1章 「今」のオレたち
どうしようもないほど頭が悪くて、単純で、難解な相手。
年下で背が高くて、股下が長くて、金髪とハニーブラウンのカラコンが似合うシャレたヤツ。
世界的に有名な書家一族で、遭難しそうな大きな屋敷に住んでいて、本人も書家としての才能がある。
オレからすれば、神様が幸せを不公平に作り上げた権化と言っても過言じゃない。
そんなヤツと、紆余曲折の末になぜか恋人としてつき合っている。
***
「ののぉ~」
「や、の、だっ! ののじゃないっ!」
「えぇー。特別読みで特別感あって特別でいーじゃん?」
「お前の脳みそがオレの名前を覚えないってだけだろ」
「オレのが先に名前覚えたしーっ!」
「ウソつけ」
「運命の出会いから二十分後! 担任に聞いてバッチリだったモンね~!」
「個人情報の扱い軽いな、その担任」
「お母さんから忘れ物を預かったってったらヨユーだった」
「お前も相当に最低だな?」
コイツの言う運命の出会いとは、オレが高校在学中の話だ。
卒業を控えた秋の日、コイツが運転する原付スクーターと接触した。
接触したことよりも後のことを考えると嫌になった。
面倒で怖くて、関わりたくなくて。
その頃のオレは今よりずっとずっと他人と干渉することを嫌っていたから、心配してくるコイツに二度と関わるなと吐き捨てて逃げた。
それで終わってくれたら、今こういうことにはなっていなかっただろう。
「学年バッジ見てたからさ、お母さんが見せてくれた写真と同じ人か確かめたい~ってセンセーとパソコンで名簿見た」
「それって教員外は見ちゃダメなヤツじゃ」
「手を握ってぇ、擦り寄ってぇ、お願い~ってしたら、ヒミツの名簿だけどタエちゃんならいいよ~って」
「女だろ」
「うん、サエちゃんセンセー」
あーもー。
コイツはやたらと甘え上手だから、女教員は特にすぐ心を許してしまう。
その手管でかは知らないけど、ノリで校内ででも平然と淫行乱交やっていたらしいから、本当にどうしてコイツが今オレの背中に密着しているのかわからない。
性欲を満たしたいだけなら引く手数多だろうに、一目惚れってのは面倒だな。
……人のことは、言えないけど。
「俯き加減、黒縁のメガネ、オレ、秒でわかっちったモンね♪」
「あっそ」
「でも、名前読めなくってさ、センセーに教えてもらった」
「読み仮名を自分で読め」
どうせサエちゃんセンセーが「のの、だと思ったら違うのね~」とか軽く言ったんだろ。
他人の名前で無責任なことをするなっての。
個人情報に過敏な生徒が知ったら、訴えられるかもしれないぞ。
「ののがオレの名前覚えたのって、三冊目っしょ?」
「ののって言うなって」
コイツは一目惚れしたオレの気を引くためだけに、高校の図書室で無差別に本を何冊も借りた。
アナログな図書カードには、左手で書いた名前。
なぜ左手かというと、姉に教えてもらったおまじないだったそうだ。
「ね? オレのが先に名前を覚えてたっしょ?」
背後の気配は褒めてほしそうだ。
頬に触れる硬めの髪の先がチクチクする。
ガッチリ回された腕はオレの腹を一生離さないつもりみたいに動かないし、長い脚はオレを挟んで最大限くっついていようと頑張っている。
見ようによっては完全に人間座椅子。
「だからさ、名前は知ってる。けど、オレはののって呼ぶんだ!」
「オレの名前は柏木 埜乃だ。しつこいと嫌いになるぞ」
「えーっ、なんでさ! 嬉しくない? オレだけ特別な名前で特別に呼ぶんだよ?」
「オレがあらゆる手段でイジメられてたって忘れたか? 聞かせただろ」
「あぅ……」
「やのは苗字で名前じゃないから本当はののって言うんだ、男なのにののって女みたいで恥ずかしいから隠してんだろと笑われ、もっと堂々と主張したらいいじゃんと両瞼にマジックで「の」を書かれたオレの身にもなれ」
油性のマジックは目に痛くて、シンナーの匂いが鼻にきつかった。
マジックのペン先が瞼を押すと眼球も痛くて、我慢をしてもシンナーの匂いも合わさって涙が出た。
泣けば観客は笑う。
理解し難い侮蔑を浴びせられ、取り囲まれて笑われる。
恐怖に引き攣って漏れた声はオモチャみたいにひっくり返っていて、それでまた爆笑の渦だ。
思えば、あの発端も当時の担任だったな。
最低最悪の、善人面したくだらない人間。
あらゆる秘密を溜め込んだ、オレの闇深い時間の一部。
一部ってのが我ながらキモイ。
「怒った?」
「ミリ凹んだ」
「ごめんなさい……でも、ホントに特別呼びしたい」
「断る」
「どうしても?」
「ののはダメ」
「可愛いのに」
「嫌だ」
「やぁー、のぉー、って、呼びたくないんだよぉ」
「なぜ」
「説明してわかってくれたら、特別呼びしても怒らない?」
「理由による」
珍しく食い下がってくる。
コイツ、妙名嘉 久史は驚くくらい引き際が潔い。
こちらが展開に困惑する速度であれもこれもと勝手に決めて突き進むことも驚愕だったが、ダメだと判断すると躊躇なく手を引く。
散々「好き」と言いながら卑猥なことをしていたのに、脈ナシみたいだからもう追いかけないと、わざわざ卒業後に呼び出されて面と向かって言われたくらいだ。
つき合い出してからもその性格は健在で、あまりに切り替えが早くてついていけないこともあるのに「のの」呼びに関してはやけにしつこい。
