凪の家に女中は三人いる。佳寿と、佳寿と同年代の薫子。恰幅のよい中年のまさ。
新婚二日目、夜が明けても凪は家に帰ってこなかった。それがふつうだという。彼が家で休むことは滅多にない、と。
主が不在の家で幅を利かせるのは不思議なことにまだ若い佳寿だった。
彼女は自分は手をださず、家の裏にある井戸のそばで女性用の肌着を洗う花野にあれこれ指図をする。まるで新しい女中が入ってきたかのように。
「なんですか、これは? ぜんぜん汚れが落ちていないではありませんか。もっと力を込めて洗ってください」
「……はい」
「それとお米はなくなるまえに注文してくださいな。花野さまは気が利きませんね」
なくなるまえに、と云われても花野はまだここにきて二日目だ。米の残量など知る由もない。
「あの……私はまだ米櫃を開けたこともないのですが」
「口答えですか? 図々しいお方。奥さまなら台所事情を把握していてあたりまえです。さあ、口より先に手を動かしてください」
はい、と花野は答えて肌着を揉みあらいする。
この中には花野が昨夜着ていた襦袢もある。内側の赤い汚れをつけたのは間違いなく佳寿だ――そう思ってはいたが、たしかめることが怖く、佳寿の目から隠すようにして石鹸をこすりつけた。
月のものがきたと誤解させて初夜を台無しにする。その悪意はなかなか消えない。
――私がやることなのでしょうか。
朝、いきなり肌着を洗濯しろと佳寿に命じられた花野は驚いてそう尋ねた。女中が三人もいるのに妻が自らやるとは思わなかったからだ。
そうですよ、と佳寿たち女中はけろりとした顔で肯定する。
――あなたは霧灯家では無能とさげすまれていたとか。
――そしてそれはここでも変わりません。あなた、昨夜床入りされなかったのでしょう?
――夫に必要とされない妻に存在価値がありますか?
――それでもあなたをこの家に置いてさしあげようと云うのです。
――せめて、家事でもして月岡家に尽くすことですね。
なぜそこまで云われなければならないのか、はねつけるだけの強さが花野にあればよかったかもしれない。
けれど彼女は傷つくことに慣れてしまっていた。自分さえ我慢すればすべてがうまくいくことを知ってしまっていた。なによりも凪が彼女に手をふれようとしなかったのは事実である。
わかりましたと花野はうなずき、佳寿に嫌味をぶつけられながら洗濯をはじめたのだった。
薫子とまさは女中部屋ではなくリビングルームを占領している。時折、手を叩いて笑いあう声が聞こえてきた。
「掃除が終わったらご飯を作ってくださいね。三人分」と佳寿が花野に声をかける。花野は手を止めた。
「三人分、ですか?」
「霧灯家の長女さまは私たち女中が食べるものなどお口に合わないでしょう?」
佳寿は口元を袖で隠す。
「ですから、あとで私たちが作ってさしあげますわ。奥さまのための特製料理でございます。野良犬が泣いて喜びますのよ」
「…………」
「もちろん食べている間はおしゃべり厳禁ですわよ。わぉん、だけは云ってもかまいませんけれど」
自分の冗談でおかしくなったように佳寿は声を立てて笑う。
彼女は曲がりなりにも妻の座にいる自分を犬扱いしようとしている。さすがに花野が気色ばんだとき、「あら、なにその目」と佳寿が笑顔を消してにらみつけてきた。
「旦那さまにでも云いつけるつもり?」
「……それは、」
「かまいませんわ。どうぞなさって」
意外な返答に花野は面食らう。
佳寿のこの余裕はいったい? 混乱していると、「あのねぇ」と佳寿が再び笑みを浮かべた。
「うちは母の代から月岡家に仕えているの。そして、私のおかあさまは月岡家ご当主のお気に入りなの。この意味がわかる?」
「……?」
「察しが悪いのね」
ふん、と佳寿は花野を馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「――おかあさまはご当主のお手付き。そして私が産まれた、ってことよ!」
花野は目を見開いた。
それがたしかならば佳寿は月岡家の血を引いていることになり、さらに凪と腹違いのきょうだいということになる。
「そんな……」と絶句していると、「これでわかったかしら」と佳寿がたたみかけてきた。
「凪さまに助けを求めても無駄よ。あのひとは私を妹としてここに置いてくださっているのだから。凪さまはあなたより私のほうが大切なのよ。おわかりでして? 初夜に相手にされなかった奥さま」
「……っ」
「さ、はやく済ませてちょうだい」
月岡家の裏庭にシャボン玉がふわりと浮かぶ。
