海の幻影


 小川と会ってから数日、ずっと考えていた。
 雄二、金崎愛、飛び込み自殺をした男。
 小川が持っていた「雄二が事故現場で見付けた写真」を見てから、圧倒的に嫌な予感が拭えなかった。
 雄二は「アレ」を見たのだろう。
 泣く程好きだった女が愛おしそうに子供を抱いている写真、を。
 そして、それを大切にケースに入れて持ち歩いていた旦那であろう男の顔も、名前も。

 鴻上オーナーから金崎愛が既婚者だったと聞かされて驚いたけれど、雄二はきっとその事だって知らなかったのだろう。
 知らなかった、と思うのだ。
 雄二が、分かっていてみすみす泥濘にはまっていく男だとは到底思えなかった。唐突に写真で知らされるインパクトは相当だったろう。
 ああ、雄二は一体どこまで知っていたのだろう。
 アレを見て、何を感じたのだろうか。
 訳も分からずフラれて、彼女に旦那が、家族があった可能性を突きつけられ、挙げ句の果てには、その旦那が自ら選んだ死の後始末をする役目を逐った?
 それすらも全部俺の憶測に過ぎないのに、雄二が居なくなってしまった今、もう答え合わせも出来ない。話を聞いてやれない。
 でもきっと、全てを知った後に誰かの所為にして自分を責めずにいられるほど、雄二は馬鹿でも鈍感でもない。

 もしも、この嫌な予感が的中していたとしたら。
 雄二が最後に送ってきた【居てくれて良かった】というメッセージの意味が変わってしまう事に気が付いて目眩がした。

 本当は「助けて」と言いたかったのかもしれない。
 雄二の叫びを確認していたのに真意に気付けず寝こけていた自分の事を、親友の悲鳴を遺言に変えてしまったかもしれない俺の事を、俺は何度殴ってもいつまで経っても許せないだろう。バカは俺の方だ。
 雄二の苦しみよりも激しく、俺は一生、苦しむべきだ。
 どれだけ悔やんだって、悔やみ足りない。

 今こんなにも救いたい男は、もうこの世にいない。もう何も聞くことが出来ない。
 それなのに、もう声をあげられない雄二の声が聞こえる気がして、それが脳内でハウリングして頭から離れない。


 
 俺は鴻上珈琲店を訪ねていた。
 金崎愛について聞く為だ。
 簡単に何でも教えてくれるとは思っていなかったが、金崎愛の居場所を知りたいと頼むと、オーナーは案の定「それは個人情報だから教えるわけにはいかない」と至極当然な返答をし、湯気のあがるコーヒーを俺の前に置いて、取り繕うように申し訳程度の世間話を始めた。

 繰り返し考えても、雄二の心に辿り着けなくてもどかしい。
 それでも本当の事を知りたい、と思うのは俺の勝手だ。
 雄二は俺が知ろうとするのを望まないのかもしれない、でも分からないなら知りたい。全部雄二に教えてやりたい、俺がちゃんと終わらせてやりたい。
 ……なんて言えば聞こえが良いけれど、俺はただ雄二の存在を肯定したくて、雄二の死に納得したくて、その死の原因が「金崎愛との恋愛の末路」であるならば蹴りをつけたい、いや、その原因になった全てを蹴り飛ばしたいのだと思う。

 カップを引き寄せると、雄二が受け継いだコーヒーと同じ香りがした。
 当たり前だ。あいつの淹れる豆はこの店のものだし、オーナーのコーヒーがオリジナルなのだから。なのに、今は何もかもが悲しくて苦しい。
 オーナーは、昔話をするにはまだ心が癒えきらない俺に気を遣っているからか、しばらく実の無い話を続けてから、仕事用の笑顔のままで溜め息をついた。
「……辛いよなぁ、本当」
「あの。なんかすみませんでした」
「いや、いいよ。でもさ、海井は何でそんなに金崎さんに執着するの。前にも酒田との事、聞いてたよな?」
「オーナー、雄二と金崎さんに何もないって言ってましたよね」
「ああ。だって、」
 何もない、と続くであろうオーナーの言葉を遮って出た声は自分でも驚く程低いトーンで空気を揺らした。
「雄二、金崎さんと付き合ってましたよ」

