海の幻影


 雄二の実家から戻り、一通りの家事を終えて金崎をベットへ寝かせ「おやすみ」と告げた直後、酷い睡魔に襲われた。
 久しぶりに「海井奏多」として普段会わない人達に会って無自覚にも疲れ果てたのか、やや吐き気がするほどの怠さが体にまとわりつき、ソファに倒れ込む。

 脱ぎ捨ててあったコートに手を伸ばし、ポケットから写真を取り出す。
 雄二も俺も、とても良い顔で笑っている。しかし、この日雄二と何を話したのか覚えていない。どういう経緯で撮った写真だったのかも思い出せない。俺達はどうしてこの時笑っていたんだろう。俺達はどうして写真に収まったのだろう。
  使い捨てカメラのシャッターを一度切った瞬間の会話の一つ一つまで思い出せる人なんていないのだろうけれど、思い出せないことがあまりにも悲しくてやりきれない。
 横たわって眺めていると、写真を持つ手が蜃気楼のようにぐにゃりと捻れてくる。
 目の前がぼんやりと濁って揺らめく意識に侵されながら「動かなければならない」「このまま寝てはいけない」と頭の中で誰かが必死に俺を起こそうとしているのを感じる。
 ああ、きっと起きなければならないんだな……と思いながらも、底なしの沼に引きずり込まれるかのように力が抜けて、ソファに体が沈み落ちていった。





「……くん、雄二くん」
「……ん」
「ねぇ、雄二くん時間大丈夫? 疲れちゃってたよね、ごめんね。私のことで毎日沢山体力使わせちゃってるだろうから」
 壁にかかる時計を見て、一気に目が冷めた。
「……え……あ、嘘。ヤバい、遅刻する」
「ああ、やっぱり。私なら大丈夫だから行って」
「うん、ごめん、急いで出る。家のことは帰ったらちゃんとするから」
 俺は慌てて冷水で顔を洗い歯を磨き、寝癖のついた癖毛を直す暇もなく、アウターと鞄だけを引っ掴み、家を出た。



 業務開始時間ギリギリに滑り込みで到着した現場ではいつもよりもキツい作業を任されて、仕事を終えた頃には全身が悲鳴を上げていた。
 寝坊をして慌てて家を出たばかりに、家へ戻ればやることが山積みだということを思い出す。そういえば、冷蔵庫の中身も乏しかった。
 今日はもう買い物をして料理までする気力がないぞ、と親に甘えるような気持ちでオーナーへ連絡をすると、オーナーは俺の魂胆など知らずに「晩飯まだ考えてなければ二人で食べに来な」と誘ってくれて、脳内でガッツポーズが出た。




 一度家へ帰り、オーナーが誘ってくれたから鴻上珈琲で食事をしようと金崎を誘うと、彼女は午睡明けだったのか上がりきらないテンションで喜んだ。
 通い慣れた赤いドアを開けると、オーナーがにこやかに片手を上げた。
「おかえり、二人とも」
 おかえり、と言ってもらえるほど此処へ来ている現状に少し肩身の狭い気持ちになるが、同時にその居心地の良さに安堵するのも事実だ。
 準備をしていてくれたのかすぐに出てきたミートソーススパゲッティを食べ終わる頃、最後の客を見送り外看板の電気を落としドアの表示を「close」に裏返して戻ってきたオーナーが、金崎の隣に座った。
「体調はどう、金崎さん」
「ふふ、悪くないです。雄二くんのおかげで」
「それは良かった。あ、ラテでいいかい」
 かつてのオーナーと金崎の関係は分からないが、こうして顔を出すようになって二人は楽しそうに話すようになった。きっと以前とはまた違う形なのだろうが、時間と共に信頼が生まれたり、彼女と他者との間に関係性が構築されていく事が微笑ましい。その反面、心の奥底でひっそりと苛立つ原因でもあった。
 雄二のいない世界だって今はこんなに平和なのに、どこかでそれを受け入れたくない。俺が「雄二」として生きている世界だから成立する平和なんて、と時々無性に腹立たしい。雄二の知らない世界で「雄二」との思い出を増やしていく金崎の笑顔を見ながら、嬉しさより少し勝る苛立ちに、憤懣やるかたない気持ちで出されたコーヒーを流し込む。自分で用意した歪んだ世界に、自分が一番対応出来ていないのも分かっているから尚更憂鬱になる。
 それでも、俺は雄二の願いを踏み躙ることが出来ない。俺は雄二を覚えているのだから。