「あのさ、聞いて?」
年上に対しても当たり前のようにタメ語。
初対面からこの調子で、今はそこに甘えが加わって本当にただの子どもみたいだ。
当初はただの茶髪ヤンキーで、関わったら面倒だと思っていた。
言葉遣いもぶっきらぼうだったけど、告白されてからは今の調子に近くなった。
これが本来の姿なんだとしたら、かなり幼稚だ。
とはいえ、オレのほうもそんなヤツの態度を「可愛い」とうっすら思えるくらいにはなっている。
慣れというものは恐ろしい。
腕の輪をさらに縮められると、背中にくっつく熱の幅が広がる。
あわせて近くなる呼吸の気配。
「言うの、嫌なんだ」
「は?」
「名前なのは知ってるけど、嫌な思い出があるワケで」
「嫌な思い出とは?」
「はぅ……んもぉ~気がついてよお~それくらいぃ~」
「わからないから聞くんだ」
「少しはぁ~考えてぇ~、思い出してみ~て~よおぉ~っ!」
「鬱陶しいっ、揺れるなっ!」
体格差もさることながら、筋量の違いも大きいらしく。
ヤツが揺れれば、オレの身体も抵抗できずに大きく揺れる。
なすがままとはよく言ったもんだ。
「オレ達の~凝縮された学生生活を~思い~出~してぇ~♪」
「歌うなヘタクソ!」
凝縮された学生生活ってなんだよ。
そっちが勝手に詰め込んできただけだろ。
まあ確かに、コイツを認識してから卒業まであっという間の数か月だった。
ざっくりとおさらいをすると、こんな感じだ。
初秋に久史が乗る原付スクーターと事故って、忘れた頃に図書室で再会した(?)。
オレは司書部に在籍していたから、図書室がどこよりも憩いの場所で。
その図書室で、コイツはオレの気を引くために迷惑行為を繰り返し、急に告白してきて、いきなり淫らな行為を強要した。
「こんなコトみんなヤってる」とほぼ毎回言っていたけど、男が男の股にイチモツを擦りつけてハァハァするなんて、あの高校の中ではウワサでも聞いたことはない。
卒業すれば離れられる、終わりにできると耐えた日々。
授業に集中できず、食欲をなくし、クラスメイトからのイジメにもコイツからのセクハラにも抵抗できない自分をなじった毎日。
……どう考えてもオレが苦しいばかりじゃないか。
わがまま放題だったコイツに、オレを名前で呼べない嫌な思い出が本当にあるのか?
「思い出した?」
「お前が変態だったことくらいしか出てこない」
「うぐぐ、キビシイ」
「ヒント」
「はへ?」
「ヒントをくれ」
「……それ、本気で言ってる?」
「言ってる」
不意に、久史の腕が解けた。
のそのそとオレの目の前にきて、顔を覗き込んでくる。
「な、んだ、よ?」
正直なところ、恋人になったからってコイツの顔を一呼吸分も見ていられない。
恥ずかしく思う気持ちが大半だけど、恐ろしく感じることもまだ多いから。
年齢の半分以上をイジメられてきた最下層の人間にとって、他人と視線を合わせるのがどれほど勇気が必要かコイツにはわからないだろう。
オレは義務教育期間を含む学校生活の間、ほぼ下を向いて生きていた。
目を合わせなければ絡まれない。
面倒に巻き込まれたくないから、空気でいたいから、なにをされるのかを見ると怖いから。
色々な理由で下を向いて、諦めた時には目を固く閉じた。
自分を守るためのその行動を真っ向から批判したのは久史だけ。
コイツだけが、オレの顔を正面から見たがった。
でもだからって、あんなことをされた事実は許されるものじゃない。
「学校ってさ、集団生活を学ぶ場所じゃん?」
「集団で弱者を設定し自分たちが難を逃れることを学ぶ場所の間違いだ」
「うーん、そういうのもあるのかな。どっちにしても「集団」行動なワケだよね」
「そうだな」
つまはじきは「個」だけどな。
言葉にするとコイツは困るだろうから言わないけど。
「そういう集団は「クラス」で、そこにいるヤツらは「クラスメイト」だろ?」
「そうだな」
「……」
「?」
なにが言いたいのか、久史はそれきり黙ってオレを見ているだけになった。
長く視線を合わせられなくて、すぐに俯いてチラ見になっても嫌な顔をしない。
コイツの、静寂に溶けていくような真顔は、書に向かう時の空気に似ている。
普段が大雑把でお調子者でリアルに頭が悪くて日本語も上手くないのに、静謐な雰囲気にも簡単に馴染んでしまう。
いつもならくるくる表情の変わる顔は白磁の人形のように凛と澄ましていて、オレとつき合い始めてから金髪にグレードアップした拘りの髪が黒いままの睫毛の長さを浮き立たせる。
胸の中をかき乱す静けさは、海に浮かぶ氷のような淡くも深い色の感覚をオレに植えつけた。
嫌いじゃない。
むしろ、オレなんかが見てもいいモノかと困惑するくらいの凄まじさを感じる。
畏怖に近いかもしれない。
「……ごめんなさい」
「は?」
「オレ、また傷つけたよな?」
「傷ついてない」
「黙ってる」
「わからないから」
「クラスメイトってヒントが役に立ってないし……嫌なコトばっか思い出してるんでしょ?」
「事実、嫌事ばかりだったから別にいい。てか、ヒントだったのか」
「フツーだったらクラスメイトって時点でピンとくるよ。でもさ、の……センパイ、は、そうじゃないみたいだから」
先輩。
久しぶりの響き。
