【完結】月影の軍神と愛しの傷嫁


「――もうよろしいんで」

 墓参りを終え、凪が俥までもどると道端で休んでいた車夫はあわてて煙草を踏みけした。
 凪は無言で俥に乗りこみ、車夫は梶棒をにぎる。からげた裾から覗くふくらはぎは筋肉が盛りあがっていて巌のようだ。

 士官学校時代に世話になった先輩の墓だった。当時はうんと大人びて見えたが、いま思いかえすとまだ二十歳になるかならないかだっただろう。

 青々とした坊主頭に凛々しい眉が印象的な青年。彼は凪が影祓部隊に入るまえに"影"との交戦で命を落とした。未来の後輩たちに飯を奢るのが好きで、凪もよく牛鍋を奢ってもらった。
 恩人である彼に軍服を着た自分の姿を見せることは叶わず、その悔しさを晴らすわけではないが、彼の墓へくるときは常に凪は軍服を身にまとっていた。

 先輩だけではない、と俥に揺られながら思う。

 凪に酒の味を覚えさせた同期も逝った。人の命を守りたいと真面目に稽古にいそしんでいた後輩も死んだ。帝都は日々成長し、鐡道に乗ればどこまででもゆけるというのに、自分だけが一点にとどまっている気がする。

 情を移したものが自分より先に逝くたび、凪の心は血を流した。憧れの上官も気の置けない同期も、まだ少年のような顔をした有望な後輩も死は残酷に平等に奪っていく。やるせない思いに押しつぶされそうになって酒に逃げた夜もあった。

 そのうちだれかと深く関わることを避けるようになった。どうせみな死んでいく。
 そしていずれはこの身も墓石の下に眠るのだろうと思っているうちに、入隊から五年が経っていた。影祓部隊では最年長だ。

 兄は嫁をもらい、来年の春に第一子が産まれる。
 いつでも遊びにこい。そんな葉書は折々にくるが、凪が兄の家へ赴いたことは入隊してから一度もなかった。兄のいる場所と自分が住む世界はちがいすぎている。足を運べば、かれらの暖かな幸せを汚してしまいそうで恐ろしかった。

 孤独に生き、孤独に死んでゆく。
 それが生涯刀をにぎると決めた凪の覚悟だった。

 俥を降り、隊舎にもどると待っていましたとばかりに青木が寄ってきた。「隊長、お手紙が来ております」と一通の白い封筒を差しだしてくる。

 裏を返すと『月岡花野』と書かれていた。だれだ、自分と同じ名字のこの者は――訝しんでから、そういえばこんな名前の女と結婚したと思いだした。

「奥さまからですか」と尋ねてくる青木を無視し、封を切って逆さにすると小さな平べったい布袋がでてくる。
 着物の端切れを使って縫ったらしいそれは艶やかな緋色をしていた。口は白い糸で封じられており、特になにを祈願するとも書かれていない。ほかに手紙なども入っていなかった。

「お守りですね。情の濃いよい奥さまではありませんか」
「……こんなもの」

 ただのごみにすぎない。捨てようとしたが、後輩の手前、それもやりにくくて上着のポケットへとしまう。
 ――祈ってなにになる? 神頼みで済めば凪の親しい人間はだれも死ななかった。これだから現実を知らない女は、と吐きすてたくなる。

 青木はまだにこにこしているので、「おまえのほうはなにか来たのか」と尋ねてやる。はい、と彼は小動物のような目を細めた。

「一番上の兄夫婦に子供ができたそうであります」
「……そうか。顔を見に帰るのか?」
「いえ、そうなると休みを取っていかなければなりませんので――仕送りの額を増やそうと思います。子ができたらなにかと入用と聞きますので」

 彼の実家は東北で農家をやっている。青木は五人きょうだいの三番目。
 家業は長男に任せ、自分は出稼ぎにきたのだといつだか問わず語りに話した。

「隊長こそお家には帰らないのですか。新婚だというのに」

 ここ数日間任務をともにしているせいで気安さが生まれたらしい。踏みこんだことを聞いてくる青木を凪はにらみ、「ばかばかしい」と一蹴する。

「俺たち影祓部隊が死体以外になにを残せる」

 語気の荒さに青木は首をすくめた。凪は手に持ったままだった封筒を破りすてると、夜まで仮眠を取るために自分の部屋へと足を速める。
 それ以降、自分の妻だという女のことは意識の端にも上らなかった。