 オーナーはピタリを動きを止めて、耳だけを俺に向けていた。
 俺はとにかく冷静にならなくては、と思うのに、思えば思うほどまるで八つ当たりのように言葉が流れ出た。
 雄二と金崎愛が恋人であった事、雄二は金崎愛が既婚だと知らなかったかもしれない事、俺自身も雄二から散々惚気を聞かされていたがまさか不倫だとは思ってもいなかった事。
 雄二が彼女をとても愛していた事、予兆もなく振られた事、雄二の事故の原因には普段飲まない酒があった事、死ぬ直前に俺にメッセージが届いていたこと。
 ただ一つ、金崎の旦那が死んだかもしれない事は、小川から口外厳禁だと口止めされていたから、言わなかった。

 オーナーは驚いたのか暫く口を開かないまま、眼球をわずかに泳がせて何かを考えるように小さい声で「嘘だろ」とだけ零した。
 動揺するのも無理はない。
 「オーナーとの約束を守らんかった雄二が悪いんです。でも、俺はあいつの……あいつの何でもないけど、友達ですから。死んだのだって急だったから、きっと愛ちゃんも雄二が死んだこと知らないだろうし。伝えなくちゃならないって思うんですよ。
 それに、俺はなんで雄二が今ここにいないのか、つか、なんで俺の側からいなくなっちゃったのか、愛ちゃんに聞きたいんすよ。聞けないと納得出来ないんですよ」

 喋りだすと涙が出そうだった。
 優しいボサノヴァのBGMに全くテンポの合わない鼓動の音がする。
 俺とオーナーの二人だけが静かにパニックを起こしているような、気味の悪い時間が流れた。
「本当にすまん、海井。ちょっと、信じられないっていうか…、なんで俺はあんなに二人の近くにいて気付いてやれなかったんだろう、毎日のように見ていたのに」
「オーナーは悪くないですって。それに部外者の俺なんかに謝らないでください」
「でもやっぱり、だからといって住所とか……個人情報は教えてやれないが……ただな、これは俺とお前のつき合いだから話す『仲間内の会話』だけどな。
 金崎さんは十日くらい前から無断欠勤をしていて、俺も連絡がつかなくて正直困っていたんだよ。最後に出勤してきた時は本当にごく普通で、それこそ酒田ともいつも通りだった。二人の仲に気付けなかった俺が言うのもおかしな話だが、その時はまだ、二人の間に何か問題があった素振りはなかったよ。それと」
 オーナーは少し悩むように黙った後に、話を続けた。
「あまりにも連絡がないから心配になって、履歴書にあった旦那の携帯に電話をかけたんだ。彼には「妻はもう出勤できないし、二度と顔を出さない」って言われたよ。イライラした口調だった。金崎さんに代わってくれと何度頼んでも、絶対に代わってくれなかったし何も教えてくれなかったよ」

 口元を抑えて青ざめながら必死に手掛かりを掴むようにテーブルを見つめるオーナーの目に悲しみが浮かぶ。
 俺以外に客のいない店内で、他のスタッフは店の端の方でダスターを畳みながらお喋りをしている。
「海井は、金崎さんが……旦那に酒田との不倫がバレて酒田と別れたかもしれないって思ったんだな。そして酒田は事故じゃなく自殺だった可能性がある、ってことか」
「はい。雄二はもう戻ってこねぇけど、雄二が死ぬ前日、俺に「理由が知りたい」ってぼやいてたの忘れられないんですよ。俺は雄二の何かではないし、替わってもやれないけど、知りたいって思います。知って、あいつに報告したい、聞こえやしねぇけど。死んでんだから」
 自分で言っておいてこんなに虚しい事があるか、と吐き気がした。
 それ以上何も言いたくないのに言葉が止まらない。オーナーが優しい大人である事を分かって、八つ当たりをしているだけなのかもしれない。
 瞬きをした瞬間にボタ、とテーブルに水滴が落ちたのを見て、オーナーはティッシュの箱を俺に差し出した。
「俺、結局あいつの為に、とか言いたいだけなんですよね。死んでしまったらもう何も分かんないのは、そりゃ理解しています。でも雄二が残した悩みとか、痛みとか、気持ちとか、そういうのが体と一緒に死んじゃったと思いたくないんですよ。
 せめて俺の不安なんて、こんなの全部バカで嫌な妄想で、振られた理由だって死んだ理由だって、真実はくだらねぇことであって欲しいって思っちゃうんですよ」
 この数日でまともに機能しなくなった涙腺は、一滴の涙もせき止められずにボロボロとテーブルと袖を濡らした。