朝陽を浴びて虹色に輝くそれに佳寿は気づき、花野を見下ろして残忍に笑うと、爪で突いて割ってみせた。
✿❀✿
――夜。それは人間の時間ではない。"影"と呼ばれる怪異のための時間だ。
"影"は霧のように自然発生する。それを察知するのが千里眼と呼ばれる能力を持つものたちで、力に長けたものはひとりで帝都全体を視ることができたという。
かれらの指示を受け、刀を帯びて現地に向かうのが影祓部隊だ。藍色の軍服は夜にまぎれやすい。果たして怪異に視覚があるのかはわからないが、暗闇に溶けこむと落ちつくのはたしかだった。
「こっちだ」
今年の春に入隊したばかりの部下ひとりを連れ、凪は夜の街を駆ける。
次の角を曲がるより短縮したほうがはやい。そう思い、彼は二階建ての商店の屋根まで駆けのぼる。
羽でも生えているごとき動きに部下の青木は目を瞠った。
「た、隊長!?」
「どうした。はやく来い!」
「そう云われましても」
彼はこれくらいの高さも登れないらしい。凪は舌打ちし、「そこを回ってこい」と命を下す。そして自分は返事を待たずに向こう側の道へと飛びおりた。
待ちうけるは、"影"ひとつ。
見た目は夕方に地面の上に落ちる童子の影のよう。まだ実体化していない。生まれたばかりのものだ。
これくらいなら青木でも倒せると、凪は刀の柄に手をかけたまま待機する。
やがて追いついてきた青木に云う。
「――斬れ」
「は、はいっ!」
へっぴり腰ながらも青木は刀を振るい、黒い霧のような"影"を両断した。"影"はあっさりと消えていく。
「や、やった」と青木は浮かれそうになる。そこを、「まだだ」と凪は一喝した。
「気配が重なっているかもしれないと教えられただろう。近辺を見てまわる。ついてこい」
「失礼いたしましたっ」
複数の"影"がごく近くで発生している場合、千里眼でも数を見誤るときがある。士官学校でかならず教えることだ。
逸りがちな新人はあやまって自分を傷つけることが一番怖い。刀を鞘におさめさせ、彼とともに近くを見てまわる。
霊力が込められた刀を所持していれば暗闇で視界がさえぎられることはない。なので、ふたりとも自由に両手を使える。
"影"との戦いは夜にかぎられる以上、それは大きな強みだった。
「あっ――」
果たして、角をふたつ曲がった先に"影"が待ちうけていた。背丈は六尺(約180センチ)はある凪よりも大きく、先程のようにぼんやりしたものとはちがってくっきりとした輪郭を持っていた。奇妙に細長い頭部と両手両足を持ち、おいでおいでをするように片腕を動かしている。
異様な姿を見て青木は怖気づいた。それを隠すため、「自分が行きます」とひきつった声で言う。
「待て――」
止めようとしたが遅かった。刀を抜き、雄たけびをあげると青木は巨大な"影"に向けて走っていく。
青木が振りかぶったそのとき"影"がぬるりと姿を変えた。手足を収納して蛇のように一本の細い紐になり、意表をつかれた青木の隙を見逃さず彼に巻きつこうとする。
「あ、あああっ――」
動転する青木を凪は蹴り飛ばした。すぐに刀をかまえ、"影"を一閃する。
月光に銀の刀が反射して、一瞬、光が青木の目を焼いた。思わずまぶたを閉じる。
おそるおそる開けたとき、凪はもう刀を納めており、"影"は跡形もなく消えさっていた。
地面に尻餅をついたまま青木はごくりと唾を飲みこむ。
月岡凪の噂は士官学校時代から有名だった。平均寿命が二年である影祓部隊で、それを越えて活躍している。
そして、彼の剣は速すぎて常人には見えず。
月光を照りかえす刀の光だけが見えるそうだ――と。
ついた二つ名が、月影の軍神。
「なにをしている。はやく立て。見回りは終わっていない」
「――はいっ」
冷たく見下ろされて青木は急いで立ちあがった。そして、"影"がかすかにふれた軍服の袖口が焼けただれていることに気づいてぞっとする。
"影"がかすめただけでこうなった。もし、あのまま巻きつかれていたら……。
「辞めるならいまのうちだ」
背中を向けて歩きだしながら凪は云う。そのようなことは、と云いながら青木はあわてて後を追いかけた。
――そういえば、昨日このひとは霧灯家のご長女とご結婚されたのだっけ。
今更ながらにそのことを思う。披露宴に新人の青木は参列していないが、話だけは聞いていた。奥さまはとても美しい方だと……
それを話題にする気がなかったのは。
帯刀して夜の街を歩く凪の姿が凍てついたように冷たく見えたからだった。新婚とはとても思えないほどに。

