翌日のスイ先生による診察は、昼休みに行われた。
廊下でばったり会って、ぼくの顔を見るなりものすごい勢いで近づいて来た先生に連行されてしまったのだ。
「まったくもう、青白い顔しちゃって……。昨日は本当にすぐ休んだの?」
スイ先生が呆れた声を出す。
「ちゃんと休みましたよ!」
蓮は学食を出たところで用務員のおじさんに連れ去られてしまい、珍しく不在だった。
近頃はスイ先生と遭遇しても火花を散らさなくなったし、そんなにうるさく言うことはない――はず。
「お昼ご飯はちゃんと食べた?」
「あ、はい。一応」
言った瞬間、しまったと思う。
「一応……? 拓実君」
笑顔で名前を呼ばれて、さっと目を逸らす。
「ちゃんと食べては、いますから」
ただ、食欲がちょっとついてこないだけで……。
朝食のときも妙に箸が重く感じられて、少量しか食べられなかった。
「ちなみに何を食べたの」
「えっと、オニオンスープです……」
先生が眉尻を下げた。
「たったそれだけ? 疲れで胃腸が弱ってる証拠だよ」
体温を確認するためか、先生の手がぼくの額へ伸ばされた。
その手を目で追って、ある異変に気付く。
「あの、先生」
「炭水化物も摂ってほしいところだけど……。せめてミネストローネとかにして、もう少しお野菜摂ろうか」
「スイ先生!」
ぼくが手首をぐいと掴んだものだから、先生は目を丸くした。
「これ、どうしたんですか」
「え? ……あ」
先生の左手に貼られた絆創膏の端から、まだ真新しい傷がのぞいていた。
「大したものじゃないよ。ちょっと物で引っ掛いちゃって――」
今度は、先生の方が目を逸らす番だった。
「噛み痕ですよね。それ」
「……っ!」
先生の肩がびくりとして、ああやっぱりそうなのだな、と思う。
ぼくの中には、妙に確信めいたものがあった。
「前から薄々気にはなってたんです……。先生、左手で口元を覆う癖があるでしょう?」
「そ、れは……」
珍しく、先生のほうがたじたじしている。
「見せてください」
掴んだ手の絆創膏を剥がすと、痛々しい歯形の傷がくっきりとついていた。
「もしかして、これまでにも同じ所を噛んでるんじゃないですか。ここ――ケロイドになってる」
生々しい傷の下の肌は少し引き攣れて、ケロイド状の痕が残ってしまっている。
一度物に引っ掛けたくらいで、こうはならないだろう。
「……君には、関係ないだろ」
顔を逸らしてそう言われ、胸がつきりと痛む。
どうして先生に少し拒絶されたくらいで、こんな気持ちになるんだろう。
ぼくなんか、距離感に戸惑って先生を遠ざけてしまったこと、何度もあるのに……。
先生も、ぼくに対して同じ痛みを感じていたのだろうか。
なんだか無性に悲しくなった。
「だめです。今すぐ治さなきゃ」
「ち、ちょっと……!」
少々強引ではあるが、引っ込めようとする手を両手で掴み直す。
体はごく自然に動いていた。
「あぁほら、またこんなにして……」
早く痛みを取ってあげないと。
半ば無意識に口元まで引き寄せると、傷口へそっと息を吹きかける。
淡い水色の光が傷口をふわりと覆い、じゅくりとした所は瘡蓋ができるように塞がった。
「こら。直に噛んだらだめだって、いつも言ってるじゃないか」
「ぁ……」
ぼくを見つめるスイ先生の唇が、小さくわなないた。
「抑えられなくなったら、どうする約束だった?」
「布を……間に、噛ませる……」
「そう。ちゃんと分ってるじゃないか」
頭をひと撫でしてから、席を立つ。
「清潔な布は、と……」
辺りを見渡して棚の中に見つけ、取って戻る。
「包帯なら、ここ、に……」
おずおずと差し出された包帯を微笑んで受け取ると、噛み痕へそっと巻いた。
「――よし、できた。いい子だね」
いつものように頬を撫でてやると、菫色の瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「イニト……?」
「なんだい。どうしたの……よしよし、泣かないで。また強く噛みすぎちゃったかな、痛かったね」
ぎゅっと抱きしめると、震える腕が背中に回された。
宥めるように背中をさすってやると、苦しいくらい抱きしめ返してくる。
「うぁ……ど……して……っ」
「ん? どうしてって、それは――」
甘えん坊のきみを放っておけるわけないでしょう?
