この運命、一蓮托生につき ~黒の過保護と白の執着~

 蓮はぼくを下ろすと、そっと後方に回った。

「……スイ先生」

 塔屋からはみ出しそうなほどの巨体が、その上に鎮座していた。
 片方しかない頭が、ゆっくりとこちらを向く。
 菫色の瞳が細められた。

「ぼくの話を、聞いてほしいんだ」

 喉の奥がひりついた。
 声が震えてしまったのは、冷たい雨に打たれ続けたせいだけじゃない。

 雨に濡れた白銀の体毛が、雷光に照らされて鈍く光った。
 鋭い牙の隙間から、低い唸り声が漏れる。

『……話って何。僕の嫌いなところでもご丁寧に教えてくれるのかい』

 スイ先生の声が、頭の中に直接響いてくる。
 皮肉めいた言葉に胸を突き刺された。

「違う! 嫌いなんかじゃ――」
『はっ……またそうやって』

 スイ先生が、伏せていた巨体をゆらりと起こした。

『君はいつもそうだ。優しくして、期待させて……最後には手酷く捨てていく』
「違っ――」
『違わない!』

 凄まじい咆哮が、屋上を震わせた。
 爆風のような風圧に押され、思わず足がよろめく。

 後方にいた蓮が、飛ばされそうになるぼくの肩を支えてくれた。

「……下がるか?」
「ううん」

 首を横に振る。
 いつまでも蓮の後ろに隠れたままでいたくなかった。

 ダァンッ!

 大きな前脚が、感情をぶつけるように塔屋を踏み鳴らした。

『僕は待ってたんだ……! ずっと、ずっと、ずっと』

 白銀の毛が逆立ち、牙が剥き出しになる。

『待ち続けてたんだよ! いつか君が迎えに来てくれるかもしれないって、それだけをよすがに……!』

 息を荒げながら、鋭い爪が塔屋のコンクリートをみしりと握り潰した。

『なのに来なかった! 僕たちは、今もここで置き去りにされたままだ!』
「……っ」

 悲痛な叫びに打ちのめされた。
 雨でびしょ濡れの頬を、熱いものが伝う。

 でも本当に泣きたいのはぼくじゃないからと、必死に溢れ出るものを拭った。

『――君たちはいいよね』

 スイ先生の声音が、すっと沈む。

『イニトは人間と遜色ないし、ネクスだって安定的に人型を保てるんだから』

 その言葉に、全身が強ばった。
 ぼくの肩を支える蓮の手に、力が込められる。

『それに比べて、失敗作はどう? 肉体へ混ぜ込まれて、人にもなれない。もう精霊にも戻れない』

 紫色の煙が大きく揺らいだ。

『君が施設を壊して消えた後。どこにも還れないまま生き続けなくてはいけなかった僕たちの気持ちが、分かるかい?』

 ――あぁ……違った。
 何も分かっていなかったのは、ぼくのほうだ。

 みんなを逃がして自由にしてあげたら、救えると思っていたんだ。
 壊される前に、あの場所から遠ざければいいのだと。

 何にも縛られず、自由に生きてほしいって、それで――。
 でも結局その先を、ぼくは見ようとしていなかったんだ。

「ごめん……!」

 全身が大きく震える。

「ぼく、怖かったんだ……。あ、あんなことがあって……大事なものが壊れていくのを見届け続けなければいけないことに、耐えられなくなった」

 両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。

「ぼくが痛いのはいいんだ……自分が我慢すればいいだけだから。でも、みんなが苦しむところを見るのは――」

 顔はぐちゃぐちゃで、もう雨と涙の区別もつかなかった。
 震える体を、蓮に抱き寄せられる。

 手の異様な震えは治まらない。
 けれど、どんなに怖くても、今こそちゃんと伝えないと――。

「今日元気でも、明日は崩れて処分されるかもしれない……きみの、お兄さんのように。だから、逃がしたんだ……蓮にも手伝ってもらって、みんなを外へ出した」

 蓮が静かに目を伏せた。

「でも、それで終わりだと思ってた……。外へ出れば、みんなは自由に生きられるようになるんだって、そう思って……」

 違ったのに。
 ぼくは、その後の苦しみから目を逸らした。

「……ごめん」

 絞り出した謝罪に、スイ先生は目の前までぐわりと迫ってきた。

『謝ってほしかったわけじゃない!』

 悲痛な叫びだった。

『僕は、君に忘れてほしくなかっただけだ……! 一緒にいたかっただけだよ!』
「……っ」

 心臓が、どくんと脈打つ。
 その言葉が、ぼくの心のいちばん奥深い場所に封じ込めていた記憶を揺さぶった。

『君にとってぼくと兄さんは特別なんだって、そう思ってた! なのに……っ』

 その切実な声に、いつも兄の後ろに隠れていた在りし日の小さな背中を思い出す。


 ――人間はね、生まれたら名前というものを付けるらしいんだ。
 ――ふうん? “イニト”もそうでしょ?
 ――……そうだね。まぁ、ぼくのあれは単に識別するためのものだろうけど。
 ――特別、だからだよ。きっと。
 ――……。それなら、ぼくにとってきみたち兄弟も“特別”な存在だよ。あ、そうだ。ぼくが名前を付けてあげる。


