青年は云った。
「俺があなたを愛することはない」
少女は答えた。
「かまいません。愛されないことには慣れております」
✿❀✿
月岡といえばかつて武家として名を馳せた名家である。
太刀筋の鋭さは江戸時代から年号が二度改められても衰えず、御一新の際に野良の"影斬り"がひとりもあまさず政府に抱えあげられて、新設された星軍影祓部隊という居場所を与えられてからは男子はみなそこを志願した。
――もっとも生存率の低い危険な職である。跡継ぎは入隊を許されず、希望が叶えられるのは次男以下のみだった。
月岡本家の次男、凪は星軍士官学校を十八歳で卒業してから今日までずっとその影祓部隊に所属している。年齢は異例の二十三。刃物のように鋭いまなざしと墨で書いたように黒い髪が印象的な美丈夫だ。
花野の縁談相手が彼だった。
霧灯家とむかしでいう"影斬り"は密接な関係にある。闇に棲む怪――"影"は霊力を込めた刀でしか斬れない。その霊力は灯使と呼ばれる特定の血筋の女子しか持たない。
霧灯は帝国でもっとも強い霊力を持つ灯使の一族である。
そのため、軍人一家との縁談が持ちあがるのは不思議な話ではなかった。しかし――
"影祓部隊に嫁ぐなら 花嫁衣装をとっときな"
"どうせ二年で未亡人 また縁談が持ちあがる"
子供たちが戯れに歌うように、影祓部隊に所属する人間は二年以内に命を落とすか負傷して一線を引くのがふつうだった。
そのため、縁談を持ちかける側も受ける側もこれを長続きするものだとは思っていない。いわば思い出作り。死地に向かう男に、かりそめでもいい、妻を持たせてやりたいという親心によって繋がる縁でしかなかった。
とはいえ当然、未亡人になることをきらう女のほうが多い。
なので影祓部隊に嫁ぐ女は『くちなし』と相場が決まっていた。嫁にもらう口なし。あまりものの女が嫁がされるのである。
花野は霧灯家の長女であった。高い霊力を有する家の跡継ぎ。
本来なら婿をとるのが筋。仮に嫁にいくとしても、次男、それも影祓部隊の男に嫁ぐなど本人の耳に届く前にはねつけられるべき縁談のはずだった。
しかし、母は云う。「これを逃したらあなたをもらう殿方などおりませんよ」
妹は云う。「よかったわね。無能のおねえさまにも使い道があって」
花野はなにも云いかえさずに、まつげを伏せて白い頬に影を落とすと、ただ静かに縁談を受けた。
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不死身の男と無能の花嫁。
月岡と霧灯、帝都でも有数の名家の婚姻だけあってふたりの披露宴は華やかだったが、同時にどこか空疎であった。
花婿は剣士としての潔さをその涼し気な目元に宿し、まだ成熟していない樹々のようにしなやかで瑞々しい体躯をしている。日本男児ながら黒いタキシードがよく似合った。
隣にいる花嫁は青みがかかった黒い両の瞳を濡れたようにしっとりと輝せ、紅をさした形のよい唇をほころぶ前の花のようにふわりと結んでいる。白いウェディングドレスは十七歳の彼女の愛らしさと美しさを引きだしており、ふたりは作りものの人形のように見目麗しかった。
それは事情を知らない子供たちがつい見惚れてしまうほどだったというのに。
理由は口さがない大人たちがそこかしこでささやく話に関連していた。かれらはちらりちらりと主役ふたりに目をやり、ふたりが美しければ美しいぶんだけ下卑た笑みを見せる。
――影祓部隊で五年。海外でもこれは稀な記録だそうだ
――明日か、明後日か。もしくは今晩死ぬかもしれないな
――いやいや、あいつは死なないさ。なぜかって?
