「グゥ……ァ……ッ」
スイ先生の唸り声が保健室に響く。
みるみる白銀の体毛に覆われていく肌が、びくりと痙攣した。
鋭い爪が胸を掻きむしり、そこから血が滲んでいく。
もしかして、苦しいの――?
「スイ先生、だめだ! そんなことしたら傷が……っ!」
そう投げかけると、先生はほんの一瞬だけ動きを止めた。
けれど、結局こちらを振り向いてくれることはなく。
そのまま、荒々しい手つきで掃き出し窓を開け放った。
「……っ!」
暴風と雨が一気に吹き込んできて、咄嗟に顔を腕で庇う。
窓枠ぎりぎりにまで膨れ上がった白銀の巨体が、校舎の外へ躍り出た。
「スイ先生!」
心臓が嫌な音を立てる。
急いで窓際へと駆け寄った。
スイ先生は両手を獣の前足のように使い、グラウンドの中央へと駆けて行く。
「うぅっ」
また――、またぼくは壊れるのを見ていることしかできないのだろうか。
逃げて、そうしてどうなった?
その結果が、これだ。
「だめだ! きみまで失うわけには――蓮!」
互いに顔を見合わせ、強く頷く。
「追うぞ」
「うんっ」
激しい雷雨が降りしきるなか、ぼくたちも校舎の外へと飛び出した。
出てすぐ、上から戸惑ったような声が降って来る。
「停電!?」
「今近くに雷落ちたよな」
「先生呼んで来い!」
見上げると、校舎全体が停電で真っ暗になっていた。
生徒たちの慌てふためく声が響く。
窓のそばに次々と人影が集まり始めていた。
「もしかして、みんなには見えてない……?」
生徒たちは空を見上げるばかりで、誰ひとりとしてスイ先生の異様な姿に目を向ける者はいない。
でも、そのほうがいいのかもしれない。
先生の後ろ姿は、もう人の形を成していなかった。
顔や体が完全に狼のそれとなって、肉が裂けるような音をたてながら更に膨張していく。
「グル……アァアッ……!」
苦しげな呻き声と共に、巨大な前脚が地面にめり込んだ。
グラウンドまで走りどうにか追いついたところで、その変わり果てた有様に絶句する。
「あ、頭が……」
頭の横に、もうひとつ首が形成されていった。
けれどその先の頭は、何かがつかえているかのように生えてこない。
「ウガウゥウッ!」
雷鳴が空の低いところを這うように轟く。
恐ろしい早さで煙がグラウンドの隅々まで到達して、景色が歪んだ。
「……っ!」
辺りが急に暗くなる。
まるで、一瞬で夜に移り変わったみたいだ。
強い雨足だけが変わらず、ぼくたちの体を打ち付けた。
校舎の輪郭が歪になり、窓の向こうにいた生徒たちの姿がぐにゃりと消えていく。
「切り離されたか」
蓮が辺りを見回しながら、ぼくを庇うように前へ立った。
深く息を吐きだすと、額から濡れた髪をかき上げ、低く前傾の姿勢をとる。
「蓮!」
「下がれ。今のあいつは自我が曖昧だ」
スイ先生だったもの――欠けた双頭の白狼が苦しげな咆哮を上げる度に、空気がびりびりと振動する。
正直、体がこれ以上震えないように立っているのが精いっぱいだった。
あの日の再来のようで……。
だめだ、苦しい。見ていられない。
でも、だからこそ――。
バギィン!
グラウンド脇のベンチが宙へ吹き飛んだ。
「――ッ!」
蓮が即座に反応して、飛来した金属片を蹴り砕く。
「スイ! 落ち着け!」
蓮が叫んでも、スイ先生には届かない。
暴走する紫色の煙に巻き上げられ、へしゃげたサッカーゴールや鉄棒が次々とぼくたちを襲った。
その度に蓮が弾き飛ばしていく。
「グガアァアアッ!」
すべてを防ぎきったところで、スイ先生が一層強い咆哮を放った。
その衝撃に、一帯の地面が揺れる。
衝撃波のようなそれは、雨粒を弾き飛ばしながら一直線に迫り来た。
「クソが……ッ!」
――ああっ、直撃する!
