海の幻影


「あー面白かった」

 独り言のように洩らした台詞に反応して、ウニが振り返る。
 はー、と駅前の忙しい騒音の中でもしっかり聞き取れる呆れたような溜め息を吐きながらも、水族館のパンフレットを開いたり閉じたりして、クックッと何か言いたげに笑うウニの顔は楽しそうで安心した。
 彼女にフラれたから代わりになってくれ、等という無茶苦茶な願いに付き合わせた事を少し後悔していたから、ウニが笑ってくれるだけでホッとする。
「なあ、雄二お前、デート出来れば彼女じゃなくてもいいんじゃねえの?」
「バカ言うな。俺だって愛ちゃんが良かったわ」
「ははっ、うるせー」
 笑いながら靴紐を結び直すウニの小柄な背中を眺めながら今までの色々な事を思い出す。
 いつも隣にウニが居る、それはあまりにも自然で当たり前の事だった。
 愛ちゃんに「ウニさんが羨ましい」と言われた理由を考えるとムズ痒い気はしたが、確かにウニを友情とか愛情では誰かと比べる事は出来ない。
 こうして辛い時に側にいてくれるウニに、きっと俺は自分で思う何倍も救われている。
 今までも、多分これからもだ。自分で思う何倍も重要な人間だ。

「じゃあまた明日。パンケーキな」
「ガワさんに宜しく。仕事無理すんなよ」
「ありがとう、行ってくる」
「おう、行ってこい」
 手を振って見送ってくれるウニの穏やかな表情に背中を押される。
 こういう男がモテるんだろうな、と胸がざわついた。
 ウニだったなら、上手くやれたのだろうか。
 結局、自分がどんなに大切に想っていようが、振られる原因すら自覚できないようじゃきっとガッカリもさせたのだろうと思う。
 愛ちゃんが俺に求めたものが何だったのかは未だに分からないままだが、こうやって心に寄り添ってくれるウニに心から憧れを感じて、反面、自分には足りない物だらけな気がした。
「ウニ、お前もなんでモテねえんだろうな。俺、女だったら絶対ウニと付き合いたかったわ」
「うっせえバカ、早く行け」
 ……そうだ、その笑った顔に俺はいつだって救われていた。




 夜の一歩手前、街は帰宅する人と今出てきた人が混ざって賑わっていた。
 帰宅するでもなく今出てきたわけでもない俺は、事務所へ向かって歩き出す。
 始業時間まで仮眠を取ろう。少し眠ってさっさと仕事を終らせて、明日またウニと会う。ただ愛ちゃんに出会う前の生活に戻るだけ。
 悲しさと同時にどこか安堵している自分もいる。

 今日は手放しに楽しかった。
 水族館デート、が愛ちゃんとの約束として果たされなかった事は切ないが、きっと彼女にも何か理由があったのだろう。
 愛ちゃんにはあれから何度もメッセージを送ったけれど未読、電話も掛けたけれど繋がらなかった。バイトは無断欠勤が続いていたし、きっとこれからも彼女は現れないだろう。

 理由を聞けないまま関われなくなってしまったのは悔しいけれど、一週間散々落ち込んで過ごして、やっと彼女の側にいるのが俺である必要がなくなったのだと理解した。
 どんなに悩んだって、彼女は幻のように消えてしまって跡形も無い。
 
 実際のところ、こうして一方的に別れを告げられても、怒れる程彼女の事を知らなかったのだ。
 いつも都合の良い理想や夢を語って、ただ「今」を楽しく過ごしただけの恋人だった。
 彼女の「今」に夢中になって、心の深くに触れることは「ゆっくりでいいよ」なんて格好つけて余裕をかましていたら、失ったのだ。
 彼女を幻にしてしまったのは、他でもない俺自身だったのだろう。
 大切なことは失ってから気付くのだ、と昔よく聞いた曲の歌詞にもあったのに、気付けなかった己の愚かさが全ての元凶だ。
 彼女の心に寄り添えなかったことで、悲しませたのか、呆れられたのか、怒らせたのかと考え始めると出口の無いトンネルに放り込まれた気になるから、出来るだけ明るいことを考える。
 忘れられやしないけれど、明日の事を考えて過ごしている。

 そうは言っても、自分の中での愛ちゃんの存在は決して小さくない。
 ……好きだった、とても。
 あの日受け取った別れのメッセージに「愛ちゃんが決めた事ならそれがいいよ」と思えるまではもう少し時間がかかりそうだけど、出来るだけ幸せでいて欲しい。

 愛ちゃんの笑顔がどこかで続いていますように。
 たまに見せた辛そうな顔や涙が、離れた理由じゃありませんように。
 せめて愛しく思った人が幸せになるために別れたのだと思いたい。
 よぎる不安がまるごと杞憂であればいい。




 事務所へついた頃にはすっかり辺りは暗かった。
 前の現場に出ていた先輩達が次々に戻ってきて、帰り仕度をしながら人気のグラビアアイドルが自殺した話だとか流行りのドラマの話だとかで盛り上がっている。
 少しだけ会話に参加した後、仮眠室でイヤホンをつける。