「特別だったよ……今だって」
『嘘だ!』
「……嘘じゃない」

 かつて名無しだった愛し子へ、小さく笑いかける。
 びくりと震えた大きな鼻先を、そっと撫でた。

「特別だからこそ、ぼくはきみと名前で呼び合いたいという、過ぎた願望を抱いてしまったのだから――」

 頬ずりをして、その名を口にする。
 それはごく自然と唇から零れ落ちた。

「――スウェイ」

 名を呼んだ瞬間、菫色の瞳が見開かれた。

『……っ』

 ああ、そうだ。ぼくがあげた名だ。

「スウェイ」

 もう一度、今度はもっとはっきりと呼ぶ。
 ぼろり、と大きな瞳から涙が零れ落ちた。

『やっと……呼んでくれたぁ……っ』
「……ごめんね。長い間、寂しい思いをさせて」
『そうだよ……また名前を呼んでもらえる日を、僕らずっと待って……っ』

 ぎゅっと巨体に腕を回し、その毛並みに顔を埋める。
 弱まってきた雨音に混じって、すすり泣く声が響いた。

「……きみも居るんだろう? ――ロウイ」

 頭の欠けた首元の方に顔を向けると、小さな緑色の煙がじゅわりと滲む。

『……イニト』
「もう完全に消滅したものだと……。本当に……また会えるだなんて……」
『……オレも。ずっと会いたかった』

 やがて巨大な狼の輪郭が少しずつ解けていき、スウェイが人型の姿に戻った。
 宙に、小さな緑色の光が蛍のように舞う。

「――唯一の幸運だったよ。彷徨う兄さんの欠片を見つけられたことは」

 手に止まった瞬く光を見つめて、スウェイが濡れた睫毛を震わせた。

「それでも僕の中にいるのがやっとで……。兄さんにはもう、形を保てるほどの力は残っていないんだ」

 ロウイの放つ緑色の光は、雨粒に溶けてしまいそうなほど弱々しいものだった。
 胸の奥が、きゅっと痛む。

「でも、こうして存在してる。――ちゃんと、ここにいる」

 言って指先を近づけると、ロウイはスウェイの手からぼくの手へと乗り移った。
 微かに温もりを感じる。

 不意に、スウェイがぼくの袖口を掴んだ。

「……僕たちもすぐに還らなきゃ、だめ?」

 どこか不安げな表情でこちらを見てくる。

「まだ離れたくない。もっと一緒にいたいよ。……せっかく思い出してもらえたのに」

 呼応するように、緑の光がふわりと揺れた。

 見た目に反して少し幼げな口調は、記憶の中の甘えん坊なスウェイそのままで。
 ぼくは微笑んで、そっとスウェイの頬に触れた。

「それなら、居たらいいじゃない。そばに」

 菫色の瞳が揺れる。

「いいの……?」
「もちろん」

 そう頷いた途端、スウェイにがばりと勢いよく抱き着かれてよろめいた。

「やった……! ずっと一緒だ!」
「おい、倒れたらどうすんだ」

 後ろで見守ってくれていた蓮が、スウェイの首根っこを掴んで引き剥がそうとする。

「……は? ネクスはお呼びでないよ」
「今は蓮だ」
「もうっ、ああ言えばこう言う……!」

 ぎゅうぎゅうとスウェイに抱き締められてよく見えないけど、スウェイと言い合いながらもどこか柔らかい気を纏う蓮に小さく笑った。

「今世はきみのほうが年上なんて、変な感じ。……これからもよろしくね、スイ先生?」

 冗談めかして言うと、腕を緩めたスウェイがはにかんだ。

「……そうだよ。これからもイニトの――拓実の健康は、僕が守るからね」
「お前が暴れたおかげでこの有様だけどな」
「こら! そういうこと言わないの」

 つんとそっぽを向いた蓮を軽く咎める。

 見上げれば、空を覆う闇はすっかり消えて、雷雲もいつの間にか遠ざかり始めていた。

「……でも、本当にごめんなさい。風邪を引いちゃったら僕のせいだ」
「それを言ったら、全員がびしょ濡れなんだから。そろそろ、戻ろうか」

 スウェイは小さく頷いて、ロウイの光に手を差し出した。

「そうだね。兄さん、そろそろ僕の中に戻らないと――」

 ぼくの手の平からふよふよと浮いたロウイを見つめて、ぼくは「あっ」と声をあげた。

「――ぼく、いいこと思いついたかも」
「え……?」

 きょとんとするスウェイに、ぼくは少しだけ笑ってみせた。