卒業するまで、ずっとコイツからは「センパイ」と呼ばれていた。
だから名前も知らずに、都合のいいオモチャを手に入れて喜んでいるだけだと思っていたんだ。
「ね、センパイにとってクラスメイトって何?」
「極力刺激をしてはいけない他人」
「でもさ、その、……いた、だろ、味方」
慎重な言葉運びに、オレはようやく答えに辿り着いた。
そうだ。
ずーっと変わらず、高校卒業間際まであらゆる他人からイジメ抜かれたオレを唯一、守る側になったヤツがいた。
卒業式後、気配を消すように教室を出たオレに「大学頑張れ」とわざわざ声をかけて笑ってくれた、高三のクラスで一番の人気者でヒーローみたいなヤツ。
「ああ、谷野」
「そーだよっ! ソイツだよっっ! どぉーして同じなんだよぉ~!」
「あっちは苗字」
「発音一緒ぉ! 発音一緒だからあっ! ライバルの名前で好きな人を呼ばなきゃいけなんて嫌だあああぁ~っ!」
驚いた。
気にもしていなかったから、そんなことでオレの名前を呼べないなんて意外すぎた。
でも、コイツは真剣に悩んでいるんだろうな。
「忘れろ」
「忘れるワケないっ! 忘れられないぃ~!」
正直オレは忘れていた。
というか、苗字しか覚えていないくらいには興味がない。
他人と関わらないように生きていると、用のなくなった他人を記憶から消すことが上手くなる。
谷野とは単なるクラスメイトで、コイツがストーカーみたくオレをつけ回している時に勝手に守ってくれていただけだ。
クラスメイトが困るのは見ていられない、どうにかできないかと考えた上でのボディーガードだったそうだ。
クラスメイトからチクチクと「谷野の独り占め」を責められる中、矢野はクラスメイトたちと笑い合いオレとも「仲良く」会話を楽しんでいたように思う。
クラスメイトからすれば、嫌でもオレの存在が疎ましくなっただろう。
当たりが強くなるのを感じながらも、矢野にもクラスメイトにもなにも言えなかったけど。
矢野には人を惹きつける魅力があったと、オレですら思う。
そんな谷野とコイツが放課後に怒鳴り合ったことが一度だけある。
谷野はオレを守るため。
コイツはオレを取り上げられたくなくて。
小学生の言い合いみたいな、語彙の少ない怒鳴り合いだったけど。
傍から見ると一人を巡る言い争いで、二人の間にオレじゃなくて可愛い女子がいたなら納得の構図だったに違いない。
残念ながら、オレすらも巻き込まれた空気を出していたから、きっと珍妙な言い合いに見えたろう。
注目されるのが嫌で、後のことを考えて半分パニックになりながら、決死の覚悟で「ストップ」「ステイ」「違うから」だけなんとか絞り出して二人を止めて解散させた。
学校から出た辺り、気拙さを引きずるオレに谷野はあっけらかんと「オレ、イヌじゃねーよ?」と笑ったのもついでに思い出した。
いつもの店で唐揚げ定食を奢ったのはあの時だったかな。
谷野に恩がないと言えばウソになるが、オレの中では済んだ時間にすぎない。
「呼ぼうとする度に! アイツを思い出してっ! も、ぜーったいに! 言いたくないっって! 思うんだよぉ!」
「一応訂正するが、谷野はライバルじゃない」
「ライバルだった! 好きオーラ感じたっっ!」
「クラスメイトが心配だからって聞いたぞ」
「ウソだ! カッコつけるためのウソに決まってるう! つか、オレの知らないトコでそんなこと話してたの悔しいっ!」
確かに、本当かどうかは本人じゃなければわからないところだな。
けど、谷野と一緒に下校するようになってから確かめたことがある。
オレをどう思って、こんな風につき合ってくれているのか、と。
その時もう、久史は図書室でオレの股を使ってハァハァすることに夢中だった。
オレとしてはそんな変態下級生より優しいクラスメイトのほうが気楽に決まっている。
谷野がそういう対象で見ているのなら、それを口実にして逃げられると思った。
クラスメイトにどう言われようが、卒業までに解決できるから手っ取り早いだろうと。
あの頃は本当に、一秒でも早く、変態から解放されたかったんだ。
けど谷野は、オレの残したトンカツ定食のカツを頬張りつつ、クラスメイトが困っているのを黙ってみていられないだけだと断言した。
好きとか嫌いとか、そういう次元じゃないらしいと、その時の谷野の目を見て悟った。
純粋に、彼の持つ正義感からオレを守っている。
困っている人間には、全力で手を差し伸べなければ気が済まない気質なんだと。
けして、久史が想像するような認識じゃない。
とはいえどんなに言い聞かせても、コイツは矢野の苗字とオレの名前を切り離せないだろう。
事実発音は同じわけだし。
オレのことになるともどかしさやワガママが爆発するところは不器用で、真っ直ぐすぎて、少し愛おしい。
他人がオレをどう思うかなんて、想像するだけでも脅威だった過去。
出会いかたや経緯がメチャクチャだったにしろ、今は他人からの脅威ほぼすべてがコイツによって防がれている。
傍にいてくれることで、オレは、俯くばかりじゃなくなった。
「久史、ステイしろ」
オレの声に、久史は黙って正座をする。
股下の長い足をきちんと折り、背筋を伸ばすだけで堂々として見える。
その膝に自分の膝がくっつくまで近寄った。
チラチラと見上げる顔は、オレの言葉に期待をしている。