 アラームをかけるつもりでスマホを出して、メッセージの通知が無いことに改めて溜め息を吐いた。
 一週間以上同じ動作をしているから、最早気になって確認しているというよりは、作業として確認をしている感じだ。
 愛ちゃんは何してるかな、ご飯は食べただろうか。
 あの日買った皿は活躍しているかな、怪我も綺麗に治っていたらいいな。
 ぼんやりと考える思考すらも毎日同じで、さらさら流れるような作業になっている。無駄だ。もうやめよう、もう本当に、終わりにしよう。



 スマホのアラームで起きると、長髪を雑に束ねたガワさんが休憩室で甘い香りの電子煙草をダルそうに咥えて、大きな紙パックのコーヒー牛乳にストローを突っ込んで飲んでいた。
 こちらに気が付くとニヤニヤしながら俺の後ろに立ち、完全にセクハラの距離感でささやくように喋りだす。
「おう、雄二。休みだったのに急に呼び出して悪ぃな、デートしてた? いきなり仕事入ってヤり損ねちゃった?」
「や、全然っす。ウニと居ただけなんで」
「んだよ、また奏多と遊んでんのかよ」
「そっす、明日も遊び行きますよ。てか、仕事あるのは俺的にすげぇ助かるんで。呼んでもらえて寧ろありがたいです。仕事、めっちゃ好きっす」
 ウニの名前を聞いてガワさんは必要以上に大声でガッカリして見せた後、俺の表情から何かを察したのか、すぐに別の話題へと切り替えた。
 ガワさんの底の浅い下ネタとセクハラにも慣れたとはいえ、疲れていると対応するのが面倒くさい事も多い。
 しかし適当に流して返事をすると、一瞬で空気を読めるのもガワさんなのだ。
 表面は猥雑で低俗な男だけど、察し能力が異常に高くて信頼の置ける先輩だから、付き合いやすくていつも助けられていた。
 ウニが悪態を吐きながらも何だかんだでこの人を慕っている理由が分かる、ガワさんの優しさはウニと少し似ている。

 仕事がありがたいのは本音だった。
 未だにフリーターをやっている身としては、さっさと資格を取って就職する為にも、少しでも貯金して将来楽をする為にも、仕事は多い方が良い。
 愛しい彼女との将来が絶たれたとて、結局やるべき事は同じなのが切ない話だ。
 何よりつい先週まで愛ちゃんの為に作ってあった隙間の時間は、無意味な一人時間になってしまった。全て別の予定で埋めなくてはあまりにも辛い。
 ウニに甘えてばかりもいられないから、今の俺にとって、仕事はあればあるだけ救われた。
 




 今回の現場である終電が過ぎた後の地下鉄のホームは、屋外でもないのにひんやりと嫌な風が通る。「案外マシっぽいな」と誰に言うわけでもなく呟くガワさんの声は、若干エコーがかって聞こえる。
 特殊な現場、といえば聞こえは良いが、つまるところが人の死に纏わる現場だ。
 昼間に飛び降りがあったらしい。
 そういやスマホに人身事故の情報が入ってきていたな、と思い出して何となく嫌な気持ちになる。
 この手の現場は過去にも何度か当たってきた。
 事故や事件の後処理清掃は普段の業務に比べてかなりキツく、人手不足の関連業者からの委託は珍しいことじゃない。それでも、時間の経った腐乱遺体の引き揚げ後のアパートなんかに比べると、地下鉄のようなパブリックな場所は大方片付いた状態から始まるから、全然楽なのだ。

 とはいえ、ここで人が死んで、半日も経っていない。
 心霊の類いに興味がなくたって、気味が悪くないかと聞かれればそれなりに気味が悪い気もするし、故人の事なんて少しも知らないのに何故か悲しいような気もする。
 全く人間の脳は簡単に出来ているな、と自嘲する。


 ガワさんが線路に降りて、高圧洗浄機を準備しながら呑気に鼻歌を歌う。
 足元のレールには、昼間の応急処置では流し切れなかったであろう赤黒い血が乾いて生々しくこびりついている。人の、死がへばりついている。
「……自殺の後処理って嫌っすよね、本当に」
「そう? 雄二って意外とナイーヴよな」
「何考えて死んだんだろうーとか、考えちゃうんすよね」
「んー、まぁな。でも俺はもう慣れたぜ、手当も出るし。深夜と特殊でダブル手当じゃん、寧ろ良い良い」
「人の心無いっすもんね、ガワさんは」
 ゲラゲラ笑って洗剤を撒くガワさんの不謹慎さに少し心が救われる。確かに仕事は仕事なのだと割り切らなければ悲しいけれど、仕事はあればあるだけマシだ。
 実際、仕事は金で、生活だ。
 その為に洗い流すものが、誰かの血でも泥でも排気汚れでも同じこと。自分の時間を注ぎ込んで技術をもって対価を得るのはどこの世界でも同じだ。いちいち全てに心動かされていては身が持たない。
 俺は、ガワさんを追いかけて線路へ降りた。

