揺らめかせながら舞台から消えた。
 
 久史が再び正座をして筆を前に置くと、取り囲むように薄く色のついた横長の紙が新たに立てられていく。
 紙に隠れていく久史がスタッフから渡されたタオルで素早く首周りを拭いているのを見た。
 表情までは見えなかったけど、大丈夫かな。

 ゆっくりと照明が黄昏色に変わり、静かに曲が途切れた。
 数百人がいるとは思えない静寂の中、優しい曲が流れ始める。

「あ……これ」

 若者の間で大人気アイドルグループが世に放った渾身のラブバラード。
 歌っているグループの名前も曲名も知らないけど、世の中に溢れている曲だというのはオレにもわかる。

 色々なジャンルの曲を使うんだな。
 書道だから雅な曲ばかりかと思っていた。

 こういう偏見、久史は嫌いかな。

 文化は守る。
 伝統も守る。
 その上で、進化をしなくちゃいけないって何回か聞いた気がする。
 家族の受け売りだと言っていたけど、久史もそう思っているんだろうと毎回伝わってきた。

 書へ対する想いを、存分に綴っているのだろうか。
 紙の壁の中に隠れた久史の影だけが踊っている。
 墨の色がバラード曲に合わせるように紙に滲んでいく。

 反転で見る限り、長い言葉を書き連ねている。
 歌詞かと思ったけど、そんな風じゃなかった。

 さっきまでとは違って、繊細な筆の流れが甘く切ない曲と光に浮かび上がる影だけで生成される。

 どんなことを思って、書いているのかな。
 オレだったら、失敗しないように、格好悪くならないようにってビクビクしているだろう。
 そんなのじゃあんなことできないだろうな。
 集中ってどんな感じなんだろう。
 オレが、早く怖いことが去りますようにって祈っているようなものかな。

「……」

 遠い。
 久史は、やっぱり遠い。

 大人の多い世界で堂々と渡り歩けて、本当に凄い。
 オレには無理だ。

 無理なんだ。
 眩しい場所でキラキラできる久史の傍で、ずっと平気でいられるほど図太くない。
 好きなことを存分に楽しむ久史を見ていたいけれど、それは傍にいなくてもできることだ。
 オレが傍にいなくても、久史の凄さは誰にでも伝わる。
 アイツのこれからの時間の中に、オレの居場所は少ししかないかもしれない。

「っ……」

 震える。
 両肩を自分の手で擦るだけでさっきの嫌悪感が戻ってきた。
 憎たらしい。
 忘れたくても本能が覚えているあの感触。

「っく、……」

 違った。
 久史の近くにいちゃダメなんだ。
 少しの間といえども、オレは傍にいる資格はないんだ。
 オレが雑魚だとしても、ハイエナみたいなヤツらがどんな風に嗅ぎつけるかわからないんだから。
 二度と会わないと思っていたヤツに不意打ちで遭遇するくらいには世間は狭いんだ。

 足を引っ張るだけなのが目に見えているオレは、傍にいないほうがいい。

「ひ、っく……ぅぇっ……」

 ああ、泣き虫。
 どうせオレは昔から泣き虫メガネだ。
 生きている間に流せる涙の量が決まっているなんて、絶対にウソだ。

 どれだけ流しても、涙も洟も駄々洩れで泣いてしまう。

 嫌だ。
 もう、こんなの嫌だ。

 涙でガラス窓の向こうなんか見えやしない。
 洟をすする音に邪魔されて、好い雰囲気のバラードは掠れている。
 格好悪い。
 きっと、これからもオレはこんなのだ。

 久史の傍にいて、キラキラを分けてもらって人並みになってきたと勘違いしていた。

 いつだって真後ろには闇がある。
 それを忘れてしまっていた。

 卒業してさよならできる闇はたくさんあるけど、全部じゃない。
 それを今日思い知った。
 これから先も、過去の闇はオレを脅かしにくる。
 その度に打ちひしがれて泣いて、立ち上がれないオレを見たら久史だってウンザリする。
 いい加減、迷惑をかけられることにも嫌気がさす。

 嫌われて離れてほしくない。
 嫌いになってほしくない。
 それならオレが離れるしかない。
 好きなままでいてなんてワガママはいわない。

「ふぇっ、んぅ、ズズッ、く……ヒック、ううぅ」

 せっかくのパフォーマンスは終わる前にオレの視界から消えた。
 真っ暗にする。
 なにもない、なにも見えないように。
 怖いことが早くオレの中からなくなるように。

 自分を抱きしめようとすると、あの感覚が呼び起こされて歯痒かった。
 どうやっても、久史の腕の中を思い出せない。

「ヒック、ひ、ひさ、し……っ、……」

 傍にはいられない。
 けど、傍にいてほしい。

 バカだ。
 こんなの。