「オレのこと、好き?」
「好き」
「どこが?」
「全部」
「どうして?」
「大好きだから」
食い気味の問答から数秒の沈黙。
似たようなやり取りは定期的に行われている……気がする。
「二人だけの時だけ許してやる」
「!」
「他人の前で言ったらぶっ飛ばす」
どうせ他人の前でも「のの」と言い出すだろう。
わかっていたが、釘だけは刺しておいた。
本当は嫌だっていう、ささやかな抗議として。
「わぁーい! やったーっ!」
「っ!」
バッと両腕を挙げた久史に驚いて身を縮めたオレを、存分に抱きしめてきた。
その勢いたるや、言葉の通じない大型犬の如し。
「許してくれてありがとぉ! オレ、すぅっごく嬉しいよぉ~!」
「はっ、離……っ、離せっ」
「んん~、大好きなののの匂い~」
「苦しいって!」
「好き、好き、のの、大好きだよぉ」
「わかった、からっ、離れろっ!」
「おごっ!」
コイツはオレをストーキングしている時期、恋しさのあまりオレの等身大抱き枕を姉に作ってもらって「愛用」していたらしい。
だからこうして、喜びで我を失った時はオレを抱き枕と間違えて振り回す。
そういう時には脇腹に一発、拳を沈めるのがお決まりのパターン。
「落ち着けバカ」
「あい……落ち着きまちたぁ……」
「まったく」
時計を見た。
そろそろ家に帰さなければ。
大学生になるにあたり、オレは実家を出た。
母親とひと悶着あったがその問題はコイツの母親が「なんとかして」くれた経緯がある。
だからというワケじゃないが、彼女は久史がここに来ることを許してくれと言ってきた。
オレとしては(恋人になりたてって浮かれもあって)断る理由もなかったし、明確な反対もせず今状況に落ち着いた。
けどまだ高校生だから、時間の制限は厳しくしないと。
「おい、時間」
「も少しダイジョブ」
「ギリギリになると弾丸みたいに飛び出して行くクセに。危ないって言ってるだろ」
「もっともっと一緒にいたい~!」
「ダメだ」
「ケチぃ!」
「明日、行かないぞ」
珍しくこの地域で開催される書道パフォーマンスの総合大会。
運営委員長が久史の姉で、協賛には海外屈指のお貴族様も参加されている。
連日で開催される大会自体は非常に健全で、書道を愛する全ての人へ向けた素晴らしい企画となっているらしい。
その開会式にコイツが立つ。
コイツの知名度なんか考えたこともなかったが、海外メディアのニュースになったくらいに注目されていた。
そんなふとした瞬間に、コイツは、元からオレと同じ場所に立っていない人間だと思い知らされる。
なのになぜ、一緒にいたがるのか。
聞いてもいつも答えは同じ。
「好きだから」
簡単な言葉。
でも、声に出すのは難しい。
安売りかと思うくらいに連呼されるが、オレは数える程しか言えていない。
それで気持ちが伝わるのか心配しなくてもいいくらい、毎回喜ぶ顔を見せてくれる。
久史の優しさに甘えていてはダメなんだと、どこかでは思っている。
けど、いつ何があるかわからないから、あまり深入りしないようにブレーキをかけているのかもしれない。
それほどに、コイツの世界は遠い。
「墨汁足りるのかよ」
「今日の夜から磨れば間に合うし」
「寝ぼけた顔してたら怒る」
「ちぇー。わかったよ、帰ってすりすり励みまーす」
使う墨を最近まで迷っていた。
書家として拘るところなのか、使用する和紙を持って墨職人を何度も訪問し打ち合わせをしたらしい。
素人のオレにはわからないが、たくさんの道具の調整が必要なのだそうだ。
そのためにいい道具を作る職人と顔見知りになり情報交換をし、さらにいいオリジナリティを模索する。
一生独りで俯いて生きていこうと思っていたから、それがどんな感覚なのか想像はできないけど。
「ぜーったい見に来て!」
「わかってる」
「んふふっ、張り切っちゃおーっと♪」
なんだかんだ、書が好きなんだろうな。
大会に気が向いた久史は、甘えん坊ではない表情で笑った。
機敏に立ち上がり、身体を伸ばすとテーブルの上のスマホをズボンの後ろポケットに突っ込む。
「久史」
「なーにー?」
「帰るって言えて偉かったな」
見上げないと視線の合わない身長差にも慣れた。
嬉しそうに腰を曲げて頬に擦り寄る久史の後ろ髪を撫でる。
「楽しみにしてる」
「うん」
一瞬だけ目を合わせて、満面の笑顔の頬に唇を当てた。
お返しはすぐ唇にやってくる。
「開会式が終わったらフリーだから、一緒に大会見て回ろ」
「大会って、結局なにをするんだ?」
「色々。明日は、開会式と小中学生の校内部活に限定した書道会。専用の関係者室準備してもらってるよ」
「数日開催するんだったよな」
「オレは明日だけ」
「閉会式にも引っ張り出されるんじゃないのか?」
「ヤだよ。そんなのよりののと一緒にいたいし」
「……そっか」
当たり前のように、オレといたいと言う。
その言葉を、顔を上げて聞くことのできる幸福感。
オレの視線の先には、久史が笑っている。
蔑みでもなく嘲笑でもない、キラキラした笑顔。
「じゃ、明日」
「会場に着いたら連絡する」
「うん!」
もう一度キスをして、久史は帰って行った。
グダグダしない割り切りのよさは、こういう場面で正直とても助かっている。
「さて」
静かになった部屋で、オレは大学の課題をすることにした。
