バンッ。
教室の引き戸を開けてすぐ、机を寄せ合い座っている四人の女子が目に入った。
ミヤモリサマの話を教えてくれた子たちだ。
「みんな、無事……!?」
勢いのまま声を掛けると、こちらを向いた全員の目が驚きに見開かれた。
「あ、蒼井くん……!?」
「黒切くんも……!」
ぼくが教室に一歩踏み入ったところで、女子たちが慌てたように立ち上がろうとする。
「あっ。指、離し――」
『おい、まずいぞ……!』
声をかけようと口を開きかけて、激しい耳鳴りに襲われた。
「うっ……」
鼓膜を突き刺されたように痛む。
窓は小刻みに震え、机や椅子が激しい音を立てて暴れだした。
「きゃああっ」
――今は痛みに呻いている場合じゃない。
どうにか体勢を立て直して、みんなに向かって声を張り上げる。
「……早くこっちへ! 教室を出るんだ!」
逃げて来た女子たちをどうにか受け止め、教室の外へと誘導した。
「ほら、深呼吸して――そう。みんな、聞いて」
ひとりひとりの目を見つめ、努めて落ち着いた声で話す。
混乱しているだろうに、みんなは涙を滲ませながらも頷いて聞いてくれた。
「きみたちはこのまま昇降口まで走って、学校の外へ出るんだ。いい? 出てからも、振り返らず真っ直ぐ帰るんだよ」
「でも、蒼井くんたちは……?」
「ぼくたちも後ですぐに行くから」
安心させるように微笑む。
けれど、ひとりの女子がぼくの袖口を握り、首を振った。
「あ、危ないよ……!」
「心配してくれてありがとう。でも、ぼくたちは本当に大丈夫だから」
震える手の上へ、安心させるように手を置いた。
彼女の手は血の気が引いて、指先まで冷え切ってしまっている。
「きみたちが危ない目に合ってしまうほうが、ぼくは嫌だな。――さぁ、行って」
「ほら、蒼井くんがここまで言ってくれてるんだから。もう行くよ……!」
「蒼井くん……っ」
こちらを気にしながらも、なんとか昇降口へと走り出した女子たちの背中を見送る。
「ハヤト。悪いけど、みんなが門を出るところまで見守っていてくれるかな。もし何かあれば、教えてほしいんだ」
『……ったく、しょうがねぇな。分かったよ』
がしがしと頭を掻いたハヤトが、女子たちの後を素早く追った。
そうして残った蓮とふたり、視線を交わして頷き合う。
教室の方へ向き直ると、目の前にあるのはもうぼくの知る二組ではなくなっていた。
窓の外は闇色に染まり、何も見えない。
――いや。
きっと、今はまだ見えていないだけだ。
無数の何かが、こちらを見ている気配を感じる。
「“早く入って来い”と言わんばかりだね」
「……もう、気を鎮めてやるしかない」
言いながら、蓮は結っていたヘアゴムを外した。
ぼくもひとつ大きな深呼吸をする。
「よし。行こう」
教室の中へ入った途端、全身に圧のようなものを感じて肌が粟立った。
バンッ。
引き戸が、大きな音を立ててひとりでに閉まる。
退路を断つかのようにガタガタと机や椅子が積み上がり、戸の前を塞いだ。
「……帰してくれる気もないみたいだ」
戸口から視線を外して窓の方を見やる。
ぐにゃりと空間が歪んで、大きな穴が出現した。
そこから足元へ、オレンジ色の煙が流れ込んでくる。
ぬちゃ、という湿り気を帯びた音と共に、穴の奥から唸り声が聞こえた。
「――来る」
蓮が身を低く構えた。
「あれは……」
穴から姿を現したのは、入学初日に遭遇したあの、獣のような何かだった。
『グルル…………』
それだけじゃない。
後へ続くように、ぞろぞろと他のやつらが穴の中から押し寄せて来る。
ぼくは、ごくりと唾を飲み込んだ。
――“肉塊”。
なぜハヤトがそのように表現したのかを、今ようやく理解したからだ。
ズル……ズルズルッ。
床に、赤黒い跡が付く。
『ア……ア……』
それらのほとんどは、形を成してすらいないものたちだった。
どこに目や鼻が付いているのか……。
いや、そもそもそのような器官があるのかも見当がつかない。
最初に現れた獣らしきもののように、生物らしい形を留めているものはごく少数だった。
『イ、タ……』
闇色の穴から這い出てきたものたちに、四方をぐるりと囲まれてしまう。
「俺から離れるなよ」
「う、うん」
じりじりと間合いを詰められ、教室の中央へと追いやられる。
