庭でくつろいでいた佳寿は俥の音を聞きつけて表にでた。そこに主人が乗っているのを見て悲鳴をあげる。
「だ、だ、旦那さま――」
「……それが家の主人を見たときにする反応か?」
おかえりなさいませ、とあわてて佳寿は頭を下げる。
まさか連絡もなしにいきなり帰ってくるなんて、と血の気が引いた。
俥から降りるなり凪は問う。
「花野はどこだ」
「お、奥さまは――その――買いだしにいかれていて――」
「それは女中の役目ではないのか?」
「え、あ、その、」
「お……奥さまがこの街のことを知りたいとおっしゃるものですので……」と佳寿は云いわけをならべる。
なにかがおかしい。凪をぴくりと眉を動かしたとき、同じく俥の音を聞きつけた薫子とまさが家の中からでてきた。
ふたりも泡を食って頭をさげる。夏の暑さでふたりとも胸元をはだけただらしない格好をしており、まさに至っては口元にせんべいの食べかすがついていた。
凪は佳寿をにらみつける。
「家のことはおまえに任せていたはずだが?」
「も、申しわけございません!」
「まあいい。花野が帰ってきたら俺の部屋に来るように伝えろ」
「は、はいっ!」
なんとかしてごまかさなくちゃ。
三人の女中は肩を寄せあって震えるが、玄関に足を踏みいれた凪が動こうとしないのを見て疑問を顔に浮かべる。
「旦那さま……?」
「……これは花野の下駄ではないのか?」
「あっ――」
花野の下駄はだしっぱなし。それも、あの日のままひっくりかえっていた。
「答えろ。花野はどうした!」
雷のごとき音声で怒鳴られ、佳寿たちは身をすくませる。
だれも答えようとしないのを見て凪は舌打ちすると、靴も脱がずに室内に上がった。片っ端から扉を開けて中を見ていく。
――まずい。二階に行かれたら……!
佳寿たちは怯えたが、もう凪を止めることはだれにもできなかった。
やがて一階をすべて捜索しおえ、凪は足音を鳴らして二階へと上がる。真っ先に開けたのは妻のために用意した部屋だった。
「花野……!」
「――――」
ベッドのそばにぐったりと座りこんでいた花野が顔をあげる。
「なぎ、さま……?」信じられないことに彼女は襦袢姿で、さらに足首には紐がまきつけられていてベッドに繋がれていた。
凪は小刀で紐を切る。そして花野の痩せた体を胸に抱いた。
「花野、すまなかった。具合は? 自分の名前は云えるか?」
「……は、い……」
部屋の窓は閉めきられていた。
蒸し暑い部屋、ろくに水も飲まされず閉じこめられていた彼女の体は発熱していた。力なく凪によりかかってくる。
「わたし、は……。つきおか……。つきおか、はなの、です……」
「……ああ、そうだ」
凪は彼女をきつく抱きしめる。「そうだ。あなたは――俺の大事な妻だ」
すぐに医者を呼ぶ、と凪は彼女を抱きあげた。ベッドに寝かせ、あきらかに悪意を持って閉ざされていた窓をすべて開けはなつ。
廊下にでると階段を上がったところで女中たちが待っていた。
「だ――旦那、さま。医者なら私たちが」
「黙れ!」
凪は怒鳴った。本来なら全員殴りつけてやりたいところだった。
「おまえたちは信用ならない。俺が自分で呼ぶ」
医者は熱中症と栄養失調だと診断した。ビタミン剤を注射し、佳寿たちに作らせた氷水に手ぬぐいを浸してそれで花野の額を冷やす。
「あとすこし遅れていたら……」とまだ若い医者は顔をしかめた。凪が佳寿たちをにらみつけると、三人はあわてて顔を伏せる。
「病人の前だ。ここでおまえたちを叱責することはしないが……花野が回復したら覚えておけ。それと」
凪は佳寿がつけているかんざしに目を向ける。
「おまえがつけているそれは、霧灯家の家宝に随分似ているようだが――?」
✿❀✿
あつい、と幼い花野は涙を零した。
あつい。たすけて、おかあさま。
母は花野を一瞥するとどこかへいってしまう。
待って。いかないで。くるしいの。泣きさけんでも母はもう二度ともどってこない。
――たすけて、おかあさま……。
花野は小さな手を一心に伸ばした。
みすてないで。いい子にするから。おねがい。
「おかあ、さ……」
花野はまぶたを開ける。
そこは布団ではなく西洋風のベッドで、傍らに立っていた青年は「起きたか」と表情をやわらげた。
母に向けて伸ばした手は彼がにぎっていた。大きくてあたたかな手で。
「凪、さま……?」
「ああ、俺はここにいる」
いままで放っておいてすまなかった、と凪は花野の手をつかんだまま頭を下げた。まだ意識はぼうっとしていたが、花野は首を横に振る。
「云いました。愛されないことには……慣れていますと」
「…………」
「それに……凪さまは、国を守るお方。妻より職務を優先して、だれが責めましょうか」