どうしようもないほど頭が悪くて、単純で、難解な相手。
年下で背が高くて、股下が長くて、金髪とハニーブラウンのカラコンが似合うシャレたヤツ。
世界的に有名な書家一族で、遭難しそうな大きな屋敷に住んでいて、本人も書家としての才能がある。
オレからすれば、神様が幸せを不公平に作り上げた権化と言っても過言じゃない。
そんなヤツと、紆余曲折の末になぜか恋人としてつき合っている。
***
「ののぉ~」
「や、の、だっ! ののじゃないっ!」
「えぇー。特別読みで特別感あって特別でいーじゃん?」
「お前の脳みそがオレの名前を覚えないってだけだろ」
「オレのが先に名前覚えたしーっ!」
「ウソつけ」
「運命の出会いから二十分後! 担任に聞いてバッチリだったモンね~!」
「個人情報の扱い軽いな、その担任」
「お母さんから忘れ物を預かったってったらヨユーだった」
「お前も相当に最低だな?」
コイツの言う運命の出会いとは、オレが高校在学中の話だ。
卒業を控えた秋の日、コイツが運転する原付スクーターと接触した。
接触したことよりも後のことを考えると嫌になった。
面倒で怖くて、関わりたくなくて。
その頃のオレは今よりずっとずっと他人と干渉することを嫌っていたから、心配してくるコイツに二度と関わるなと吐き捨てて逃げた。
それで終わってくれたら、今こういうことにはなっていなかっただろう。
「学年バッジ見てたからさ、お母さんが見せてくれた写真と同じ人か確かめたい~ってセンセーとパソコンで名簿見た」
「それって教員外は見ちゃダメなヤツじゃ」
「手を握ってぇ、擦り寄ってぇ、お願い~ってしたら、ヒミツの名簿だけどタエちゃんならいいよ~って」
「女だろ」
「うん、サエちゃんセンセー」
あーもー。
コイツはやたらと甘え上手だから、女教員は特にすぐ心を許してしまう。
その手管でかは知らないけど、ノリで校内ででも平然と淫行乱交やっていたらしいから、本当にどうしてコイツが今オレの背中に密着しているのかわからない。
性欲を満たしたいだけなら引く手数多だろうに、一目惚れってのは面倒だな。
……人のことは、言えないけど。
「俯き加減、黒縁のメガネ、オレ、秒でわかっちったモンね♪」
「あっそ」
「でも、名前読めなくってさ、センセーに教えてもらった」
「読み仮名を自分で読め」
どうせサエちゃんセンセーが「のの、だと思ったら違うのね~」とか軽く言ったんだろ。
他人の名前で無責任なことをするなっての。
個人情報に過敏な生徒が知ったら、訴えられるかもしれないぞ。
「ののがオレの名前覚えたのって、三冊目っしょ?」
「ののって言うなって」
コイツは一目惚れしたオレの気を引くためだけに、高校の図書室で無差別に本を何冊も借りた。
アナログな図書カードには、左手で書いた名前。
なぜ左手かというと、姉に教えてもらったおまじないだったそうだ。
「ね? オレのが先に名前を覚えてたっしょ?」
背後の気配は褒めてほしそうだ。
頬に触れる硬めの髪の先がチクチクする。
ガッチリ回された腕はオレの腹を一生離さないつもりみたいに動かないし、長い脚はオレを挟んで最大限くっついていようと頑張っている。
見ようによっては完全に人間座椅子。
「だからさ、名前は知ってる。けど、オレはののって呼ぶんだ!」
「オレの名前は柏木 埜乃だ。しつこいと嫌いになるぞ」
「えーっ、なんでさ! 嬉しくない? オレだけ特別な名前で特別に呼ぶんだよ?」
「オレがあらゆる手段でイジメられてたって忘れたか? 聞かせただろ」
「あぅ……」
「やのは苗字で名前じゃないから本当はののって言うんだ、男なのにののって女みたいで恥ずかしいから隠してんだろと笑われ、もっと堂々と主張したらいいじゃんと両瞼にマジックで「の」を書かれたオレの身にもなれ」
油性のマジックは目に痛くて、シンナーの匂いが鼻にきつかった。
マジックのペン先が瞼を押すと眼球も痛くて、我慢をしてもシンナーの匂いも合わさって涙が出た。
泣けば観客は笑う。
理解し難い侮蔑を浴びせられ、取り囲まれて笑われる。
恐怖に引き攣って漏れた声はオモチャみたいにひっくり返っていて、それでまた爆笑の渦だ。
思えば、あの発端も当時の担任だったな。
最低最悪の、善人面したくだらない人間。
あらゆる秘密を溜め込んだ、オレの闇深い時間の一部。
一部ってのが我ながらキモイ。
「怒った?」
「ミリ凹んだ」
「ごめんなさい……でも、ホントに特別呼びしたい」
「断る」
「どうしても?」
「ののはダメ」
「可愛いのに」
「嫌だ」
「やぁー、のぉー、って、呼びたくないんだよぉ」
「なぜ」
「説明してわかってくれたら、特別呼びしても怒らない?」
「理由による」
珍しく食い下がってくる。
コイツ、妙名嘉 久史は驚くくらい引き際が潔い。
こちらが展開に困惑する速度であれもこれもと勝手に決めて突き進むことも驚愕だったが、ダメだと判断すると躊躇なく手を引く。
散々「好き」と言いながら卑猥なことをしていたのに、脈ナシみたいだからもう追いかけないと、わざわざ卒業後に呼び出されて面と向かって言われたくらいだ。
つき合い出してからもその性格は健在で、あまりに切り替えが早くてついていけないこともあるのに「のの」呼びに関してはやけにしつこい。