『ア、ソボ……』
突如、群れの中の一体が、ぼくに向かって飛びかかってきた。
『――ニ、ト……!』
「うわあっ」
触れられるよりも早く、蓮の腕がそれを弾き飛ばした。
べちゃりと音を立てて床に転がる。
『ウウッ……』
呻くそれを取り巻いていたオレンジ色の煙が、ぶわりと青色に変わった。
『ド……シテ……』
「……触れるな。抑えろ」
蓮の言葉に、群れの纏っていたオレンジ色の煙がみるみる赤く染まっていく。
『……イ。ズルイ、ズルイ、ズルイ……!』
獣のようなものが咆哮を上げたのを皮切りに、複数の影が一斉に動きだした。
「拓実。一歩下がれ」
足を掴もうと這い寄ってくるもの、勢いよく跳びかかってこようとするもの――。
大きさや姿形もまばらなそれらを、蓮が次々と弾き飛ばしていく。
「……蓮!」
ぼくは、祈るように震える両手をぎゅっと握りしめた。
意を決してやって来たというのに、今できる最善の行動が、邪魔にならないようにただ立っていることだけだなんて。
何か、ぼくにできることは――。
『ア……ガウアア……!』
「……っ」
三百六十度、全方位から繰り出される連撃をすべて捌くには、あまりにも数が多すぎた。
獣型の大きな四肢から繰り出される攻撃を、蓮が両腕で受け止めた、その時。
視界の端に、ぼくの方へ口を開けて迫ってくるものが見えた。
『アソブ……イッショ……!』
「あっ……」
――避けきれない。
シャツに噛み付かれ、ぐいと引っ張られた次の瞬間にはもう、黒板へ吹っ飛ばされていた。
ズダンッ!
「ぐ……っ」
「拓実!」
視界がスパークする。
「いい加減にしろ! だから触れるなと言ったんだ!」
蓮の怒号が遠くに聞こえた。
脳がぐらぐら揺れて、眼球が後ろへ回る。
ふっと周囲の音が止み、瞼の裏が真っ白になった。
「――あいたたた。きみは本当に引っ張りっこが好きだねえ」
『ガウッ! グルル!』
まったく、ぶんぶんとしっぽを振って。随分とご機嫌なようだ。
「急に離したらだめだって、いつも言ってるじゃないか。相手が怪我しちゃうでしょう」
『キュウ……』
注意をすれば、途端に鼻を鳴らして大人しくなる。
軽いため息を吐いて、微笑みかけた。
「……怒ってないよ。おいで、怪我はない?」
『……クウ』
抱き寄せて、首の後ろへ“息吹”をかけた。淡い水色の光が灯る。
「きみは幾らか頑丈みたいだから……きっと大丈夫。大丈夫だよ……」
半ば自分自身へ言い聞かせるようにして、不揃いな毛並みを撫でた。
「……さあ。そろそろあの子たちの手当てに行こう。きっと待ってる」
キィィィン。
甲高い耳鳴りが、頭の奥を貫いていく。
次第に音は遠のいていき。
真っ白な閃光が弾けて視界を焼いた。
「――み! 拓実……!」
「ぁ……う……」
頭痛がひどい。
後頭部を支えられている感触に、薄らと目を開ける。
ピントの合わない視界に、ぼんやりと影が映った。
周囲から無数の気配とざわめきを感じる。
『……イ、タイ?』
『……ゴメ……ナサイ』
『ワザト、チガウ……』
『カナ、シイ?』
朦朧とする意識のなか、ぼくは小さく笑った。
「みんな、泣きそうな声してどうしたの」
ああ、視界が滲んでよく見えない。
微笑みながら手を伸ばすと、誰かが息を呑んだ音がした。
少しして、指先にぬるりと湿った何かが触れる。
「ほらおいで。……よしよし。また無茶をしたのかい……」
『ア、アイタカッタ……アイタカッタ……』
グリグリと体を押し付けられて、そっと撫でてやる。
おかしなことを言うなぁ。ぼくはここに居るのに。
『イ、ニト』
それを聞いた瞬間。
どくん、と心臓が強く脈打った。
「……っ!」
奥底の何かが息を吹き返すように、背中がしなる。
「おい!」
蓮の呼びかけに反応しようにも、はくはくと口が動くだけで声にならない。
酸素を求めて何度か大きく息を吸うと、次第に意識が明瞭になった。
「あ……。ぼくは今、何を……」
ふと、ぬめる指先の感触に気付いた。
戻ってきた視界に、赤黒いものを撫でるぼくの手が映る。
『イニト……』
分からないけど、その響きを聞く度に胸の奥がズキズキする。
ああ、お願い。そんな声で呼ばないで。
濃紺の煙が、教室中に充満していた。
『ドウシテ……オイテ、イッタノ?』