「あ、れ……? どうして、そう思ったんだっけ……ぼくは……」
はっとして、腕の中であどけない顔をして涙を流すスイ先生を見やる。
「スイ先生……」
「あぁ……また、そうやって優しくして……。ひどいよ、イニト……っ」
涙を流す先生に、胸をどんどんと叩かれる。
ぼく、今確かに――。
「先生。正直、今までは全然分からなかったけど……。ぼくの中に、先生の存在が確かにあるみたいだ」
「……っ」
先生がぼくを押しのけようとするのも構わず抱きしめ直すと、やがて先生はしがみつくようにして泣きじゃくった。
「うあぁあ……っ」
震える背中をさすって、目を閉じる。
「でも、まだ記憶が不完全なんだ……ごめんね」
――どれほどの間、そうしていただろう。
昼休みの終了目前を告げるチャイムが鳴った。
すっかり泣き腫らした先生が、恥ずかしそうに身じろぎをして離れた。
「授業、始まっちゃうね……。ごめん、情けない姿を見せっちゃったな」
苦笑するスイ先生に、首を横に振った。
「……また、明日も来ますね」
「うん、待ってるね……。無理せずに体を休めるんだよ」
いつもの先生らしい振る舞いに戻ったスイ先生が、小さく手を振る。
保健室を出ると、ちょうど蓮が廊下の向こうからやって来るところだった。
「あ、蓮。用務員のおじさんの頼み事は済んだの?」
聞くと、蓮は頷いた。
「時間が掛かって、迎えに来るの遅れた」
くすりと笑って隣に並ぶ。
前に手伝いをして以降、蓮は力持ち要員としてすっかり頼りにされていた。
「今日は昼に診てもらったのか」
「うん。たまたま廊下で会って」
教室へ向かいながら、ぽつりと呟いた。
「ねえ、蓮。……スイ先生も、やっぱり縁のある人なんだね」
「……思い出したのか」
「少しだけ。……形のないあの子たちと同じように、共に過ごしていたんだなって」
ぼくがそう答えると、蓮はただ「そうか」とだけ言った。
教室に入る少し前。
蓮がおもむろにぼくの頭に手を置いた。
「……お前のペースでいい」
「わ、ちょっと」
わしゃわしゃと雑に髪を撫でられ抗議しようとしたけど、珍しく口元に笑みを浮かべていたので、言うのはやめた。
乱れた髪を整えながら、教室へ入る。
なんだか心がじんわり温かくなって、ぼくも小さく笑った。
けれど、その日の夜――。
「うぅ……やめて……嫌だ……」
両脇を抱えられ、無理やり歩かされながら、ぼくはその部屋に押し込まれた。
ジャララッ。
鎖と石が擦れる。
入って左の壁にある格子窓から、月の青白い光が射し込んでいた。
冷たい石床が、裸足の裏から体温を奪っていく。
ぐいぐいと中へ引きずられていく体を捩って室内を見やった。
(またこの独房で……ぼくは過ごさねばならないの?)