 いつものように三人で談笑し、おかわりのコーヒーを飲み終えて、そろそろ帰ろうか、と支度をして店を出ようとすると、背中を掴むような大声でオーナーが叫んだ。
「海井! スマホ、忘れてるぞ!」
 一瞬で血の気が引く。今は、名前が、違う。
 突然の爆撃に体が強張り、心臓が耳に移動したのかと思うほど近くで鳴る。焦りで背中がじっとりと濡れる感覚が不快だ。
 音を漏らさぬように深呼吸をして振り返った俺は無意識ながらも鬼の形相だったのだろう。オーナーも大変なことをしてしまった、と焦りを全面に押し出し引きつった笑顔を貼り付けて固まっている。
「はは、俺はウニじゃないですよ」
「……あ、ああ。ごめん、はは……ほら、忘れ物」
「ありがとうございます。またお邪魔します」
「……おう。またな酒田。金崎さんも、またね」
 お互いに無理矢理笑って、何事もなかった、を突き通すべく手をふる。

 ドアが閉じて歩き出したところで、美味しかったぁ、と楽しそうな声で喋る金崎にホッと胸を撫で下ろす。汗が滲んだ手のひらをデニムに擦りつけて拭い、ハンドルを握り直し車椅子を押す。隣に並ばなくて良いのは、動揺を隠せるからこういう時に便利だ。
 一人で鴻上珈琲へ行く時、俺は「雄二」じゃない。気を付けてくれているとはいえ、端から見ればこんな茶番、付き合わせている以上オーナーのミスだって当然有り得る話だ。寧ろ今まで何も起こらなかった事の方が奇跡に近いものだっただろう。
 オーナーはすぐにリカバリーしてくれて、俺は無難に対応できていたし、金崎も一切気付いている様子じゃない。良かった、今この生活を止めるわけにはいかない。例え俺が苛立とうとも、金崎は金崎の世界で「雄二」と共に幸せに過ごさなければ雄二の願いは成就しない。
 「雄二」は生きて、ここに居るのだ。大丈夫だ、何の問題もない。大丈夫。
 



 電車を降りて海の香が漂う改札を抜ける。田舎町とはいえ駅前の少し賑わった通りへ出て、たまには夜のお散歩も良いもんだね、等と話しながら家へ向かって歩き出した所で、反対車線から大きな声で引き止められた。
「あれ、奏多じゃん!」
 声のする方へ視線をやった瞬間、頭の中が真っ白になる。
 そこに居たのは、見た瞬間に分かる、金崎と一緒にいる時に絶対会ってはならない人物だった。
 高校の同級生、山内。雄二と共に高校時代はよく遊んだ仲間の一人だ。俺を「海井奏多」としてしか認めない相手、それ即ち、この世界の敵。敵とはいっても戦える相手ではない。目の前に金崎がいる以上、俺には逃げる以外の手立てがない。ついさっき追い返したはずの不穏が手土産をもって舞い戻ってきたような絶望。厄日だ。タイミングが悪すぎる、世間話など出来るはずがない。
 申し訳ないが無視をきめようと少し歩調を速めて歩きだすと、山内はあろうことか道路を渡ってわざわざ俺の近くまでやって来た。
「やっぱ奏多じゃん、オレだよ。山内」
「……人違い、です」
 何とか切り抜けなければ、と咄嗟に嘘を吐く。無理だ。自分の名前を否定することに何の感情も沸かないが、とにかく今は早く開放して欲しい。
 山内は一瞬怪訝な顔をしたものの、高校時代のノリでバカにするようにゲラゲラと笑いだす。
「いや違わねえだろ! はは、あれ、雄二の葬式の時ぶりか」
「人違いだって言ってんだろ!!!!! 誰だよそいつ!!! 知らねぇよ、誰の話してんだよ!!!」
 落ち着いてはいられなかった。ただでさえ、自分たちの世界の脆弱さにナーバスになっている所だった。雄二の名前を出して肩を組もうとしてきた腕を思い切り振りほどき、食い気味に怒鳴り散らす。山内は悪くない、そんな事は分かっている。でも。
 聞こえて欲しくない、絶対に聞かせたくない言葉を発した罪は重い。
「……は、何お前、怖……」
「………雄二くん…?」
 山内は唖然として硬直し、金崎は不安そうに俺を見上げた。
 顔面が熱い、頭に血が上っていく。勘弁してくれ。そんな顔で俺を見るな、頼むから今俺を「雄二」と呼ばないでくれ。
 これじゃあ、いよいよ不安にさせただろう。さっきからおかしなことばかりが起きている。俺は「雄二」として愛ちゃんを守らなければならないのに。
 雄二の事を覚えている数少ない旧友の一人を犠牲にしても俺は「雄二」を守らなければならない。悪いな、山内。「海井奏多」の心は痛むがそれしか他に方法が無い。
 俺はぽかんとしている山内を置いて、その場から逃げるように車椅子を押した。
「……行こう愛ちゃん、なんかあいつ頭おかしい」
「え、でも」
「いいんだ。帰ろう、愛ちゃん」
 