教室の引き戸を開けてすぐ、机を寄せ合い座っている四人の女子が目に入った。
ミヤモリサマの話を教えてくれた子たちだ。
「みんな、無事……!?」
勢いのまま声を掛けると、こちらを向いた全員の目が驚きに見開かれた。
「あ、蒼井くん……!?」
「黒切くんも……!」
ぼくが教室に一歩踏み入ったところで、女子たちが慌てたように立ち上がろうとする。
「あっ。指、離し――」
『おい、まずいぞ……!』
声をかけようと口を開きかけて、激しい耳鳴りに襲われた。
「うっ……」
鼓膜を突き刺されたように痛む。
窓は小刻みに震え、机や椅子が激しい音を立てて暴れだした。
「きゃああっ」
――今は痛みに呻いている場合じゃない。
どうにか体勢を立て直して、みんなに向かって声を張り上げる。
「……早くこっちへ! 教室を出るんだ!」
逃げて来た女子たちをどうにか受け止め、教室の外へと誘導した。
「ほら、深呼吸して――そう。みんな、聞いて」
ひとりひとりの目を見つめ、努めて落ち着いた声で話す。
混乱しているだろうに、みんなは涙を滲ませながらも頷いて聞いてくれた。
「きみたちはこのまま昇降口まで走って、学校の外へ出るんだ。いい? 出てからも、振り返らず真っ直ぐ帰るんだよ」
「でも、蒼井くんたちは……?」
「ぼくたちも後ですぐに行くから」
安心させるように微笑む。
けれど、ひとりの女子がぼくの袖口を握り、首を振った。
「あ、危ないよ……!」
「心配してくれてありがとう。でも、ぼくたちは本当に大丈夫だから」
震える手の上へ、安心させるように手を置いた。
彼女の手は血の気が引いて、指先まで冷え切ってしまっている。
「きみたちが危ない目に合ってしまうほうが、ぼくは嫌だな。――さぁ、行って」
「ほら、蒼井くんがここまで言ってくれてるんだから。もう行くよ……!」
「蒼井くん……っ」
こちらを気にしながらも、なんとか昇降口へと走り出した女子たちの背中を見送る。
「ハヤト。悪いけど、みんなが門を出るところまで見守っていてくれるかな。もし何かあれば、教えてほしいんだ」
『……ったく、しょうがねぇな。分かったよ』
がしがしと頭を掻いたハヤトが、女子たちの後を素早く追った。
そうして残った蓮とふたり、視線を交わして頷き合う。
教室の方へ向き直ると、目の前にあるのはもうぼくの知る二組ではなくなっていた。
窓の外は闇色に染まり、何も見えない。
――いや。
きっと、今はまだ見えていないだけだ。
無数の何かが、こちらを見ている気配を感じる。
「“早く入って来い”と言わんばかりだね」
「……もう、気を鎮めてやるしかない」
言いながら、蓮は結っていたヘアゴムを外した。
ぼくもひとつ大きな深呼吸をする。
「よし。行こう」
教室の中へ入った途端、全身に圧のようなものを感じて肌が粟立った。
バンッ。
引き戸が、大きな音を立ててひとりでに閉まる。
退路を断つかのようにガタガタと机や椅子が積み上がり、戸の前を塞いだ。
「……帰してくれる気もないみたいだ」
戸口から視線を外して窓の方を見やる。
ぐにゃりと空間が歪んで、大きな穴が出現した。
そこから足元へ、オレンジ色の煙が流れ込んでくる。
ぬちゃ、という湿り気を帯びた音と共に、穴の奥から唸り声が聞こえた。
「――来る」
蓮が身を低く構えた。
「あれは……」
穴から姿を現したのは、入学初日に遭遇したあの、獣のような何かだった。
『グルル…………』
それだけじゃない。
後へ続くように、ぞろぞろと他のやつらが穴の中から押し寄せて来る。
ぼくは、ごくりと唾を飲み込んだ。
――“肉塊”。
なぜハヤトがそのように表現したのかを、今ようやく理解したからだ。
ズル……ズルズルッ。
床に、赤黒い跡が付く。
『ア……ア……』
それらのほとんどは、形を成してすらいないものたちだった。
どこに目や鼻が付いているのか……。
いや、そもそもそのような器官があるのかも見当がつかない。
最初に現れた獣らしきもののように、生物らしい形を留めているものはごく少数だった。
『イ、タ……』
闇色の穴から這い出てきたものたちに、四方をぐるりと囲まれてしまう。
「俺から離れるなよ」
「う、うん」
じりじりと間合いを詰められ、教室の中央へと追いやられる。