急に体の支えを失ったことで、軽くよろめく。
両脇を抱えていた者たちが退室して、ぼくはひとりぼっちになった。
ふと、奥の壁に一枚の鏡があることに気づいた。
ヒタヒタと足を進め、鏡の前に立つ。
「ぁ……」
そこには、血の気がない真っ白な“ぼくの顔”が驚愕の表情で映っていた。
認識した途端、恐怖心が増して力なく後退る。
キィィンッ。
「うっ……」
ひどい耳鳴りがして、その場にうずくまる。
こめかみを押さえて震えていると、突如がしりと腕を掴まれた。
「こっちへ来て座りなさい」
右の壁の扉から、白衣を着た女が一人現れた。
壁の一部が回転して、枷付きの椅子が出現する。
女はぼくをそこに無理やり座らせようとした。
手には注射器が握られている。
「……嫌だ! 嫌だっ! 離して!」
壁の向こう側に複数の気配がする。――見られている。
きっと、ぼくのことを観察しているんだ。
「大人しくしなさい」
「嫌だ! それ何の薬っ、打ちたくない!」
激しく抵抗したけど、ものすごい力で押さえつけられて椅子に座らされた。
掴まれた左腕以外は手枷にがっちりと固定されて、身動きが取れない。
「あなたはこれを打つの!」
とにかく打たれまいと四肢を動かして暴れた。ガシャガシャと金属の音が響く。
――怖い、何か得体の知れないものが体内に入ってくる。嫌だ。
「いやっ! やめて、お願い……っ。打たないで……!」
抵抗も虚しく、針が迫ってくる。
――ズブリ。
女は満足気な笑みを浮かべ、謎の液体を注入した。
針が刺さる痛みを、注入される違和感をありありと感じて絶望する。
あぁ……入ってしまった。
「素晴らしい……。やはりあなたは唯一にして最高の完全適合体――」
大勢の白衣を纏った者たちに囲まれた。
意識が遠のいていく。
ぼくは、どうなってしまうんだろう……。
体内に入ってきたものが蠢いて、そして一部になっていく――。
はっとして目を覚ますと、芝生の上に横座りしていた。
手には畳みかけのタオルケット。
頭上からは、柔らかな木漏れ日が降り注いでいた。
気持ち良くて、うっかりうたた寝をしてしまったみたいだ。
向こうの方で、きゃっきゃと遊ぶふたりの姿を見つけて微笑んだ。
「よかった……夢か」
辛い頃を思い出してしまったな、と胸元を撫でさする。
タオルケットを手早く畳み終わり、草を払って立ち上がろうとした――その時だった。
『兄さん!』
突如、叫び声が聞こえてふたりの方を見やった。
『イニト……! どうしよう、兄さんがっ』
『フーッ、フーッ』
「そんな……どうしてきみがっ」
これまでは安定していたじゃないか……!
すぐさま駆け寄ろうとするが、前傾姿勢で牙をむいて威嚇されてしまった。
『だ、めだ……近づくな……っ』
衝動を抑えようとしてか、必死に自身の腕を噛んでいる。
小麦色の頬が、ずるりと溶けた。
『グウルァ……』
人としての形がどんどん曖昧になり、やがて姿勢も四つん這いになる。
みるみる獣型へと変容していく姿に絶句した。
『兄さん……!』
「いけない、それ以上近づいてはだめだ!」
咄嗟に手を伸ばして抱え込み、回避する。
すぐそばで轟音と共に土煙があがった。
「思い出して! 落ち着くんだ、大事な弟だろう!?」
『ガルアァアッ!』
完全に自我を失っている。
肌がひりつく程の大きな咆哮を浴びて目を瞑ると、低い声が降ってきた。
「……悪い。巡回行ってた」
「ネクス! どうしよう。こんなに酷い発作が起きたら、もう――」
ネクスは口を開かず、ぼくの肩に手を置いてから背中を向けた。
「……鎮圧を開始する」
――嫌だ。見たくない。
キィィンッ。
「ううっ……」
また強い耳鳴りによろめいて、足元がぐらりと揺れた。
一瞬で視界が闇に染まっていく。
ジャララッ。
気付いた時には、松明に照らされて蠢いている複数の影を追っていた。
耳の中に鎖の音が響いて離れない。
「お願い、待って……! きみが居なくなったら、ぼくは……!」
ジャラララッ。
必死に手を伸ばすが、届かない。
「お願い、待って……!」
辛うじて人の形を取り戻した彼が振り返り、小さく笑った。
『イニト。あいつのこと、頼んだぞ……』
――嫌だ。この先は見たくない。
「行ったらだめだ!」
もう――もう、たくさんだ。
「あぁあああっ!」
「なんだ、蒼井!? どうした、しっかりしろ!」
「うあぁあああっ!」
嫌だ、もう嫌だ。耐えられない。
「拓実ッ!」
「黒切! 蒼井のやつ、突然叫び出して――」
誰かに、つよく両肩を掴まれた。
「嫌だっ、離せ!」
反射的に振り払おうとするが解けない。