 すっかり暗くなった家路を怒りに任せてズンズンと進む。
 穏やかじゃない。全身を流れる血がずっと暴れている。視界の端で静かに揺れる真っ黒な海は、人間の黒目の奥のように暗く、得体の知れない何かにじっと見られているようで怖くて直視できない。ザザン、と音を立てる波が俺を嘲笑しているように聞こえる。
 
 出来るだけいつも通りに振る舞おうとする俺の様子を伺ってか、口数の少ない金崎は帰宅してから、俺が荷物を運んで車椅子の片付けをしている姿に「ありがとう」と言ったきり喋らなかった。
 とにかく冷静にならねばと、パンクしそうな頭で豆を挽き、お湯を沸かす。嗅ぎ慣れた香ばしさでもコーヒーに鎮静効果があるのは本当だろう、と湯気の立つカップに口をつけて、他に敵のいない自分の陣地でやっと少し嫌な興奮を落ち着かせた。
 ふう、と一服のテンプレートのような溜め息をつくと、金崎がやっと気を使うように小さな声で俺へ声をかけた。
「ねぇ、雄二くん。ウニさんは元気?」
 カップを落としそうになる。まさか、疑われている? カマをかけられているのだろうか ――いや、違う。きっと彼女なりに気にかけて「ウニ」の名前を出したのだろう。雄二の親友の名前を。それなら理解できる。俺だけが一人で慌てているだけだ、だってそうだ。彼女は、何も知らないのだから。
「……さぁね。きっと元気にやってるよ」
「そっかぁ」
 それから金崎はまたしばらく黙って空中を見つめた。
 
 たまたま今日まで首尾よく過ごせてきただけなのだろう。きっと俺たちは運が良かっただけ。偶然が重なって都合の良い日常を送ってこられただけなのだ。
 今後の事を考えなくちゃあいけない。とにかく、もう金輪際こんな目に合わせちゃいけない。金崎の為に俺は「雄二」を絶対に手放してはいけない、現実なんて見せちゃいけない。雄二は金崎の幸せしか望んでいなかった、そうだろう。
 何度も同じことを自問自答して、段々本質が分からなくなってくる。自分が何者で、一体何になろうとしているのか。曖昧な不安が脳内であの日見た水槽の魚達のように旋回する。薄暗い水の中で、記憶の中で笑う雄二だけが唯一光のようなものに思えた。

