【完結】月影の軍神と愛しの傷嫁


『おかあさま……あつい……』

 ……あれは七歳のときの私だ。布団で苦しんでいる少女を見て、花野は思う。

 傍らには白衣をきた医者と看護婦。そして星軍の藍色の軍服を着た青年がいた。
 当時のことをなぜか俯瞰で花野は振りかえっているようだ。

『おかあさま。たすけて、おかあさま……』

 七歳のときの花野は高熱にあえいでいるが、これはただの熱ではない。"影"に襲われたせいだ。
 やがてふすまの向こうから急いた足音が聞こえてきて、母が付き人の老女とともに入ってきた。『花野!』と声をあげて我が娘にすがりつく。

『先生。花野は"影"に襲われたと聞きましたが、いったいなぜ……』
『わかりません。ひとまず解熱剤を投与しましたがあまり効き目はないようです』
『ああ!』

 母の嘆きは他者の怒りへと転換された。悲痛な表情で正座している軍服の青年をにらみ、『あなたが花野を?』と高圧的に尋ねる。青年は『はい』と礼儀正しく答えた。

『千里眼の指示でこちらのお宅のそばまで馳せさんじました。すると門の外でこちらのお嬢さんが気を失って倒れておりましたので、"影"の始末を同僚に任せて自分がこちらへと運ばせていただいた次第です』

 彼のおかげで花野は命を救われた。だれが聞いてもそう解釈する話だったが、それを聞いた母は激昂した。

『なぜもっとはやく来なかったのですか! あなたのせいで花野は"影"に襲われたのです。自らの力不足を恥じなさい!』
『……誠に申しわけございません』

 青年は坊主頭を下げる。
『奥さま……』と医師がとりなそうとしたが母はそれを無視して『あなた、名前は?』と鋭く尋ねる。

『……草野(くさの)陵五(りょうご)と申します』
『このことは軍の上層部に報告いたします。覚えておきなさい』

 青年は黙って頭を下げつづける。
『ああ、かわいそうな花野』と母は全身を火照らせている花野を見下ろす。だがけしてその頬にも手にもふれようとはしなかった。

 そして、この場にいただれもが耳を疑うようなことを口にする。

『――ところで先生。花野の霊力は無事なんでしょうね?』
『……はい?』
『霊力ですよ。彼女は霧灯家でも類を見ない霊力の持ち主。次の当主はもう花野に決まっております。そんな花野の霊力になにかあったら一大事でしょう?』

 ここで医師は花野の母がまだ一度も花野の具合を尋ねていないことに気がついた。それよりも先に、母は娘の霊力が"影"に襲われたことで変わっていないかをたしかめたのだ。

 ……なんて母親だ。

 医師は怒鳴りつけてやりたいのを堪え、『専門外ですから』と苦虫を噛みつぶしたような顔で答える。それもそうねと母はあっさりうなずくと、自らのまとめ髪に挿していたかんざしを引きぬいた。

『医師風情に霊力の有無がわかるはずがございませんわね――』

 小さな水晶の玉がついたかんざしだった。水晶は泉のように透きとおっている。
 母はそれを花野の額へと近づけた。すると、みるみるうちに透明な玉が霧でもかかったかのように曇っていった。

『ああ!』と母は叫ぶ。

『こんなのなにかの間違いだわ。――おかあさまを呼んでちょうだい! はやく!』

 母は自分の母親――花野にとっては祖母である先代を呼ぶ。
 やがて付き人の肩を借りてつれてこられた祖母は、濁った水晶を見ると表情を一変させた。

『なんてこと……!』

 母が髪につけていたかんざしは代々の当主が受けつぐもの。
 霊力を持つものが持っていると水晶は美しく透きとおり、逆に霊力がないものが持つと先程のように醜く濁ってしまう。女ふたりが青褪めた理由はそこにあった。

 次期当主である花野から霊力が消えた。

 これは霧灯家をゆるがす大事件だった。
 ただの当主ではない。百年にひとりの強い霊力を持つ灯使(あかし)と謳われていた花野である。

 母は花野の霊力を取りもどそうと躍起になった。
 娘の熱が下がるなり霧灯家が所持している裏山の泉――ここで修行をすると霊力が鍛えられると云われている――に毎日花野を連れていき、泉の中へ突きおとす。息が苦しくて上がってこようとしたところを頭を押さえつけてまた水中にもどす。取りもどしなさい、と狂気じみた顔で怒鳴りながら。

 取りもどせなければあなたは出来損ないになってしまう。さあ! 取りもどしなさい!