「あのさ、聞いて?」
年上に対しても当たり前のようにタメ語。
初対面からこの調子で、今はそこに甘えが加わって本当にただの子どもみたいだ。
当初はただの茶髪ヤンキーで、関わったら面倒だと思っていた。
言葉遣いもぶっきらぼうだったけど、告白されてからは今の調子に近くなった。
これが本来の姿なんだとしたら、かなり幼稚だ。
とはいえ、オレのほうもそんなヤツの態度を「可愛い」とうっすら思えるくらいにはなっている。
慣れというものは恐ろしい。
腕の輪をさらに縮められると、背中にくっつく熱の幅が広がる。
あわせて近くなる呼吸の気配。
「言うの、嫌なんだ」
「は?」
「名前なのは知ってるけど、嫌な思い出があるワケで」
「嫌な思い出とは?」
「はぅ……んもぉ~気がついてよお~それくらいぃ~」
「わからないから聞くんだ」
「少しはぁ~考えてぇ~、思い出してみ~て~よおぉ~っ!」
「鬱陶しいっ、揺れるなっ!」
体格差もさることながら、筋量の違いも大きいらしく。
ヤツが揺れれば、オレの身体も抵抗できずに大きく揺れる。
なすがままとはよく言ったもんだ。
「オレ達の~凝縮された学生生活を~思い~出~してぇ~♪」
「歌うなヘタクソ!」
凝縮された学生生活ってなんだよ。
そっちが勝手に詰め込んできただけだろ。
まあ確かに、コイツを認識してから卒業まであっという間の数か月だった。
ざっくりとおさらいをすると、こんな感じだ。
初秋に久史が乗る原付スクーターと事故って、忘れた頃に図書室で再会した(?)。
オレは司書部に在籍していたから、図書室がどこよりも憩いの場所で。
その図書室で、コイツはオレの気を引くために迷惑行為を繰り返し、急に告白してきて、いきなり淫らな行為を強要した。
「こんなコトみんなヤってる」とほぼ毎回言っていたけど、男が男の股にイチモツを擦りつけてハァハァするなんて、あの高校の中ではウワサでも聞いたことはない。
卒業すれば離れられる、終わりにできると耐えた日々。
授業に集中できず、食欲をなくし、クラスメイトからのイジメにもコイツからのセクハラにも抵抗できない自分をなじった毎日。
……どう考えてもオレが苦しいばかりじゃないか。
わがまま放題だったコイツに、オレを名前で呼べない嫌な思い出が本当にあるのか?
「思い出した?」
「お前が変態だったことくらいしか出てこない」
「うぐぐ、キビシイ」
「ヒント」
「はへ?」
「ヒントをくれ」
「……それ、本気で言ってる?」
「言ってる」
不意に、久史の腕が解けた。
のそのそとオレの目の前にきて、顔を覗き込んでくる。
「な、んだ、よ?」
正直なところ、恋人になったからってコイツの顔を一呼吸分も見ていられない。
恥ずかしく思う気持ちが大半だけど、恐ろしく感じることもまだ多いから。
年齢の半分以上をイジメられてきた最下層の人間にとって、他人と視線を合わせるのがどれほど勇気が必要かコイツにはわからないだろう。
オレは義務教育期間を含む学校生活の間、ほぼ下を向いて生きていた。
目を合わせなければ絡まれない。
面倒に巻き込まれたくないから、空気でいたいから、なにをされるのかを見ると怖いから。
色々な理由で下を向いて、諦めた時には目を固く閉じた。
自分を守るためのその行動を真っ向から批判したのは久史だけ。
コイツだけが、オレの顔を正面から見たがった。
でもだからって、あんなことをされた事実は許されるものじゃない。
「学校ってさ、集団生活を学ぶ場所じゃん?」
「集団で弱者を設定し自分たちが難を逃れることを学ぶ場所の間違いだ」
「うーん、そういうのもあるのかな。どっちにしても「集団」行動なワケだよね」
「そうだな」
つまはじきは「個」だけどな。
言葉にするとコイツは困るだろうから言わないけど。
「そういう集団は「クラス」で、そこにいるヤツらは「クラスメイト」だろ?」
「そうだな」
「……」
「?」
なにが言いたいのか、久史はそれきり黙ってオレを見ているだけになった。
長く視線を合わせられなくて、すぐに俯いてチラ見になっても嫌な顔をしない。
コイツの、静寂に溶けていくような真顔は、書に向かう時の空気に似ている。
普段が大雑把でお調子者でリアルに頭が悪くて日本語も上手くないのに、静謐な雰囲気にも簡単に馴染んでしまう。
いつもならくるくる表情の変わる顔は白磁の人形のように凛と澄ましていて、オレとつき合い始めてから金髪にグレードアップした拘りの髪が黒いままの睫毛の長さを浮き立たせる。
胸の中をかき乱す静けさは、海に浮かぶ氷のような淡くも深い色の感覚をオレに植えつけた。
嫌いじゃない。
むしろ、オレなんかが見てもいいモノかと困惑するくらいの凄まじさを感じる。
畏怖に近いかもしれない。
「……ごめんなさい」
「は?」
「オレ、また傷つけたよな?」
「傷ついてない」
「黙ってる」
「わからないから」
「クラスメイトってヒントが役に立ってないし……嫌なコトばっか思い出してるんでしょ?」
「事実、嫌事ばかりだったから別にいい。てか、ヒントだったのか」
「フツーだったらクラスメイトって時点でピンとくるよ。でもさ、の……センパイ、は、そうじゃないみたいだから」
先輩。
久しぶりの響き。
卒業するまで、ずっとコイツからは「センパイ」と呼ばれていた。