「拓実! しっかりしろ!」
「どうしてぼくたちはあんな惨いことをされなくちゃならなかったんだ!」
「おい、拓実! ……っ、イニト!」
名を呼ばれてびくりとする。
「だめだ……」
熱いものが頬を伝った。
「ネクス……。やつらに縛られるのは、ぼくたちだけでよかったんだ」
廊下でばったり会って、ぼくの顔を見るなりものすごい勢いで近づいて来た先生に連行されてしまったのだ。
「まったくもう、青白い顔しちゃって……。昨日は本当にすぐ休んだの?」
スイ先生が呆れた声を出す。
「ちゃんと休みましたよ!」
蓮は学食を出たところで用務員のおじさんに連れ去られてしまい、珍しく不在だった。
近頃はスイ先生と遭遇しても火花を散らさなくなったし、そんなにうるさく言うことはない――はず。
「お昼ご飯はちゃんと食べた?」
「あ、はい。一応」
言った瞬間、しまったと思う。
「一応……? 拓実君」
笑顔で名前を呼ばれて、さっと目を逸らす。
「ちゃんと食べては、いますから」
ただ、食欲がちょっとついてこないだけで……。
朝食のときも妙に箸が重く感じられて、少量しか食べられなかった。
「ちなみに何を食べたの」
「えっと、オニオンスープです……」
先生が眉尻を下げた。
「たったそれだけ? 疲れで胃腸が弱ってる証拠だよ」
体温を確認するためか、先生の手がぼくの額へ伸ばされた。
その手を目で追って、ある異変に気付く。
「あの、先生」
「炭水化物も摂ってほしいところだけど……。せめてミネストローネとかにして、もう少しお野菜摂ろうか」
「スイ先生!」
ぼくが手首をぐいと掴んだものだから、先生は目を丸くした。
「これ、どうしたんですか」
「え? ……あ」
先生の左手に貼られた絆創膏の端から、まだ真新しい傷がのぞいていた。
「大したものじゃないよ。ちょっと物で引っ掛いちゃって――」
今度は、先生の方が目を逸らす番だった。
「噛み痕ですよね。それ」
「……っ!」
先生の肩がびくりとして、ああやっぱりそうなのだな、と思う。
ぼくの中には、妙に確信めいたものがあった。
「前から薄々気にはなってたんです……。先生、左手で口元を覆う癖があるでしょう?」
「そ、れは……」
珍しく、先生のほうがたじたじしている。
「見せてください」
掴んだ手の絆創膏を剥がすと、痛々しい歯形の傷がくっきりとついていた。
「もしかして、これまでにも同じ所を噛んでるんじゃないですか。ここ――ケロイドになってる」
生々しい傷の下の肌は少し引き攣れて、ケロイド状の痕が残ってしまっている。
一度物に引っ掛けたくらいで、こうはならないだろう。
「……君には、関係ないだろ」
顔を逸らしてそう言われ、胸がつきりと痛む。
どうして先生に少し拒絶されたくらいで、こんな気持ちになるんだろう。
ぼくなんか、距離感に戸惑って先生を遠ざけてしまったこと、何度もあるのに……。
先生も、ぼくに対して同じ痛みを感じていたのだろうか。
なんだか無性に悲しくなった。
「だめです。今すぐ治さなきゃ」
「ち、ちょっと……!」
少々強引ではあるが、引っ込めようとする手を両手で掴み直す。
体はごく自然に動いていた。
「あぁほら、またこんなにして……」
早く痛みを取ってあげないと。
半ば無意識に口元まで引き寄せると、傷口へそっと息を吹きかける。
淡い水色の光が傷口をふわりと覆い、じゅくりとした所は瘡蓋ができるように塞がった。
「こら。直に噛んだらだめだって、いつも言ってるじゃないか」
「ぁ……」
ぼくを見つめるスイ先生の唇が、小さくわなないた。
「抑えられなくなったら、どうする約束だった?」
「布を……間に、噛ませる……」
「そう。ちゃんと分ってるじゃないか」
頭をひと撫でしてから、席を立つ。
「清潔な布は、と……」
辺りを見渡して棚の中に見つけ、取って戻る。
「包帯なら、ここ、に……」
おずおずと差し出された包帯を微笑んで受け取ると、噛み痕へそっと巻いた。
「――よし、できた。いい子だね」
いつものように頬を撫でてやると、菫色の瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「イニト……?」
「なんだい。どうしたの……よしよし、泣かないで。また強く噛みすぎちゃったかな、痛かったね」
ぎゅっと抱きしめると、震える腕が背中に回された。
宥めるように背中をさすってやると、苦しいくらい抱きしめ返してくる。
「うぁ……ど……して……っ」
「ん? どうしてって、それは――」
甘えん坊のきみを放っておけるわけないでしょう?