 地獄の責め苦は何日もつづいたが、花野が溺れて意識を失い、再び医者の世話になったことで終わった。
 蘇生した花野が見た母の顔は惚けていた。おかあさま、とかすれた声で花野が呼ぶと、彼女は堰を切ったように大声で泣きわめいた。

 私の娘が。私の娘がああああああ。

 そんな母を救ったのは、花野の妹の乙華(おとか)であった。
 おかあさま、だいじょうぶよ。霧灯家の跡は私が継ぎますから。
 そう云って、花野とひとつちがいの彼女はずっと休んでいた灯使の修行を再開。花野にくらべれば取るに足らない霊力ではあったが、それでも母には救いだったのだろう、母の寵愛を手に入れた。

 花野は母の関心を失った。
 母にとって、自分の娘は乙華ひとりだけとなった。

 霧灯家の次期当主として姉ばかりが重んじられてきたぶんを取りかえすように、乙華は両親をはじめ、親族、使用人、その他つきあいのある人間――そして花野の許嫁の少年の心を奪っていった。いつの間にか結婚の話は白紙となり、彼の相手は乙華となっていた。

 当主である母の無関心さは使用人たちにも伝わる。幼い花野は身分の低い使用人からも嘲られ、邪魔だと足蹴にされるようになった。

 唯一の救いは祖母が憐れんでくれたこと。
 彼女はもう何年も前から寝ついていて、滅多なことでは部屋からでることさえできないのだけれど、花野が遊びにいくといつも布団の中から出迎えてくれた。

 そしてある日、おばあさまの枕の下を見てごらん、と彼女は花野に云う。
 花野が云われたとおりにするとそこには一本のかんざしがあった。

 かんざしには無色透明の玻璃(がらす)玉がついている。
『きれい……』と花野はつぶやいた。祖母は満足そうに目を細める。

『あんたは本物のかんざしを受けつげない。でも忘れるんじゃないよ。たとえ霊力がなくっても、あんたはおばあさまの大事な孫だからね』
『……はい』
『愛しとるよ、花野。おばあさまはもう長くないけど、あんたをそばで守ってくれる相手が現れるよう祈ってるからね。……さあ、近くにきて、もっとよく顔を見せておくれ……』

 その日の深夜に祖母は息を引きとった。花野はかんざしを袂に隠してだれにも見つからないようにした。見つかれば取りあげられることはわかっていたからだ。

 たったひとりの味方であった祖母を亡くし、乙華たちの花野への扱いはより一層苛烈なものとなった。

 自慢の長い黒髪をはさみで無残に切られ、大切にしてきた人形を目の前で壊され、真冬に庭の池に落とされる。だれもたすけてはくれない。
 一度、池から這いあがる花野と縁側を歩いていた母の目が合ったが、名も知らぬ虫でも見たかのように母は視線をそらした。どんな仕打ちよりもそれは花野の胸に突き刺さった。

 ――おかあさまはもう私を愛していない。
 ――私はいらない子なんだ……。

 やがて『私が修行をしていると姉が邪魔してくる』という根も葉もない乙華の告げ口によって、花野は物置となっていた蔵のひとつに幽閉されることとなる。

 まるで罪人のような扱い。昼間でも薄暗くかびくさい蔵の中で、花野は祖母がくれたかんざしを胸の前で抱きしめて涙を零した。

 ――いつか。
 いつかだれかがここからたすけだしてくれたら、と願いながら。