 ――ふと視界に違和感を感じる。

 その気持ち悪さの元を辿ってホーム下の暗がりへ視線をやると、レールから弾かれたように、暗闇に何かがあるのが目に入った。
 落とし物だろうか、と深く考えずにゴム手袋をはめた手を闇に伸ばし、指に触れたそれを掴んで引き寄せた。
「……ん?」
 背筋を虫が這うような悪寒が走る。
 手に掴んだものは、丁度ICカードサイズの二つ折りのカードケースだった。
 鞣した革にベタリと血がかかっている。
「……うぇ、最悪」
 すぐに分かった、遺品だ。
 外側は黒く乾いているけれど、二つ折りの内側にはまだ辛うじて液体といえるくらいの水分を含んだ血液と、クラッシュされた肉片であろう細かな固形物が挟まるようにして潜り込んでいた。
 ふう、と呼吸を整えてカードケースを開こうとすると、ヌチャと嫌な感触が手に伝わった。
 「あっ、え…………?」

 一瞬で周りの音が一つも聞こえなくなった。
 目に飛び込んできた情報が五感を奪っていく。
 今、目に映っているもの全てを拒絶したいのに脳がそれを許さず、心臓が跳ねて体を大きく震えさせる。
 呼吸をするのを忘れても、俺は手元から目が離せなかった。



 赤黒い血で縁取りされたカードケースに収まる社員証には、馬鹿でも聞いたことがあるような有名な会社のロゴと、真面目そうな男の写真が埋め込まれていた。

 【金崎 政行】
 写真の横に堂々と書かれた名前、それが何を意味するのか、見開きの隣ポケットに並んだ写真が俺に答えを突き付けていた。

「愛ちゃん」

 写真の中で見慣れた顔がにこりと笑いかける。
 ……あぁ、知っている。俺はこの人を知っている。
 小さな顔、笑い方、ホクロの位置すらも身に覚えがある。髪の長さこそ違う気もすれど、血に塗れたカードケースに大事そうに守られている笑顔は、紛れもなく、愛ちゃんだった。
  それは、ついこの間まで恋人だった人との、最悪の再会だった。


 そうだった。金崎、愛。
 気にも留めていなかった愛ちゃんの名字を思い返すと、嫌な汗が垂れて首筋に絡み付く。そして写真の中には更に信じられない情報が映りこんでいる。
 薄汚れたカード窓の中の愛ちゃんは、腕の中に小さな子供を抱いていた。
 当然、知らない。想像できるのは、出来れば想像したくもない事だ。

 ほんの数秒が途方もなく長く感じた。
 考えれば考えるほど、分からない。
 ただ、この写真とカードケースの持ち主が「愛ちゃんと小さな子供の写真を普段から持ち歩き、愛ちゃんと同じ名字を持つ男」であることは間違いない事実で「今日電車に飛び込んで命を落とした男」の可能性が高いということだけが分かる。

 何から整理して考えたら良いのか、或いは何も考えなければ良いのかと、脳味噌だけが回転するのに金縛りにあったように体は動かない。心臓を吐き出しそうだ。
 参った。俺は知らずに何かとんでもない失敗をしていた?
 わなわな震える足で無理矢理地面に立っていると、背中をトンと突かれた。
 はっ、として勢いよく振り返ると、心配そうにガワさんがこちらを見ていた。

「おーい、どうした雄二。ボーっと突っ立って……え、何お前、何か顔色悪くね? 持ってんのそれ何、げ、カードケース? ……もしかして拾っちゃった?」
「…………っ」
 無理やり返事を絞り出そうとはするものの、声にならない。
 ガワさんは溜息をつきながら「オーケーオーケー」と頷いて、慣れた手付きでスマホを取り出すと「貸してみ」と俺の手からカードケースを取り、地面に置いて写真を取り出した。
 しばらくスマホを操作して、道具箱からファスナー付きの保存袋を取り出してカードケースを突っ込んで片付けた。
 ガワさんはため息をつくと、結ってあった髪をほどいて、高い位置で結び直しながら軽いトーンで話し出す。
「よし、報告はオッケー。なんか凄かったらしいぜ、コイツ。飛び込む前にさ、ホームで「あいつが悪い」だとか「俺は悪くない」とか、神の子がどう~とか何だ訳わかんねー事絶叫して大騒ぎで飛び込んだんだってよ」
「……あいつが、悪い、すか」
「気ぃ狂ってたんだろ。病んでるよなぁ、それにしたって迷惑な奴だけど。でも雄二、こんなのは気にしない方がいいぜ。ありがてー事に、こいつの迷惑が俺らの明日の飯になってるってだけ。深く考えんな、忘れとけ」
 ガワさんは俺の肩を強めに殴った。
 少しだけ猫背になりながらフッと笑って「さてと」とガワさんは続きの作業に取り掛かる。俺も出来るだけ意識を逸らすように、さっき撒いた薬剤の臭いに集中して仕事を続けようと、歯を食いしばり息を吸った。

 ……今は全部忘れろ。何も考えるな。
 震える足をまるで震えていないかのように前に出して、勝手に体が動くのに身を任せた。