「あ、れ……? どうして、そう思ったんだっけ……ぼくは……」
はっとして、腕の中であどけない顔をして涙を流すスイ先生を見やる。
「スイ先生……」
「あぁ……また、そうやって優しくして……。ひどいよ、イニト……っ」
涙を流す先生に、胸をどんどんと叩かれる。
ぼく、今確かに――。
「先生。正直、今までは全然分からなかったけど……。ぼくの中に、先生の存在が確かにあるみたいだ」
「……っ」
先生がぼくを押しのけようとするのも構わず抱きしめ直すと、やがて先生はしがみつくようにして泣きじゃくった。
「うあぁあ……っ」
震える背中をさすって、目を閉じる。
「でも、まだ記憶が不完全なんだ……ごめんね」
――どれほどの間、そうしていただろう。
昼休みの終了目前を告げるチャイムが鳴った。
すっかり泣き腫らした先生が、恥ずかしそうに身じろぎをして離れた。
「授業、始まっちゃうね……。ごめん、情けない姿を見せっちゃったな」
苦笑するスイ先生に、首を横に振った。
「……また、明日も来ますね」
「うん、待ってるね……。無理せずに体を休めるんだよ」
いつもの先生らしい振る舞いに戻ったスイ先生が、小さく手を振る。
保健室を出ると、ちょうど蓮が廊下の向こうからやって来るところだった。
「あ、蓮。用務員のおじさんの頼み事は済んだの?」
聞くと、蓮は頷いた。
「時間が掛かって、迎えに来るの遅れた」
くすりと笑って隣に並ぶ。
前に手伝いをして以降、蓮は力持ち要員としてすっかり頼りにされていた。
「今日は昼に診てもらったのか」
「うん。たまたま廊下で会って」
教室へ向かいながら、ぽつりと呟いた。
「ねえ、蓮。……スイ先生も、やっぱり縁のある人なんだね」
「……思い出したのか」
「少しだけ。……形のないあの子たちと同じように、共に過ごしていたんだなって」
ぼくがそう答えると、蓮はただ「そうか」とだけ言った。
教室に入る少し前。
蓮がおもむろにぼくの頭に手を置いた。
「……お前のペースでいい」
「わ、ちょっと」
わしゃわしゃと雑に髪を撫でられ抗議しようとしたけど、珍しく口元に笑みを浮かべていたので、言うのはやめた。
乱れた髪を整えながら、教室へ入る。
なんだか心がじんわり温かくなって、ぼくも小さく笑った。
けれど、その日の夜――。
「うぅ……やめて……嫌だ……」
両脇を抱えられ、無理やり歩かされながら、ぼくはその部屋に押し込まれた。
ジャララッ。
鎖と石が擦れる。
入って左の壁にある格子窓から、月の青白い光が射し込んでいた。
冷たい石床が、裸足の裏から体温を奪っていく。
ぐいぐいと中へ引きずられていく体を捩って室内を見やった。
(またこの独房で……ぼくは過ごさねばならないの?)