すまない、と凪はくりかえした。花野はふたたび眠りにつき――
次に目覚めたとき、佳寿たち三人がなにをしたかを事細かに聞かれた。
告げ口のようで気がとがめたが、凪に何度も頼みこまれては話すしかなかった。ここ二ヵ月の仕打ちをすべて聞いた凪は「……そのようなことが」と歯噛みした。
「佳寿は自分で云ったとおり母親の代から月岡家に仕えている。そして、その母親は私にもよくしてくれた。だから信頼して家を任せていたのだが……。まさかそんな嘘をついてまで」
「嘘……?」
「…………」
凪はすこし考えこみ、ドアを開けはなって廊下に待機させていたらしい女中たち三人をにらみつける。
「佳寿」と名前を呼ばれて赤茶色の髪の娘はびくっと肩を震わせた。
「おまえ、花野に自分が父上の隠し子だと語ったそうだが――」
佳寿は青褪めている。
「はいかいいえで答えられる問題だ。どうだ、云ったのか? 云わなかったのか?」
「い……いい、まし、た」
「なにを根拠に」
「母が……私が十四のときに、教えてくれましたので……」
凪は溜め息をついた。
そして、「おまえもおまえの母親も知らなかったようだが――」と呆れたように云う。
「月岡家の血を引くものはみな黒髪で生まれてくる。おまえのような赤毛が産まれてくることはない」
「えっ――?」
「……父親のわからない子供を産んだ女が、せめて、と夢物語を語る。よくある話だ」
凪が云っていることを理解し、佳寿は膝から崩れおちた。「そんな……そんなぁ……っ」と髪を掻きむしる。
彼女の母親はそれが嘘だとわかっていたはずだが、娘は無心に信じていたらしい。心の支えが崩れて佳寿は鳥の鳴き声のような奇声をあげて泣きわめいた。
その声が収まったところで凪が云う。
「さて、おまえたちの処分だが……」
このことを警察沙汰にはしないかわりに二度と帝都の土は踏まない。
それが三人にくだされた処分だった。
三人がやったことは暴行の罪に問える。そう凪は花野に云ったが、花野がそれをきらったのである。
裁判など煩わしい。それに、彼女たちの親は我が子が罪人になることなど望んでいないでしょうと。
それを聞いた三人はひたいを床にこすりつけ、涙を流しながら花野にこれまでのことを謝罪した。
もう忘れてくださいと云う花野の傍らで、凪はにらみころしそうな目で彼女たちを見下ろしていたが。
その日のうちに三人は月岡家を追いだされた。
ふたりになった家、ベッドの横においた椅子に腰を下ろして凪は花野に問いかける。「ところで……」と。
「十年前。なぜ、あなたは夜に家をでていたのだろうか」
"影"は固く戸締りをしていれば入ってこない……というのは迷信だが、屋内より屋外で襲撃される件数のほうがはるかに多いことはあきらかだった。
ましてや霊力の強い霧灯家。敷地内にいればほぼ確実に安全だったのに、七歳の花野はひとりで外にでた。
花野は答えずに黙りこむ。凪は彼女の手をにぎった。
「教えてほしい。あの晩、なにがあった?」
「……だれにも云わないと約束してくださいますか」
「それはできない」
正直に答えられて花野はくすりと笑った。
そして視線を遠くにやって、「もう十年もまえのことです……」と前置きしてから話しだす。
「私には病みついた祖母がおりました。祖母は私をかわいがってくれて、私も祖母のことが大好きでした。だから思ったのです。祖母の病気を治してあげたい……と。
近くの薬局に祖母の病気が治る薬がないか尋ねたり。難しい医学書を読んだり。私は私なりに手を尽くしました。そしてある日……私の文机の上に手紙が置かれていたのです。
『アカイツキノヨルニ ヤマニサクハナヲ センジテノマセヨ』
手紙にはこのことはだれにも云わないこと、効力がなくなってしまうから必ずひとりで採りにいくこと、この手紙は読んだら処分することも書かれていました。私はすべてそのとおりにしました。おばあさまが大切だったから。ですがその途中で……」
「あなたは"影"に襲われ、草野という影祓部隊の男にたすけられた」
なぜ名前までわかるのかと驚いて凪を見る花野に、「当時の記録を調べただけだ」と彼は答える。
そのとき彼の瞳に宿った不思議な色には気づかず、花野は「ええ、あのひとはたしかにそういうお名前でした。私の命の恩人です」とうなずいた。
「そのときに私は霊力をなくしてしまったのです。おそらく"影"が命を奪うかわりに霊力を奪ったのでしょう。……あのような手紙を信じた私が愚かでした」
「その手紙だが……あなたは差出人がわかっているのではないか?」
「…………」
「次期当主として崇められていたあなたを罠にかけたのは、おそらく――」