そう思い咄嗟に目を瞑った次の瞬間。
ぼくの鼓膜を別の咆哮が揺らした。
「蓮……!」
それは蓮の喉から放たれたものだった。
蓮の背中に金色の煙が揺らめいている。
先生とぼくたちの間で衝撃波が相殺されて、水蒸気のような爆発が巻き起こった。
「グ、アァア……!」
「このままじゃ埒が明かねぇな……」
蓮が肩で息をする。
どうしよう、このままでは消耗戦になってしまう……。
「ぼくが止めなきゃ……。今度こそ」
笑いそうになる膝を叱咤して、一歩踏み出す。
「ばか、下がれ!」
スイ先生が小さく呻いて、警戒するような構えをとる。
すると、欠けた首が痙攣するように震えた。
「スイ先生!?」
何事かと凝視すると、欠けた首元が、微かに緑色の煙を帯びる。
突如、頭の中へ直接流れ込んでくるように、かつての懐かしい声が響いた。
『イ、ニト……すまん……。こいつ、俺の欠片を……取り込んじまった、ばっかりに……』
「まさか、きみは……!」
――なんてことだろう。
蓮の方を見やると、見開かれた金の瞳と目が合った。
「ガウゥッ……に、さんは……黙って、いて……グゥッ」
スイ先生が鋭い牙をむいて唸る。
巨体をよろめかせながらも、前足で地面を強く蹴った。
こちらへ攻撃してくるつもりなのかと、思わず身構える。
けれど予想に反し、スイ先生は身を翻すと逃げるように校舎の方へ駆けて行った。
「待って!」
外壁に爪を突き立て、物凄い速さで駆け上がっていく。
紫色の煙が尾を引いて、窓ガラスが次々と砕け散っていった。
きっと屋上へ行くつもりなんだ。
「スイ!」
蓮が舌打ちして、先生の後を目で追った。
すぐに駆け出そうにも、その顔には滅多に見せることのない疲労が滲んでいる。
だいぶ消耗してる……。
「……急ぐぞ」
「うん……。でも、その前に――蓮、こっちに来て」
「……?」
蓮の濡れたうなじに、そっと触れる。
察した蓮が、ぼくの背丈に合わせて身を屈めた。
ふっと息を吹き込むと、淡い水色の光がうなじから蓮の体へ浸透していく。
光はやがて金色に変わると、蓮を覆うように満ち満ちた。
雨で冷え切った肌が、かっと熱く脈打つ。
「……上々だ」
確かめるように手を握り締めた蓮が、ぼくを背負い上げた。
「うわっ」
「一気に行く。しっかり掴まってろ」
ドンッ!
返事をするより速く、体へ強い衝撃がきて目を丸くした。
気づくと、もう校舎の前まで来ている。
「……舌を噛むなよ」
雷光に照らされて、校舎の外壁に黒く大きな影が揺らめいた。
振り落とされないよう、蓮の首元にしがみつく。
蓮の影もまた、狼のような形をしていた。
猛烈な雨風が頬を叩くなか、空気を切り裂くように勢いよく壁を駆け上がっていく。
そして――。
屋上へ辿り着いたぼくたちは、塔屋の上を見上げる。
土砂降りの雷雲を背にして、スイ先生はそこにいた。
「お願いだよ――ぼくと今一度、話をしよう」
ぼくは痛む胸に手を当てながら、勇気を出して一歩、踏み出した。
スイ先生の唸り声が保健室に響く。
みるみる白銀の体毛に覆われていく肌が、びくりと痙攣した。
鋭い爪が胸を掻きむしり、そこから血が滲んでいく。
もしかして、苦しいの――?
「スイ先生、だめだ! そんなことしたら傷が……っ!」
そう投げかけると、先生はほんの一瞬だけ動きを止めた。
けれど、結局こちらを振り向いてくれることはなく。
そのまま、荒々しい手つきで掃き出し窓を開け放った。
「……っ!」
暴風と雨が一気に吹き込んできて、咄嗟に顔を腕で庇う。
窓枠ぎりぎりにまで膨れ上がった白銀の巨体が、校舎の外へ躍り出た。
「スイ先生!」
心臓が嫌な音を立てる。
急いで窓際へと駆け寄った。
スイ先生は両手を獣の前足のように使い、グラウンドの中央へと駆けて行く。
「うぅっ」
また――、またぼくは壊れるのを見ていることしかできないのだろうか。
逃げて、そうしてどうなった?
その結果が、これだ。
「だめだ! きみまで失うわけには――蓮!」
互いに顔を見合わせ、強く頷く。
「追うぞ」
「うんっ」
激しい雷雨が降りしきるなか、ぼくたちも校舎の外へと飛び出した。
出てすぐ、上から戸惑ったような声が降って来る。
「停電!?」
「今近くに雷落ちたよな」
「先生呼んで来い!」
見上げると、校舎全体が停電で真っ暗になっていた。
生徒たちの慌てふためく声が響く。
窓のそばに次々と人影が集まり始めていた。
「もしかして、みんなには見えてない……?」
生徒たちは空を見上げるばかりで、誰ひとりとしてスイ先生の異様な姿に目を向ける者はいない。
でも、そのほうがいいのかもしれない。
先生の後ろ姿は、もう人の形を成していなかった。
顔や体が完全に狼のそれとなって、肉が裂けるような音をたてながら更に膨張していく。
「グル……アァアッ……!」
苦しげな呻き声と共に、巨大な前脚が地面にめり込んだ。
グラウンドまで走りどうにか追いついたところで、その変わり果てた有様に絶句する。
「あ、頭が……」
頭の横に、もうひとつ首が形成されていった。
けれどその先の頭は、何かがつかえているかのように生えてこない。
「ウガウゥウッ!」
雷鳴が空の低いところを這うように轟く。
恐ろしい早さで煙がグラウンドの隅々まで到達して、景色が歪んだ。
「……っ!」
辺りが急に暗くなる。
まるで、一瞬で夜に移り変わったみたいだ。
強い雨足だけが変わらず、ぼくたちの体を打ち付けた。
校舎の輪郭が歪になり、窓の向こうにいた生徒たちの姿がぐにゃりと消えていく。
「切り離されたか」
蓮が辺りを見回しながら、ぼくを庇うように前へ立った。
深く息を吐きだすと、額から濡れた髪をかき上げ、低く前傾の姿勢をとる。
「蓮!」
「下がれ。今のあいつは自我が曖昧だ」
スイ先生だったもの――欠けた双頭の白狼が苦しげな咆哮を上げる度に、空気がびりびりと振動する。
正直、体がこれ以上震えないように立っているのが精いっぱいだった。
あの日の再来のようで……。
だめだ、苦しい。見ていられない。
でも、だからこそ――。
バギィン!
