海の幻影


 改札を出た瞬間に、夢が終わる。

 夢はいずれ醒めるものだと、当然理解はしていたつもりだったけれど、現実は冷たく私を叩き起こすようだった。
 視界の中心でハザードランプを点滅させているSUV車の運転席から、夫の政行が私を睨んでいるのが見えていた。
 駅に着いた所から、ずっと見られていたのだろう。あまりに輝いた時間に浮かれて、こんな場所にまで一緒にいてしまった。どこまでも馬鹿だ。
 頭のどこかで駄目だと分かっていた。本当の事を雄二くんに話せない事が苦しくて、投げやりになっていたのかもしれない。
 きっと政行は私を見つけたからここで待っていたのだ。

 全部終わりだ、いや、とうの昔に終わっていたのだから仕方ない。



 ハザードの点滅に、足が震える。

 一歩後ずさると通行人にぶつかり舌打ちをされる。
 戻りたい。折り返したい。改札を抜けたくない。
 今すぐに振り返って走れば、まだ雄二くんは駅に居るだろうか。もしも、私が「助けて欲しい」と言ったら、雄二くんはどうするだろう。私を連れて行ってくれるだろうか。
  考えた一瞬の間で、政行と目が合う。

 ──違う。
 私に救いなんてあるはずが無いのだ。
 雄二くんにも迷惑をかけられない、引き返せない。逃げられない。
 私はもしかしたら今夜こそ死ぬのかもしれない。殺されてしまうかもしれない。
 雄二くんともこれでお別れだ。
 良い時間だった。人生で、二番目に。
 私は最低だ。彼に伝わる意味は兎も角、最後にありがとう、と伝えられただけマシだったと思うしかない。酷いことをしたな。

 息を止めて改札を抜けて、出来るだけ何も考えないように、助手席の前に立つと、ドアを開いて腕を捕まれて引き入れられる。
 私がシートベルトを押し込む前に、政行は爪を噛みながら信号を無視して走り出した。
 夜はいつだって暗くて、とても怖い。



 自宅に着いて玄関のドアが閉まると同時に、政行は私の髪を掴んで引き摺るようにして浴室に押し込んだ。
 鳩尾に磨きたての革靴の強い蹴りが入って、冷たい風呂の床にうずくまる。
「さっさと洗えよ、売女が」
 温度設定を限界まで右に回したシャワーから冷水が勢いよく出て私を頭から濡らした。冷たくて、心臓が飛び跳ねる。
 寒い。あっという間に歯がガチガチと音を立て始める。
 あぁ真冬じゃなくて良かった、と出来るだけしょうもない事を考えて何とか耐えようとする自分の事が憎い。みるみる冷えていく体は、骨が軋んで悲鳴を上げているようだった。

 シャワーヘッドで顔面を殴られ、身体を蹴られて飛ばされるように壁にぶつかる。
 流石に今日はキツいな。
 倒れれば起こされ、繰り返し殴られる。血が滲む度に痛みと寒さで吐きそうになるのに、私の体は意外としぶとい。口の中に鉄の味が流れ込んできても、まだ意識を手放せない。
 止まない殴打と蹴りに合わせて、音楽のように冷水が体を刺した。

 インターホンがしつこく鳴って、政行は舌打ちをしながら浴室を出た。
 私は急いで浴室の床を這い、脱衣場の隅に転がったスマホに急いで手を伸ばした。顔認証はこんな顔面でも通用するのだから、ありがたい。震える手でメッセージを開き「さよなら」と打つと、汲み上げてくる寂しさと悲しさが、喉の奥をぎゅうと締め付けて苦しい。
 雄二くん。またすぐ会えると言ってくれたのに、ごめんね。
 もう二度と会えない雄二くんの笑った顔が浮かんで、目の奥の鈍痛と共に消えた。

 玄関から必要以上に愛想の良い声とドアの閉まるバタンという音が聴こえると、涙が溢れる隙もなく政行が戻ってきた。
 続きの言葉を紡ぐことも無くスマホは取り上げられ、シャワーヘッドで叩き壊された。送信ボタンを確実に押せたかどうか自信が無かったけれど、届いているといいな。
 お別れだけでも、なんて身勝手すぎるか。
 強い虚しさが心を貫く。
 これで、終わりだ。
 既に壊れてしまったスマホは洗面器の中で水に浸されている。

 「来い」
 政行は、びしょ濡れで新しい痣の出来たの私の腕を掴んで、ゴミでも放るように浴室から廊下へ突き飛ばした。
 そのまま髪を持ち手のようにして廊下の奥の部屋へ私を引き摺って運ぶ。廊下には大蛇の通り道のように水痕がついている。

 全身の痛みも、寒さでぼんやりとしてきた所だったが、部屋のドアが開き床に崩れ落ちた所で、激痛に襲われて意識が自分の元に帰ってきた。
 肋骨が折れてしまっているのかもしれない。息を吸う度に痛い。
 髪から水がぼたぼたと落ちる度に、政行は舌打ちをして、立って貧乏揺すりをしながら爪を噛んだ。
「お前はもう外に出さない」
「あ……あの、わ、たし、」
「喋んなよゴミが」
「し、職場にれんら、」
「喋んな。連絡なんてとらせない。誰とも会わせない。ここで野垂れ死ぬまで一人で反省しろよ。人殺し。人殺しのくせに一丁前に羽根伸ばそうとしてんじゃねぇ。どこの男だが知らねぇが、さっきの奴もお前が人殺しの犯罪者だって知らないんだろ。次は詐欺師になったのか?なあ」
 足下に水溜まりが出来ていた。
 何カ所も切れてしまった口は痛くて上手く話せない。
 政行は「俺が買った家だ、床を汚すな」と薄いバスタオルを一枚部屋へ投げ入れ、私を置いて部屋を出た。あまりにも寒くて頭痛がひどい。上手く動けない。
 バスタオルを手繰り寄せて何とかくるまり、水溜まりの上に倒れるように寝転んだ。



 廊下の奥のこの部屋は元々、唯が使う予定だった部屋だった。
 唯が亡くなってすぐに、政行は唯のおもちゃや洋服も全て処分してしまったから、今はがらんどうだ。
 何も無い部屋に、水に濡れた髪から昼間の海の香りだけが仄かに漂う。
 泣き声を溢したってもう誰にも届かない。
 瞼が重い、涙で溺れるならそれでも良い。いっそ殺してくれたら良いのに。