 ふとアウターを玄関に脱いで置きっぱなしにしていたことを思い出した。カップを置いて玄関へ向かい、床にへばりついたアウターの襟ぐりを掴んで拾い上げ、ハッとする。
 ――あれ。そういえば、写真。写真はどうしたんだっけ。
 嫌な予感を肌で感じながら、右と左の二つしかないポケットを何度も何度も確認して、体が芯からゾッと冷えていく。回転し続ける脳裏に、色々なパターンの最悪が次から次と浮かんでくる。
 まずどうしたんだっけ、帰りにポケットへ入れて、それを眺めながら帰ってきて。昨日寝落ちしたソファで写真を眺めていたことを思い出す。
「……終わった」
 何よりも金崎に見られてはいけないものだった。雄二の本当の顔を見れば、彼女の記憶に干渉するかもしれない。そうなれば、どうだ、彼女はまた命を絶とうとするかもしれない。ダメだ。どうしよう。他の誰でもない自分の初歩的な失敗で俺は全てを終わらせてしまうのか。今までの日常が、何とかして守りたかったものが、無茶苦茶でも繋ぎ止めてきた雄二の願いが。砂の城に波が押し寄せ溶けていくイメージが浮かんで、酸味の強い胃液が次々と込み上げる。
 どうする、どうする、どうする。雄二、なぁ俺どうしたら、いや、雄二は俺か、ああ、違う、もう、ああ。
 ……待てよ、金崎は本当に見たのか? 愛ちゃんさえ、あれを見なければ。
 ガタガタと戦慄する奥歯を噛み締めて立ち上がり、居間までの短い距離を一気に駆け抜けた。
「きゃあ!!」
 慌ただしく部屋へ戻りソファの下を覗き込むとあまりの勢いに金崎は大声をあげ、極度の緊張で息を切らす俺を、目を見開き驚くような、そして恐怖するような顔で見つめた。
「雄二、くん……?」
 ソファの周りをとにかく探した。クッションをどけて、毛布を振るい、ソファの下も裏側も探す。無い、無い、無い、無い。雄二、どこにいる、頼む、出てきてくれ。
 焦っているからか、世界中の全ての音が俺に向かって鳴っているのかと錯覚する程心臓がバクバクと鳴って五月蝿い。黙れ。耳障りだ。これ以上騒ぐなら止めてしまいたい。
「……雄二くん!! ねぇ!!」

 金崎が聞いたこともない位大声で俺を呼んで、やっと我に返る。
「雄二くん、どうしたの。顔が真っ青……ねぇ、さっきから何か、今日の雄二くん、変だよ。何があったの」
 金崎は挙動不審な俺に動揺しているようだったが、それ以外は……普通、に見える。
 俺は肩で息をしながら、必死で状況を整理する。この反応は。もしかしたら、彼女はまだ見ていないのかもしれない。写真はまだどこかに隠れているのかも。或いは、記憶には何も変化が無いのか。現に彼女は今、俺を雄二と呼んだ。認識が変わっていない。セーフか、でも待て、まず、写真は。どこだ。
「……愛ちゃん、この辺に何か、落ちてなかった」
 きっと俺はひどい顔をしているのだろう。
 金崎はひどく怯え、不安そうな顔で涙を溜め、小さく俺の後ろを指差した。

 指の方向へ振り返ると、写真は壁に貼ってあった。

 何故。どういうつもりで、金崎はこんな事をするんだ。
 壁に貼られた雄二と俺はやはり良い顔で笑っている。安いマスキングテープで貼り付けられた俺の笑顔が、俺を笑う。
「ごめ……なさい、私、勝手に…」
 写真から目を逸らすことが出来ない。どうして笑っているかも分からない俺達の笑顔が、遂には何か恐ろしいものに見えてくる。最高の思い出が、忌々しい呪物のように、雄二の隣で笑う俺が、まるで化け物のように思える。
 なあ、雄二。目に見えない何かが壊れる時に、音はするのだろうか。
 壁を通り越して波の音が聞こえるほどの沈黙に、金崎の大きな瞳からボタと床に落ちた水滴の音が、ハッキリと聞こえた。
 俺は少しだけ息を吸って、一つだけ問いかける。

「ねぇ、俺は、どっち」