グラウンド脇のベンチが宙へ吹き飛んだ。
「――ッ!」
蓮が即座に反応して、飛来した金属片を蹴り砕く。
「スイ! 落ち着け!」
蓮が叫んでも、スイ先生には届かない。
暴走する紫色の煙に巻き上げられ、へしゃげたサッカーゴールや鉄棒が次々とぼくたちを襲った。
その度に蓮が弾き飛ばしていく。
「グガアァアアッ!」
すべてを防ぎきったところで、スイ先生が一層強い咆哮を放った。
その衝撃に、一帯の地面が揺れる。
衝撃波のようなそれは、雨粒を弾き飛ばしながら一直線に迫り来た。
「クソが……ッ!」
――ああっ、直撃する!
そう思い咄嗟に目を瞑った次の瞬間。
ぼくの鼓膜を別の咆哮が揺らした。
「蓮……!」
それは蓮の喉から放たれたものだった。
蓮の背中に金色の煙が揺らめいている。
先生とぼくたちの間で衝撃波が相殺されて、水蒸気のような爆発が巻き起こった。
「グ、アァア……!」
「このままじゃ埒が明かねぇな……」
蓮が肩で息をする。
どうしよう、このままでは消耗戦になってしまう……。
「ぼくが止めなきゃ……。今度こそ」
笑いそうになる膝を叱咤して、一歩踏み出す。
「ばか、下がれ!」
スイ先生が小さく呻いて、警戒するような構えをとる。
すると、欠けた首が痙攣するように震えた。
「スイ先生!?」
何事かと凝視すると、欠けた首元が、微かに緑色の煙を帯びる。
突如、頭の中へ直接流れ込んでくるように、かつての懐かしい声が響いた。
『イ、ニト……すまん……。こいつ、俺の欠片を……取り込んじまった、ばっかりに……』
「まさか、きみは……!」
――なんてことだろう。
蓮の方を見やると、見開かれた金の瞳と目が合った。
「ガウゥッ……に、さんは……黙って、いて……グゥッ」
スイ先生が鋭い牙をむいて唸る。
巨体をよろめかせながらも、前足で地面を強く蹴った。
こちらへ攻撃してくるつもりなのかと、思わず身構える。
けれど予想に反し、スイ先生は身を翻すと逃げるように校舎の方へ駆けて行った。
「待って!」
外壁に爪を突き立て、物凄い速さで駆け上がっていく。
紫色の煙が尾を引いて、窓ガラスが次々と砕け散っていった。
きっと屋上へ行くつもりなんだ。
「スイ!」
蓮が舌打ちして、先生の後を目で追った。
すぐに駆け出そうにも、その顔には滅多に見せることのない疲労が滲んでいる。
だいぶ消耗してる……。
「……急ぐぞ」
「うん……。でも、その前に――蓮、こっちに来て」
「……?」
蓮の濡れたうなじに、そっと触れる。
察した蓮が、ぼくの背丈に合わせて身を屈めた。
ふっと息を吹き込むと、淡い水色の光がうなじから蓮の体へ浸透していく。
光はやがて金色に変わると、蓮を覆うように満ち満ちた。
雨で冷え切った肌が、かっと熱く脈打つ。
「……上々だ」
確かめるように手を握り締めた蓮が、ぼくを背負い上げた。
「うわっ」
「一気に行く。しっかり掴まってろ」
ドンッ!
返事をするより速く、体へ強い衝撃がきて目を丸くした。
気づくと、もう校舎の前まで来ている。
「……舌を噛むなよ」
雷光に照らされて、校舎の外壁に黒く大きな影が揺らめいた。
振り落とされないよう、蓮の首元にしがみつく。
蓮の影もまた、狼のような形をしていた。
猛烈な雨風が頬を叩くなか、空気を切り裂くように勢いよく壁を駆け上がっていく。
そして――。
屋上へ辿り着いたぼくたちは、塔屋の上を見上げる。
土砂降りの雷雲を背にして、スイ先生はそこにいた。
「お願いだよ――ぼくと今一度、話をしよう」
ぼくは痛む胸に手を当てながら、勇気を出して一歩、踏み出した。