急に体の支えを失ったことで、軽くよろめく。
両脇を抱えていた者たちが退室して、ぼくはひとりぼっちになった。
ふと、奥の壁に一枚の鏡があることに気づいた。
ヒタヒタと足を進め、鏡の前に立つ。
「ぁ……」
そこには、血の気がない真っ白な“ぼくの顔”が驚愕の表情で映っていた。
認識した途端、恐怖心が増して力なく後退る。
キィィンッ。
「うっ……」
ひどい耳鳴りがして、その場にうずくまる。
こめかみを押さえて震えていると、突如がしりと腕を掴まれた。
「こっちへ来て座りなさい」
右の壁の扉から、白衣を着た女が一人現れた。
壁の一部が回転して、枷付きの椅子が出現する。
女はぼくをそこに無理やり座らせようとした。
手には注射器が握られている。
「……嫌だ! 嫌だっ! 離して!」
壁の向こう側に複数の気配がする。――見られている。
きっと、ぼくのことを観察しているんだ。
「大人しくしなさい」
「嫌だ! それ何の薬っ、打ちたくない!」
激しく抵抗したけど、ものすごい力で押さえつけられて椅子に座らされた。
掴まれた左腕以外は手枷にがっちりと固定されて、身動きが取れない。
「あなたはこれを打つの!」
とにかく打たれまいと四肢を動かして暴れた。ガシャガシャと金属の音が響く。
――怖い、何か得体の知れないものが体内に入ってくる。嫌だ。
「いやっ! やめて、お願い……っ。打たないで……!」
抵抗も虚しく、針が迫ってくる。
――ズブリ。
女は満足気な笑みを浮かべ、謎の液体を注入した。
針が刺さる痛みを、注入される違和感をありありと感じて絶望する。
あぁ……入ってしまった。
「素晴らしい……。やはりあなたは唯一にして最高の完全適合体――」
大勢の白衣を纏った者たちに囲まれた。
意識が遠のいていく。
ぼくは、どうなってしまうんだろう……。
体内に入ってきたものが蠢いて、そして一部になっていく――。
はっとして目を覚ますと、芝生の上に横座りしていた。
手には畳みかけのタオルケット。
頭上からは、柔らかな木漏れ日が降り注いでいた。
気持ち良くて、うっかりうたた寝をしてしまったみたいだ。
向こうの方で、きゃっきゃと遊ぶふたりの姿を見つけて微笑んだ。
「よかった……夢か」
辛い頃を思い出してしまったな、と胸元を撫でさする。
タオルケットを手早く畳み終わり、草を払って立ち上がろうとした――その時だった。
『兄さん!』
突如、叫び声が聞こえてふたりの方を見やった。
『イニト……! どうしよう、兄さんがっ』
『フーッ、フーッ』
「そんな……どうしてきみがっ」
これまでは安定していたじゃないか……!
すぐさま駆け寄ろうとするが、前傾姿勢で牙をむいて威嚇されてしまった。
『だ、めだ……近づくな……っ』
衝動を抑えようとしてか、必死に自身の腕を噛んでいる。
小麦色の頬が、ずるりと溶けた。
『グウルァ……』
人としての形がどんどん曖昧になり、やがて姿勢も四つん這いになる。
みるみる獣型へと変容していく姿に絶句した。
『兄さん……!』
「いけない、それ以上近づいてはだめだ!」
咄嗟に手を伸ばして抱え込み、回避する。
すぐそばで轟音と共に土煙があがった。
「思い出して! 落ち着くんだ、大事な弟だろう!?」
『ガルアァアッ!』
完全に自我を失っている。
肌がひりつく程の大きな咆哮を浴びて目を瞑ると、低い声が降ってきた。
「……悪い。巡回行ってた」
「ネクス! どうしよう。こんなに酷い発作が起きたら、もう――」
ネクスは口を開かず、ぼくの肩に手を置いてから背中を向けた。
「……鎮圧を開始する」
――嫌だ。見たくない。
キィィンッ。
「ううっ……」
また強い耳鳴りによろめいて、足元がぐらりと揺れた。
一瞬で視界が闇に染まっていく。
ジャララッ。
気付いた時には、松明に照らされて蠢いている複数の影を追っていた。
耳の中に鎖の音が響いて離れない。
「お願い、待って……! きみが居なくなったら、ぼくは……!」
ジャラララッ。
必死に手を伸ばすが、届かない。
「お願い、待って……!」
辛うじて人の形を取り戻した彼が振り返り、小さく笑った。
『イニト。あいつのこと、頼んだぞ……』
――嫌だ。この先は見たくない。
「行ったらだめだ!」
もう――もう、たくさんだ。
「あぁあああっ!」
「なんだ、蒼井!? どうした、しっかりしろ!」
「うあぁあああっ!」
嫌だ、もう嫌だ。耐えられない。
「拓実ッ!」
「黒切! 蒼井のやつ、突然叫び出して――」
誰かに、つよく両肩を掴まれた。
「嫌だっ、離せ!」
反射的に振り払おうとするが解けない。
「拓実! しっかりしろ!」
「どうしてぼくたちはあんな惨いことをされなくちゃならなかったんだ!」
「おい、拓実! ……っ、イニト!」
名を呼ばれてびくりとする。
「だめだ……」
熱いものが頬を伝った。
「ネクス……。やつらに縛られるのは、ぼくたちだけでよかったんだ」

