この運命、一蓮托生につき ~黒の過保護と白の執着~

 ――俺から離れるなよ。

 どうしてだろう。
 その言葉を聞いた途端、ざわついていた心がすうと落ち着きを取り戻していく。

 なぜだか、妙に耳馴染みのある言葉だった。

 ふらつきながらもなんとか立ち上がり、大きな背中の後ろに隠れる。
 ハーフアップにしていたヘアゴムを解いた男から、嗅いだことのない不思議な香りがした。

 びゅう、とひと際強い風圧を感じて身を縮こめる。

 ガシッ。

 何かを強く掴んだような音が聞こえて、そろりと前方をのぞき見た。

『グルルルル、ガウ!』
「お前もか。……それはだめだ」

 ぼくの目には、彼が膨張した煙の中へ腕を突っ込んでいるようにしか見えない。

 けれど、男が腕を大きく振りかぶったと思った次の瞬間にはもう、轟音と共に大きな砂埃が舞い上がっていた。

 煙の塊が、遠くの植木まで吹っ飛ばされたのだ。

『ウグアアウウウ!』
「とっとと去れ」

 ズウンと大きな音がして、地面が揺れる。
 ……この人、煙の正体が見えているんだ。

「あれがなんなのか、あなたは知ってるんですか?」
「……お前。まったく見えていないのか」

 金の瞳が僅かに揺らいだ。

「あ、赤い煙……ですよね?」

 ――ぼくの目が変なのだろうか。
 なぜか黙りこくってしまったので、不安が大きくなる。

 男は煙が飛んで行った方向を一瞥すると、くるりとこちらを向いた。

「……目を閉じろ」
「え?」

 ようやく口を開いたと思ったら突飛なことを言い出して、目を丸くした。

「早く」
「あ、その……」

 突然のことに戸惑っていると、急に顔を近づけてきた。
 男の額とぼくの額が合わさる。

「ちょ、近い……!」
「黙ってろ」

 有無を言わさない圧に負けて口を噤む。
 ほんの数秒が、ものすごく長く感じた。

 触れ合ったところが、じんわりと熱を帯びていく。

「一時的だが、これで見えるはずだ」

 ああ、びっくりした。心臓が飛び出るかと思った。
 けれど向こうは涼しい顔をしている。

 始終慌てているのはぼくだけで、なんだか不公平だ。

 少しだけむっとしたけど、大きな咆哮を聞いてすぐにそれどころではなかったことを思い出した。

「見てみろ」

 言われるままに煙が吹っ飛んでいった方を見やって、目を見開く。

「なっ……」

 先ほどまで見えていなかった輪郭が、だんだんと浮かび上がってくる。
 赤い煙を纏った獣のような何かが、ゆらりと身を起こすのが分かった。

『グルル……』
 
 見た瞬間、「狼だ」と思った。
 なぜだろう……自分でもどうしてそう思ったのか、よく分からないけど。

 四つ足だからだろうか。
 けれどそれは、狼というにはとても奇怪な姿をしていた。

 毛のない皮膚はむき出しで赤黒く、背中は溶けたように歪んでいる。
 耳の当たりまで裂けた口や皮膚から、ぼたぼたと粘液が滴っていた。

「う、うそでしょ……」

 半ば無意識に彼のシャツの裾を握り締めた。
 こんな光景、とてもこの世のものとは思えない。

「わ、悪い夢でも見てるんだ……きっとそうだ……」
「残念だが、これは夢じゃない」
「あ、ありえないよ!」

 獣のようなものが、再びこちらへと少しずつ距離を詰めてこようとする。

『グルルルル……』

 大きさも、ライオンや虎ほどはあるんじゃ……。
 こんなのに飛び掛かられたらひとたまりもないだろうと、先ほどのピンチを思い出して全身が粟立った。

 あぁ、これなら見えないままの方がよかったのかもしれない。
 気付けば叫んでいた。

「あ、あんな大きな化け物、この世に存在するはずない!」

 ――ピタリ。

 ぼくが叫んだ途端、獣のようなものが急に動きを止めた。

『グウゥ……』
「え……」

 纏っていた煙がふいに揺らめく。
 赤色の中にじゅわりと青色が滲み、混じり合いながら大きく轟いた。

「……行け」

 目の前の彼が構えを解いて、静かに言う。

『ガウッ、グルル……』
「ひっ……」

 再び一歩踏み出してこようとしたのが分かって、急いで背中の影に隠れた。
 けれど結局、それ以上は近づいて来なかった。

『グゥ……』

 その声音を聞いた途端、胸に鋭い痛みが走る。

「……っ」

 反射的に、胸元のシャツを強く握った。

 分からない……分からないことだらけだけど。
 でも、なんだかとても悲しんでいるような……そんな気がして。

 きみは、ぼくのことを襲おうとしてたんじゃないの?