 しょせん名ばかりの妻。赤の他人だ。

 
 ✿❀✿


「どこにいっていらしたの?」

 凪が手紙を受けとる一日前。ひととおりの家事を終えた花野は郵便局までいっていた。

 主人への手紙をだすためと云えば、その手紙になにをされるかわからない。だから佳寿の不興を買うことを承知で黙って抜けだしたのだが、上がり(かまち)で仁王立ちする彼女を見ると身がすくんだ。

「……所用で……」
「そんなものあなたにはないでしょう? ここに引っ越してきたばかりで友人もいないくせに。なにをしてきたのかはっきり答えなさい!」

 まるで母親に叱られる子供だ。
 うまい云いわけをこしらえることもできずに花野がうつむていると、「――云えないようなことをしてきたのね」と佳寿は低くつぶやいた。

「わかったわ。男でしょう? 旦那さまに相手にしてもらえないからべつの男を作ったのね」
「そのようなこと――」
「きなさい! その腐った性根、私が叩きなおしてあげるわ!」

 佳寿は花野の手首をぐいとつかむとひっぱりあげた。からん、と脱げた下駄が音を立てる。

 騒ぎを聞きつけたまさがリビングルームのドアを開けて「どうしたんだい」と尋ねてきた。

「愚かな奥さまをお仕置きするのよ」
「また大儀なことだねえ」

 まさは手に持っていたせんべいをかじる。花野をたすけてくれる様子はなかった。

 佳寿が花野をひっぱってきた先は台所だった。外観こそ明治時代初期の洋館だが、台所改善運動の波はここまでたどりついたようで水道と瓦斯(ガス)の設備が整っている。凪が頓着するとは思えないから佳寿がねだったのだろう。

 佳寿はその瓦斯コンロの火をつけると、「さあ」とつかんだままだった花野の手をかざした。

「あなたの不貞の罪を浄化するのよ。そうすれば旦那さまには黙っていてあげるわ」
「や、やめて……」

 花野は手を引こうとしたが、佳寿の力のほうが強かった。手のひらが火にあぶられてじりじりと熱くなる。

 私は凪さまに手紙をだしにいっただけ。もはや、正直にそう話しても意味がないことは明白だった。佳寿は花野を痛めつけたいだけなのだ。

「さあ!」

 血走った目で佳寿が叫んだとき、「やめときなさいよぉ」と気だるそうな声が台所の入り口からした。三人目の女中、狐に似た顔を持つ薫子が腕組みをしてこちらを見ている。

「そんなことをしたら跡が残るわ。旦那さまは気づかないでしょうけど」――とあからさまに小馬鹿にした目で花野を見て――「この女が実家に逃げかえったら厄介よ。腐っても霧灯家の長女なんだから。だれがやったか明らかにしないと示しがつかないでしょ」

「……なによ。ならこの女を解放しろっての? あんただれの味方?」
「べつにそんなこと云ってないわ。べつのやりかたを考えろ、って云ってんの」

 救いの手が差しのべられたと思ったのは大間違いだった。
 数分後、花野は水を満たした金盥に女ふたりの手で顔を押しつけられていた。

 花野がもがけばもがくほど佳寿と薫子は喜び、おかあさま、やめて、おかあさま、という悲痛な悲鳴を聞いては声をあげて笑った――。




 ……やがて、新しいおもちゃに飽きたようにふたりは花野をその場に置いて立ちさった。
 髪も着物もずぶ濡れで、何度も酸欠になったせいで頭がずきりずきりと痛む。

 涙なんてもうとっくに枯れたはずだった。けれど、花野の目に涙がにじんで白い頬を伝っていく。

 ああ、おばあさまに会いにゆきたい。

 このまま逝けたらどれだけ素晴らしいだろうと思った。こんな、だれからも愛されない人生なんて。
 花野は口元を両手で覆い、声が漏れないように泣きさけぶ。
 泣き声が蔵の外に漏れたら折檻される。身に染みついた習慣は、こんなときでも消えてくれなかった。


 それから花野は勝手に外へでないよう、佳寿たちに所持金をすべて奪われた。さらに帯紐を繋ぎあわせて作られた紐で足首とベッドの脚を繋がれた。

 肌身離さず持っていた玻璃玉のかんざしは彼女たちに奪われてしまった。どうやら日替わりでつけるようにしたようで、ご飯の時間だと云って残飯を持ってくる三人のうちだれかの髪に挿さっているところを見ると叫びだしたくなる。

 唯一の慰めは、こうなるまえに凪に手紙を贈れたことだけだった。たとえ三ヵ月だけの夫婦だとしても。

 あなたが無事に帰ってくることを祈っていますと伝えられたことは――かりそめでも『妻』の役目を果たせたことは――無能と罵られつづけた花野にとって、なによりの慰めだった。