『ア、ソボ……』
突如、群れの中の一体が、ぼくに向かって飛びかかってきた。
『――ニ、ト……!』
「うわあっ」
触れられるよりも早く、蓮の腕がそれを弾き飛ばした。
べちゃりと音を立てて床に転がる。
『ウウッ……』
呻くそれを取り巻いていたオレンジ色の煙が、ぶわりと青色に変わった。
『ド……シテ……』
「……触れるな。抑えろ」
蓮の言葉に、群れの纏っていたオレンジ色の煙がみるみる赤く染まっていく。
『……イ。ズルイ、ズルイ、ズルイ……!』
獣のようなものが咆哮を上げたのを皮切りに、複数の影が一斉に動きだした。
「拓実。一歩下がれ」
足を掴もうと這い寄ってくるもの、勢いよく跳びかかってこようとするもの――。
大きさや姿形もまばらなそれらを、蓮が次々と弾き飛ばしていく。
「……蓮!」
ぼくは、祈るように震える両手をぎゅっと握りしめた。
意を決してやって来たというのに、今できる最善の行動が、邪魔にならないようにただ立っていることだけだなんて。
何か、ぼくにできることは――。
『ア……ガウアア……!』
「……っ」
三百六十度、全方位から繰り出される連撃をすべて捌くには、あまりにも数が多すぎた。
獣型の大きな四肢から繰り出される攻撃を、蓮が両腕で受け止めた、その時。
視界の端に、ぼくの方へ口を開けて迫ってくるものが見えた。
『アソブ……イッショ……!』
「あっ……」
――避けきれない。
シャツに噛み付かれ、ぐいと引っ張られた次の瞬間にはもう、黒板へ吹っ飛ばされていた。
ズダンッ!
「ぐ……っ」
「拓実!」
視界がスパークする。
「いい加減にしろ! だから触れるなと言ったんだ!」
蓮の怒号が遠くに聞こえた。
脳がぐらぐら揺れて、眼球が後ろへ回る。
ふっと周囲の音が止み、瞼の裏が真っ白になった。
「――あいたたた。きみは本当に引っ張りっこが好きだねえ」
『ガウッ! グルル!』
まったく、ぶんぶんとしっぽを振って。随分とご機嫌なようだ。
「急に離したらだめだって、いつも言ってるじゃないか。相手が怪我しちゃうでしょう」
『キュウ……』
注意をすれば、途端に鼻を鳴らして大人しくなる。
軽いため息を吐いて、微笑みかけた。
「……怒ってないよ。おいで、怪我はない?」
『……クウ』
抱き寄せて、首の後ろへ“息吹”をかけた。淡い水色の光が灯る。
「きみは幾らか頑丈みたいだから……きっと大丈夫。大丈夫だよ……」
半ば自分自身へ言い聞かせるようにして、不揃いな毛並みを撫でた。
「……さあ。そろそろあの子たちの手当てに行こう。きっと待ってる」
キィィィン。
甲高い耳鳴りが、頭の奥を貫いていく。
次第に音は遠のいていき。
真っ白な閃光が弾けて視界を焼いた。
「――み! 拓実……!」
「ぁ……う……」
頭痛がひどい。
後頭部を支えられている感触に、薄らと目を開ける。
ピントの合わない視界に、ぼんやりと影が映った。
周囲から無数の気配とざわめきを感じる。
『……イ、タイ?』
『……ゴメ……ナサイ』
『ワザト、チガウ……』
『カナ、シイ?』
朦朧とする意識のなか、ぼくは小さく笑った。
「みんな、泣きそうな声してどうしたの」
ああ、視界が滲んでよく見えない。
微笑みながら手を伸ばすと、誰かが息を呑んだ音がした。
少しして、指先にぬるりと湿った何かが触れる。
「ほらおいで。……よしよし。また無茶をしたのかい……」
『ア、アイタカッタ……アイタカッタ……』
グリグリと体を押し付けられて、そっと撫でてやる。
おかしなことを言うなぁ。ぼくはここに居るのに。
『イ、ニト』
それを聞いた瞬間。
どくん、と心臓が強く脈打った。
「……っ!」
奥底の何かが息を吹き返すように、背中がしなる。
「おい!」
蓮の呼びかけに反応しようにも、はくはくと口が動くだけで声にならない。
酸素を求めて何度か大きく息を吸うと、次第に意識が明瞭になった。
「あ……。ぼくは今、何を……」
ふと、ぬめる指先の感触に気付いた。
戻ってきた視界に、赤黒いものを撫でるぼくの手が映る。
『イニト……』
分からないけど、その響きを聞く度に胸の奥がズキズキする。
ああ、お願い。そんな声で呼ばないで。
濃紺の煙が、教室中に充満していた。
『ドウシテ……オイテ、イッタノ?』