『グアオォオン!』

 大きな遠吠えが辺りに木霊する。
 それに呼応するように一陣の風が吹き、木々がさざめいた。

 獣のようなものは、踵を返すと闇の中へと消えていった。

 次第に闇が晴れていく。
 人が行き交う気配や周囲の環境音が戻ってきた。

「も、元に……戻った?」

 空を見上げると、もうじき完全に陽が沈むところだった。
 薄らと光る三日月が、ぼくたちを静かに見下ろしている。

 ぼくは、しばらくその場から動けなかった。

「……行くぞ。ここを出たほうがいい」
「え?」

 見ればいつの間にか、放り出してしまっていたぼくの鞄を拾い上げて埃を払ってくれている。

「送る」
「あ、いやでも……」

 断ろうとしたら鋭い眼光でひと睨みされた。
 たじろいでいる間にさっさと鞄を持っていかれてしまい、慌てて後を追う。

「ちょ、ちょっと待って! それぼくの……!」

 思わず手に力を込めかけて、そういえば眼鏡をまだ返していなかったことに気が付いた。
 はぁ、なんだか今日は散々だ。

「あの。これ、どうぞ」

 なんとか追いついて眼鏡を差し出す。
 眼鏡を受け取りはしても、ぼくの鞄を返してくれる気は更々ないらしい。

 もうそれは一旦諦めることにして、思っていたことを口にした。

「さっきのあれは、一体なんだったんですか?」
「……忘れ去られた残骸の、成れの果てだ」
「成れの果て、って……」

 どういう意味なのかまったく読み取れない。

「どうしてあなたは、あの場所に現れたんですか?」
「…………」

 これは、答えたくないという無言の意思表示なのだろうか。
 質問の方向を少し変えてみることにした。

「その眼鏡、カラーレンズなんですね。光に弱いとか?」
「……見えなくする用」

 やっと口を開いてくれたと思ったのに、今度はぼくが言葉に詰まる番だった。
 あれだけのものを見せられたばかりで「何を」とは聞けない。

 これじゃ間が持たないと頭を悩ませていると、点滅していた信号が、青から赤へと変わった。

 横断歩道の前で立ち止まる。
 
「――ぼく、なんであれを狼だなんて思ったんだろう」

 信号をぼうっと見つめながら、ぽつりと呟いていた。

「あ、そうだ。……なんとなく、尻尾を振っているように見えたんだ」

 あれを尻尾といってよいのか分からないけど、それらしきものをぶんぶんと大きく振る姿が印象的だったことを思い出した。

「お前、こういうことはこれが初めてか」
「え? それは、もちろん」

 今でもさっき起こったことが信じられないのに、これまでに体験したことなんてあるわけがない。

「最近この街に来たのか」
「あ、はい。ぼく宵高の新入生なんです。寮にも入ったばかりで」
「……そうか」

 なんでぼくが地元の人間じゃないって知ってるんだろう。

「あの、もしかしてOBの方ですか?」

 眉間にしわが寄ったので、どうやら違ったらしい。

「……お前と同い年だ」
「ええっ!」
「だから敬語、気持ち悪いからやめろ」

 そう言って、またさっさと歩いていってしまう。
 気付けば信号は青になっていた。

「ご、ごめっ……まさか同い年だとは」
「……べつに。気にしてない」

 だって、身長がめちゃくちゃ高いし体格もがっしりしているし。
 ぼくとは似ても似つかないんだもの。

「きみも宵高生なの?」

 聞くと無言で頷いた。

「あ、あのさ。今更だけどお互いの名前も知らないよね。ぼくは蒼井拓実」

 きみは、と聞こうとして、突如止まった背中に激突した。痛い……。
 また、あの甘い香りがした。

「もう、急に止まらないでよ」

 痛む鼻をおさえながら見上げると、金色の瞳がこちらを見つめていた。

「……黒切」
「え?」
「名前。黒切蓮(くろきりれん)

 それって。

「隣の席の! 今日は入学式だったでしょ。ぼく、一年二組で君の隣の席になったんだよ」

 なんで今日は欠席したのだろう。

 ――あの色々と噂の絶えないヤンキーでしょ。

 ふと、クラスメイトの噂話が頭をよぎった。

 色つきの眼鏡にピアスと香水をつけていて、たしかに高身長も相俟って謎の威圧感がある。

 でも“ヤンキー”とはまた違うような……?

「今日は来られない用事でもあったの?」
「……あぁ」
「そっか……。なんだかぼくたち、すごい出会い方をしちゃったね。改めて、これからよろしくね」

 そうこうしているうちに、無事寮の玄関へと到着した。

「今日は助けてくれて、本当にありがとう」
「礼はいい。それより早く入れ」

 言いながら別の方向に視線を巡らせている。

「う、うん」

 なんだか怖くなって、慌てて中へと駆け込んだ。

「黒切くんも気を付けて帰ってね」

 すると、黒切くんが眉根を寄せた。

「……蓮でいい」
「蓮、くん?」
「くん要らない」

 まったく、注文が多いんだから。

「じゃあ、蓮」
「……ん」

 表情が少しだけ柔らかくなった。
 忘れないうちに、今度こそ鞄を受け取ろうと手を差し出す。

 けれど靴をはき替えた蓮は、またずんずんと歩いて行ってしまった。

「あれ、もしかして蓮も寮生なの? ていうか、ぼくの鞄返してってば!」
「……部屋の前まで送る」

 有無を言わさない態度に首を傾げる。
 なんで、ここまでしてくれるんだろう。

「さすがにもう怖くないよ。だから大丈夫――あっ、ちょっと!」

 結局鞄を返してもらえないまま、小走りで追いかける羽目になった。

 レクリエーションにも参加できなかったし、わけの分からない目にあって最悪だと思っていたけど。
 でもこうして新しい友達ができたのは、正直嬉しい。

 それから数分後。
 寮の隣人が蓮だと判明し、ぼくは今日何度目か分からない驚きの声をあげたのだった。