だから名前も知らずに、都合のいいオモチャを手に入れて喜んでいるだけだと思っていたんだ。
「ね、センパイにとってクラスメイトって何?」
「極力刺激をしてはいけない他人」
「でもさ、その、……いた、だろ、味方」
慎重な言葉運びに、オレはようやく答えに辿り着いた。
そうだ。
ずーっと変わらず、高校卒業間際まであらゆる他人からイジメ抜かれたオレを唯一、守る側になったヤツがいた。
卒業式後、気配を消すように教室を出たオレに「大学頑張れ」とわざわざ声をかけて笑ってくれた、高三のクラスで一番の人気者でヒーローみたいなヤツ。
「ああ、谷野」
「そーだよっ! ソイツだよっっ! どぉーして同じなんだよぉ~!」
「あっちは苗字」
「発音一緒ぉ! 発音一緒だからあっ! ライバルの名前で好きな人を呼ばなきゃいけなんて嫌だあああぁ~っ!」
驚いた。
気にもしていなかったから、そんなことでオレの名前を呼べないなんて意外すぎた。
でも、コイツは真剣に悩んでいるんだろうな。
「忘れろ」
「忘れるワケないっ! 忘れられないぃ~!」
正直オレは忘れていた。
というか、苗字しか覚えていないくらいには興味がない。
他人と関わらないように生きていると、用のなくなった他人を記憶から消すことが上手くなる。
谷野とは単なるクラスメイトで、コイツがストーカーみたくオレをつけ回している時に勝手に守ってくれていただけだ。
クラスメイトが困るのは見ていられない、どうにかできないかと考えた上でのボディーガードだったそうだ。
クラスメイトからチクチクと「谷野の独り占め」を責められる中、矢野はクラスメイトたちと笑い合いオレとも「仲良く」会話を楽しんでいたように思う。
クラスメイトからすれば、嫌でもオレの存在が疎ましくなっただろう。
当たりが強くなるのを感じながらも、矢野にもクラスメイトにもなにも言えなかったけど。
矢野には人を惹きつける魅力があったと、オレですら思う。
そんな谷野とコイツが放課後に怒鳴り合ったことが一度だけある。
谷野はオレを守るため。
コイツはオレを取り上げられたくなくて。
小学生の言い合いみたいな、語彙の少ない怒鳴り合いだったけど。
傍から見ると一人を巡る言い争いで、二人の間にオレじゃなくて可愛い女子がいたなら納得の構図だったに違いない。
残念ながら、オレすらも巻き込まれた空気を出していたから、きっと珍妙な言い合いに見えたろう。
注目されるのが嫌で、後のことを考えて半分パニックになりながら、決死の覚悟で「ストップ」「ステイ」「違うから」だけなんとか絞り出して二人を止めて解散させた。
学校から出た辺り、気拙さを引きずるオレに谷野はあっけらかんと「オレ、イヌじゃねーよ?」と笑ったのもついでに思い出した。
いつもの店で唐揚げ定食を奢ったのはあの時だったかな。
谷野に恩がないと言えばウソになるが、オレの中では済んだ時間にすぎない。
「呼ぼうとする度に! アイツを思い出してっ! も、ぜーったいに! 言いたくないっって! 思うんだよぉ!」
「一応訂正するが、谷野はライバルじゃない」
「ライバルだった! 好きオーラ感じたっっ!」
「クラスメイトが心配だからって聞いたぞ」
「ウソだ! カッコつけるためのウソに決まってるう! つか、オレの知らないトコでそんなこと話してたの悔しいっ!」
確かに、本当かどうかは本人じゃなければわからないところだな。
けど、谷野と一緒に下校するようになってから確かめたことがある。
オレをどう思って、こんな風につき合ってくれているのか、と。
その時もう、久史は図書室でオレの股を使ってハァハァすることに夢中だった。
オレとしてはそんな変態下級生より優しいクラスメイトのほうが気楽に決まっている。
谷野がそういう対象で見ているのなら、それを口実にして逃げられると思った。
クラスメイトにどう言われようが、卒業までに解決できるから手っ取り早いだろうと。
あの頃は本当に、一秒でも早く、変態から解放されたかったんだ。
けど谷野は、オレの残したトンカツ定食のカツを頬張りつつ、クラスメイトが困っているのを黙ってみていられないだけだと断言した。
好きとか嫌いとか、そういう次元じゃないらしいと、その時の谷野の目を見て悟った。
純粋に、彼の持つ正義感からオレを守っている。
困っている人間には、全力で手を差し伸べなければ気が済まない気質なんだと。
けして、久史が想像するような認識じゃない。
とはいえどんなに言い聞かせても、コイツは矢野の苗字とオレの名前を切り離せないだろう。
事実発音は同じわけだし。
オレのことになるともどかしさやワガママが爆発するところは不器用で、真っ直ぐすぎて、少し愛おしい。
他人がオレをどう思うかなんて、想像するだけでも脅威だった過去。
出会いかたや経緯がメチャクチャだったにしろ、今は他人からの脅威ほぼすべてがコイツによって防がれている。
傍にいてくれることで、オレは、俯くばかりじゃなくなった。
「久史、ステイしろ」
オレの声に、久史は黙って正座をする。
股下の長い足をきちんと折り、背筋を伸ばすだけで堂々として見える。
その膝に自分の膝がくっつくまで近寄った。
チラチラと見上げる顔は、オレの言葉に期待をしている。
「オレのこと、好き?」
