「厭な月ですねえ」
影祓部隊の詰所にて青木がぼそっとつぶやいた。
窓から見えるのは赤く錆びたような満月。新人特有の杞憂だと切りすてたいが、こういう月の日は"影"の動きが活発になることを凪も経験上知っていた。
そのことを伝えると青木は神妙にうなずく。
「では今日は隊長の後ろに隠れていようと思います」
「舐めるなと云いたいが、実際にそれが一番生存率が高いだろうな」
凪は床の間の前で精神統一している千里眼を見る。
白装束をまとい、目元を黒い布で覆った男は無駄口を一切叩かない。凪と青木は巻煙草をふかし、千里眼が"影"の気配を察知するのを待つ。
やがてそのときが来た。
「――視エタ」
ふたりの前に広げてある地図の一点が赤く燃える。ここから走って十五分程度の場所だ。
「ちと遠くないですか」と青木が煙草を灰皿に押しつけながら軽口を叩く。黙れ、と諫めて凪は詰所をでた。
地上を押しつぶそうとしているかのような巨大な月だ。もう暦は七月だというのに外はうすら寒い。
こんな夜にはかならず死人がでる。
すぐさま駆けだそうとした青木を止め、「おまえはここで待機しろ」と命ずる。
「は? なぜですか、隊長」
「これくらい俺ひとりで充分だ」
「ですが――」
青木には帰りを待つ家族がいる。彼に生きていてほしいと願う相手がいる。
なにより、彼はまだ若い。無闇に命を危険にさらさせることはできなかった。
凪ににらまれ、「……わかりました」と青木は渋々答える。そして「どうかお気をつけください、隊長」と詰所の扉の前で敬礼をした。
凪は背中でそれに答え、砂煙もあがらない死んだような街を駆けだす。
その"影"は童女のように歌いおどっていた。
るあ、ら、ららら。人語を介さない化け物は歌をうたいながら、地面につきそうなほど長い腕を振りまわしながら奇妙な踊りをおどっている。身の丈は一階の屋根を優に超えていた。
……声を持つ"影"?
そんなものはいまだ聞いたことがなかった。成長した"影"……。おそらくは千里眼が察知するも影祓部隊が仕留めきれず逃がしてしまった個体だろう。
刀で祓えなかった"影“も朝陽を浴びると消える。けれどそれは祓ったことにはならない。また、"影"は殺めた人間の生命力を吸いとって成長することがあった。
――この"影"は何人の人間の命を奪ってきたのか。刀の柄をにぎる凪の手に力が籠もる。
ここでこいつを仕留めなければ、さらなる被害者が増える――。
"影"は凪に気づいてぶらぶらと腕を振りまわすのをやめた。こちらからは視認できない、見えない瞳で凪を見据える。
凪は"影"との間合いを取った。
彼の剣は疾風迅雷。一瞬で勝負を決めることを常としている。
……いまだ。凪が踏みこもうとした刹那。
『ツ……キ、オカ……』
"影"が童女の声でそう云った。
「――?」
錯覚か。風の音が女の悲鳴に聞こえるように、意味をなさない声が自分の名に聞こえたのか。
だが"影"はくりかえす。ぶら、ぶら、とまた腕を動かしながら。
『ツ……オ、カ』
『ツ、キ、オ、カ』
『ツキオ、カ』
『ウマ、カッタナ』
『マタ』
『ギュウ、ヲ、クイニ』
――月岡。うまかったな。また、牛を食いに。
奇妙な音色が凪の頭の中で文章になった。ああ、と彼の口から悲鳴が漏れる。
――草野陵五 "影"トノ交戦ニヨリ落命――
目の前にいる"影"は。
士官学校時代の恩人の命を、喰らっていた。
「ぬぁああああにをぼさっとしてるんですか!」
突然後ろから突きとばされた。追いかけてきていたらしい青木は刀を抜き、凪に向けて伸ばされていた"影"の腕を切る。
アア、アア、イタイ。"影"は今度は青年の声で呻いた。聞きおぼえのある声で。
地面に座りこんだ凪は呆然と"影"を見上げる。
「やめろ……青木。あのひとは倒すべき敵じゃない」
「いやいや冗談ですよね、倒さなきゃ自分たちが死にますよ」
「あのひとは草野殿だ……!」
「頭でもおかしくなっちまったんですか!?」
"影"は新しい両腕を生やし、それで青木の体を薙ぎはらう。
「うぉっ――」青木は刀で防いだものの、勢いは止められず近くの家の壁までふっとばされた。後頭部を強く打ちつけて白目を剥く。
「青木!」
彼の後頭部から広がる血を見て我に返った。
――ちがう。こいつは人間の真似をしているだけだ。凪は片膝をつき、刀の柄に手をかけた。
『また牛を食いにいこうな』
それが凪が聞いた草野の最期の言葉だった。厳しい士官学校時代、彼が奢ってくれる牛鍋はなによりものごちそうだった。
「……卑怯者め」
心優しい先輩だった。だからわかる。
草野は童女の声で歌う"影"を斬りつけることができずに倒されたのだ。それが演技であることを承知で。
ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「草野殿の仇、討たせてもらう――!」
立ちあがりざまに凪は"影"の胴を切りはらった。すぐさま返す刀で二太刀目を浴びせ、夜の街にもうひとつの月光を生みだす。
『ツ……キ……』
「黙れ」
落ちてきた頭部を凪は串刺しにした。
……これで。これで、あのひとの仇は取った。
そう安堵したときだった。
背後に音もなく忍びよっていた"影"の腕が凪の胸を後ろから貫いた。
「――――」
一瞬、なにが起きたかわからず呆然としてから思いだす。
"影"の位置が近いと千里眼でも数を見誤ることがある。二ヵ月前、自分が青木に云ったことだった。
ぶおんと二体目の"影"は腕を振って凪の体から引きぬく。凪は無様に地面に倒れた。穴の開いた胸から鮮血があふれ、その熱さに動揺する。
――死ぬのか、俺は。
軍神とまで呼ばれた自分が一時の油断で死ぬとは思ってもみなかった。地面に転がった刀を持とうとするが、指が届かない。
"影"は凪に興味をなくしたように気絶している青木のもとへと向かう。
……やめろ。そいつを仕留めたければ、俺を殺してからいけ。
叫ぼうとした言葉は血になった。異常な量の血にむせながら、凪は立ちあがろうと腕に力を込める。
だが甲斐なく再び地面に倒れこんだ。自分が作った赤い血だまりがばしゃりと音を立てる。全身が鉛になったかのように重い。
――こんなところで……
もとより死ぬ覚悟はできていた。だが。
部下をみすみす見殺しにするのかと思うと、どうにも口惜しい。
どんなかたちでもいい。あの"影"に一太刀浴びせたい。
震える手で周囲を探ったとき、なにかが凪の指にふれた。
――これは……?
女物の着物のようだ。目を開けると血だまりの中に緋色のお守りが浸かっている。
凪は無我夢中でそれをつかんだ。すると、呼応するように地面の上の刀が輝く。
白銀の月のように――美しく。
その輝きを浴びると不思議と痛みを忘れることができた。口元をぬぐい、凪は手をついて立ちあがる。
そして刀の柄を右手でつかんだ。
殺させてなるものか。けして――!
いままさに青木の胸を貫こうとしていた"影"にすばやくかけより、袈裟懸けに斬りつける。断末魔も上げずに"影"は倒れた。
のちに知ったことであったが。
その"影"は十年前、花野から霊力を奪ったものと同個体であった。
そして……