 オーナーは「もう一度金崎さんに連絡を取ってみるから、それまで少し待っていてくれ」と言って俺を見送った。
 大した情報も得られず、ただただ喚いて泣き顔を見せるという失態。不快な脱力感とやるせなさが、ただでさえ猫背の俺を更に小さくして閉まったガラス窓に映す。
 駅へ向かうポケットの中で雄二のやりたいことリストが指に触れて、あの水族館の日をまた思い出す。
 俺の記憶の最後まで、雄二は笑っていた。あれは紛れもなく俺の知っている雄二だったはずなのに。
 何度も開いては閉じて、折り目の端が千切れてきているルーズリーフを改めて確認する。
「……見に行ってみるか」
 あの日雄二が涙を浮かべながら話していた、緑の家。
 雄二が見た景色を見てみたいと思った。
 それがどんな結末であれ、雄二が幸せになろうと思った景色がどれだけ美しかったのか。あんなに綺麗に泣ける思い出が生まれた場所を。
 俺の目には一つも雄二と同じようには映らないのだろうけれど、見てみたかった。

 

 ただの移動手段である電車すら、雄二との思い出が蘇って苦しい。
 出会った日から振り返れば、いくらでも出てくるバカなエピソードや甘酸っぱい青春の記憶。夏は一緒に汗だくになって、冬は一緒に自販機であったか〜いのボタンを押した事。腹がよじれるくらい笑ったり、悩んだり、考えれば考える程どうして湿っぽくなる。
 学生時代から成人してつい最近まで、雄二の事を忘れる瞬間がないほど一緒にいたと思っていたのに、居なくなってしまった今が一番、雄二のことを考えている。
 恋なんかよりも、もっとずっと想っていた。死ななくたってそうだった。なんだって聞いたし俺ならずっと傍に居れた。それなのに。
 雄二にとって俺とは一体なんだったのか、とコンマ一秒でも考え込めば心が焼き切れそうだ。
 車窓に映り込む自分が、お前はたった一人だと痛いほどに知らしめてくる。

 ぼんやり外を見つめていると、視界に一瞬風見鶏が横切った。
 「ここか」
 到着した駅で電車を降りると、海の匂いが全身を包む。
 海沿いを歩き浜辺へ降りて、まだ新しいスニーカーがゴミと流木の混ざった砂浜をザバザバと漕いでゆく。
 波は高くないけれど、海風がアウターを膨らませると潮の匂いと共に雄二の匂いが浮き上がってきて、必要以上に淋しくなる。



 少し歩いたところに、さっき電車で通り過ぎた家があった。
 緑色にサビの浮いた三角の屋根の家は聞いていた通りのボロ屋で、浜へ降りる階段には誰かが置いていった花火のゴミと白くなった焼け跡がある。
 いつから売りに出ているのかは分からないが、人の気配がないと家というものはこんなにも寂れてしまうのだな、と少なからずハッピーを予感させる建物ではない事にまずは少しショックを受けて苦しい。
「これ、か……」
 心のどこかで、何かもっと特別なものを期待していたのかもしれない。
 きっと俺は、自分に狂おしいほど好きな人が出来ても、一緒に暮らす事を考えるならばここは選ばないだろう。
 一体雄二はどれだけ浮かれていたのだと、半ば呆れのような、そしてアウェイ感に対する醜い嫉妬のような感情が湧いて気持ちが悪くなる。
 でも。雄二が此処に居たんだな。
 まるで全く知らない他人の人生を映画で見ているようで、わざわざ来てしまった事を少し後悔した。知りたい筈なのに、知っていく事が怖くもある。
 親友なんて結局は赤の他人であったと思い知らされるのが辛くて堪らない。

「……雄二、くん?」
 背中側で、か細い声が雄二を呼んだ。
 反射的に振り返ると、思わず声をあげそうになるほど酷い痣を顔面に持ち眼帯を着けた女が、海を背景にして、涙を浮かべて立っていた。