「好き」
「どこが?」
「全部」
「どうして?」
「大好きだから」
食い気味の問答から数秒の沈黙。
似たようなやり取りは定期的に行われている……気がする。
「二人だけの時だけ許してやる」
「!」
「他人の前で言ったらぶっ飛ばす」
どうせ他人の前でも「のの」と言い出すだろう。
わかっていたが、釘だけは刺しておいた。
本当は嫌だっていう、ささやかな抗議として。
「わぁーい! やったーっ!」
「っ!」
バッと両腕を挙げた久史に驚いて身を縮めたオレを、存分に抱きしめてきた。
その勢いたるや、言葉の通じない大型犬の如し。
「許してくれてありがとぉ! オレ、すぅっごく嬉しいよぉ~!」
「はっ、離……っ、離せっ」
「んん~、大好きなののの匂い~」
「苦しいって!」
「好き、好き、のの、大好きだよぉ」
「わかった、からっ、離れろっ!」
「おごっ!」
コイツはオレをストーキングしている時期、恋しさのあまりオレの等身大抱き枕を姉に作ってもらって「愛用」していたらしい。
だからこうして、喜びで我を失った時はオレを抱き枕と間違えて振り回す。
そういう時には脇腹に一発、拳を沈めるのがお決まりのパターン。
「落ち着けバカ」
「あい……落ち着きまちたぁ……」
「まったく」
時計を見た。
そろそろ家に帰さなければ。
大学生になるにあたり、オレは実家を出た。
母親とひと悶着あったがその問題はコイツの母親が「なんとかして」くれた経緯がある。
だからというワケじゃないが、彼女は久史がここに来ることを許してくれと言ってきた。
オレとしては(恋人になりたてって浮かれもあって)断る理由もなかったし、明確な反対もせず今状況に落ち着いた。
けどまだ高校生だから、時間の制限は厳しくしないと。
「おい、時間」
「も少しダイジョブ」
「ギリギリになると弾丸みたいに飛び出して行くクセに。危ないって言ってるだろ」
「もっともっと一緒にいたい~!」
「ダメだ」
「ケチぃ!」
「明日、行かないぞ」
珍しくこの地域で開催される書道パフォーマンスの総合大会。
運営委員長が久史の姉で、協賛には海外屈指のお貴族様も参加されている。
連日で開催される大会自体は非常に健全で、書道を愛する全ての人へ向けた素晴らしい企画となっているらしい。
その開会式にコイツが立つ。
コイツの知名度なんか考えたこともなかったが、海外メディアのニュースになったくらいに注目されていた。
そんなふとした瞬間に、コイツは、元からオレと同じ場所に立っていない人間だと思い知らされる。
なのになぜ、一緒にいたがるのか。
聞いてもいつも答えは同じ。
「好きだから」
簡単な言葉。
でも、声に出すのは難しい。
安売りかと思うくらいに連呼されるが、オレは数える程しか言えていない。
それで気持ちが伝わるのか心配しなくてもいいくらい、毎回喜ぶ顔を見せてくれる。
久史の優しさに甘えていてはダメなんだと、どこかでは思っている。
けど、いつ何があるかわからないから、あまり深入りしないようにブレーキをかけているのかもしれない。
それほどに、コイツの世界は遠い。
「墨汁足りるのかよ」
「今日の夜から磨れば間に合うし」
「寝ぼけた顔してたら怒る」
「ちぇー。わかったよ、帰ってすりすり励みまーす」
使う墨を最近まで迷っていた。
書家として拘るところなのか、使用する和紙を持って墨職人を何度も訪問し打ち合わせをしたらしい。
素人のオレにはわからないが、たくさんの道具の調整が必要なのだそうだ。
そのためにいい道具を作る職人と顔見知りになり情報交換をし、さらにいいオリジナリティを模索する。
一生独りで俯いて生きていこうと思っていたから、それがどんな感覚なのか想像はできないけど。
「ぜーったい見に来て!」
「わかってる」
「んふふっ、張り切っちゃおーっと♪」
なんだかんだ、書が好きなんだろうな。
大会に気が向いた久史は、甘えん坊ではない表情で笑った。
機敏に立ち上がり、身体を伸ばすとテーブルの上のスマホをズボンの後ろポケットに突っ込む。
「久史」
「なーにー?」
「帰るって言えて偉かったな」
見上げないと視線の合わない身長差にも慣れた。
嬉しそうに腰を曲げて頬に擦り寄る久史の後ろ髪を撫でる。
「楽しみにしてる」
「うん」
一瞬だけ目を合わせて、満面の笑顔の頬に唇を当てた。
お返しはすぐ唇にやってくる。
「開会式が終わったらフリーだから、一緒に大会見て回ろ」
「大会って、結局なにをするんだ?」
「色々。明日は、開会式と小中学生の校内部活に限定した書道会。専用の関係者室準備してもらってるよ」
「数日開催するんだったよな」
「オレは明日だけ」
「閉会式にも引っ張り出されるんじゃないのか?」
「ヤだよ。そんなのよりののと一緒にいたいし」
「……そっか」
当たり前のように、オレといたいと言う。
その言葉を、顔を上げて聞くことのできる幸福感。
オレの視線の先には、久史が笑っている。
蔑みでもなく嘲笑でもない、キラキラした笑顔。
「じゃ、明日」
「会場に着いたら連絡する」
「うん!」
もう一度キスをして、久史は帰って行った。
グダグダしない割り切りのよさは、こういう場面で正直とても助かっている。
「さて」
静かになった部屋で、オレは大学の課題をすることにした。