――"影"に同僚を差しだして生きのびているからさ……
べつのところでは着飾った娘たちがくすくす笑いあう。
――花野さん、お可哀想に。ご存じ? あの方はむかし霧灯家で一番の霊力を持っていらしたのよ
――でも夜に出歩いたせいで"影"に襲われて、霊力をすべて失ってしまわれて
――いまでは一族の恥
――夜に外を歩かないなんて小さな子供でも知っているのに。なにをされていたのかしらね……
そのささやき声は花野の耳にも入っていた。けれど彼女は眉ひとつ動かさない。もう何千回と言われてきたことだからだ。
それは隣の男も同様だった。凪は冷たい瞳で来賓たちを見るともなしに見ている。
退屈だ。横顔にそう書かれている気がして、花野は視線を白いテーブルクロスへともどした。皿の上の料理にはろくに手をつけていない。
帝都で最大のホテルでおこなわれた披露宴は西洋風であり、このあと花野は藍色のドレスに着替えることになっている。
けれどそれも来賓たちのつまらない噂の種になるのかと思うと、なるほど、退屈なことだった。
✿❀✿
こうして花野は月岡凪のもとに嫁いだ。
凪の住まいは借家であった。これだけでも彼が何年もここで暮らす――ここで生きるつもりがないことがわかる。
明治初期の西洋建築で見た目は立派な二階建て、バルコニーにポーチつき、けれど全体は木造で、壁のアクセントとなっている石積はよく見ると漆喰で塗られた模造なのだった。西洋人が見たら首をかしげるだろう。
けれど花野には住居など関心の外だった。凪も同じく。
披露宴を終えたばかりの新郎新婦はともに冷えた空気をまとっており、出迎えた使用人たちに怪訝な顔をさせた。
「――佳寿。彼女を部屋まで案内してくれ」
はい、と答えて一歩進みでたのは花野とそう年の変わらない少女であった。
くるくると渦を巻いた赤茶色の髪が印象的だ。地味ながら仕立てのいい着物を着た彼女は勝気そうな目で花野を値踏みすると、こちらへどうぞ、と笑顔を浮かべた。
「奥さまのお部屋はお二階にございます」
灰色の絨毯の上に書き物机と鏡台、ベッドが置かれただけの簡素な部屋だった。
「奥さまはお着物のほうが楽ではありませんか?」佳寿に問われ、ええ、と花野はうなずく。
衣装部屋から佳寿が着物を持ってくるまでの間、花野は部屋を眺めた。
とりあえず家具を置いただけだとわかる部屋――けれど、彼女には充分すぎるほどだった。実家では蔵に押しこめられていたから。
もうあの暗闇に怯えなくていい。
霧灯家の恥。穀潰し。血の繋がった母にそう罵られることもない。
そっと息をついていると佳寿がもどってきた。流水紋が描かれた薄萌黄色の着物を着つけてもらいながら、霧灯家からでられた喜びを花野は噛みしめたのだった。
けれどその夜――
彼女が感じた喜びは、期日があったことを知らされる。
✿❀✿
初夜。
一階にある凪の私室は和室だった。畳の上に三つ指をつく花野に、白いシャツと洋袴に着替えていた凪は云う。
「俺があなたを愛することはない」
花野は顔をあげる。凪は披露宴のときと同じ冷たいまなざしをしていた。
「知っているだろうが、影祓部隊とはいつ死んでもおかしくない危険な職だ。そんな中で愛する相手を持ってしまったら太刀が鈍る。上官の顔を立てるためこの縁談を受けたが……はっきり云う。あなたは俺にとって足手まといだ」
初夜に夫の部屋を訪れた妻に向けて放たれる、あまりにも冷酷な言葉。
けれど花野は野に咲く花が揺れるようにたおやかにうなずいた。
「かまいません。愛されないことには、慣れております」
凪はぴくりと眉をあげたが、それにはなにも云わずに「期日を決めよう」と云った。
「今日から三ヵ月。それだけ過ごせば最低限面目は立つし、それしかつづかなかったのなら俺のもとにこんなくだらない縁談は二度とこなくなる。来たとしても『夫婦生活などまっぴらだ』と断る口実ができる。あなたも今後のことを考えれば清い体のままのほうがいいだろう」
「…………」
「三ヵ月後に俺たちは離縁する。それでかまわないな」
「……はい」
「もうあなたに用はない。俺の邪魔さえしなければなにをしてもかまわないから、あとは自由にするといい」
花野はもう一度頭を垂れた。
この夜、夫婦の床入りはなかった。
それどころか話が済むなり凪は影祓部隊の詰め所へとでかけていったのである。
ひとりきりで部屋に帰り、さすがに佳寿に手伝ってもらうのはばつが悪くて、寝間着に着替えようと洋燈の光の中で自分で帯を解いた花野は襦袢の内側に赤い血がついていることに気がついてぎょっとする。
よくよく見るとそれは赤い絵の具でしかなかったが。
腰の下あたりを汚しているその偽りの血がどのような意図でつけられたのか、それを察して花野は鳥肌を立たせた。
寒々しい五月の夜のことだった。

