海の幻影


 バイトを上がってすぐにスマホの通知に入っていた「いつもんとこ」というメッセージに既読を付け、適当なスタンプを返しながらそそくさと職場を後にした十分後には、雑誌コーナーで少年漫画の週刊誌を立ち読みしている酒田雄二を見付けた。

 仕事上がりに深夜のコンビニで待ち合わせをするのが、いつからか恒例になっている。
 お互いに昼と夜の仕事を掛け持ちするフリーターになってからというもの、帰りの時間が被る日は、各々の部屋も近い最寄り駅前のコンビニで集合して、缶ビールを飲んで喋りながらだらだらと帰宅するのがお決まりだ。
 とはいっても、酒が弱い雄二は、いつも好んで黒いラベルのコーラを飲む。今日もそうするのだろう。

 店舗の外からガラス越しに向き合ってみても、雄二は漫画に夢中でまるで気付く気配がない。
 真顔で手元に視線を落とす雄二と重なるように、ガラスに透けて映る自分の深夜作業に疲れ切った顔面にうんざりしながら、目の前のガラスをコンコンと弾くと、ハッと雑誌から顔を上げた雄二が「よう」と口パクをして片手を挙げてみせた。
 俺は入口へ回り、聞き慣れたコンビニチェーンの入店音と、深夜でもハツラツと唐揚げを売ろうとする声優のうるさいアナウンスに揉まれながら雄二の隣に並び、今一度「お疲れ」と片手を挙げて、いつもの缶ビールを、雄二はコーラを各々レジへ運んだ。

 こうして会うのは十日ぶりだが、雄二とて勤務後だからなのか、どことなく纏う雰囲気に違和感があるような気がして、邪魔そうに前髪を掻き上げながら小銭を数えるその長身から何かしらを探ってやろうと眺めてみる。
 決定的な違いは分からないが、強いて言うならば、この短期間で雄二は少しやつれたように見える。気のせいかもしれない。
 会計を終えて外に出ると、むあっと湿気の多い空気が顔に当たる。
 雄二は「あー、残暑うぜぇ」と心底嫌そうな顔で、いつものように俺のビールに自分のコーラ缶を雑にぶつけて流し込んだ。


 平日の深夜とはいえ、今日も駅前はそれなりに賑やかだ。
 まだまだ夜はこれから!と言わんばかりの我々と同世代と思しき若者グループや、年中無休の飲食店の店員が客引きをするの眺めて、なにも「週休二日土日休みボーナス有り」ばかりが世間では無いのだよなぁ等と実感し、明日からの週ど真ん中に二連休を控えたフリーターの俺は、何かに許されたような気がして少しホッとする。

 雄二は両足を投げ出して縁石に座り、大きなため息の後に投げやりなトーンで話し出した。
「……いやぁ、振られましたわ」
「えっ、彼女に?」
 そうなのよ、と雄二はウェーブのかかった髪をぐしゃぐしゃとよけて頷き、残りのコーラを一気に飲み干した。
 その横顔は、これがさっきお前の感じた違和感の正体だぞ、と言わんばかりにやつれている。納得だ。
 息を吐くついでのように小さくうなだれる悲しげな表情の頬や目元にぼんやりと影があるのを確認して、その原因がこれから聞く話であろう事を理解してしまった。
 たった今安心したはずの街の賑やかさが、どう考えても邪魔だ。

 生温い夜の匂いが、気まずい空間を更に厄介に演出していて居心地が悪い。
「愛ちゃんから一週間ちょい前にメッセージがきてさ、デートした帰りに『さよなら』だって。はあ、それだけなんだけど」
「ええ……」
 どこを見つめるでもなく、雄二は困ったように少し笑う。
「振られた理由が全然分からないんだよ。だって愛ちゃんと俺、その直前まで楽しく遊んでたんだから。俺の独りよがりでなければ、だけど。でも喧嘩もしてないし、怒らせた記憶も無いの。なんならキスして、またねって、バイバイして。でもさ、俺のことじゃん? 自分じゃ気付かないうちに何かやらかしたのかもって、焦ってすぐ電話したけど、愛ちゃんのケータイ、電源入ってねぇの。ずっと繋がらない。メッセージも何度か送ったけど、ずっと既読されない。未読スルー。完全に音信不通だよ、今も」
 雄二の語尾は、はーとか、あーとか、だらしなく溜め息に混じって地面を這った。
 スマホに明かりを灯して、何の変哲もない何の通知も入っていない、時計だけが表示された待ち受け画面を、ほらね、と俺に見せるようにして閉じた。

「さよならって言われたって唐突過ぎるだろ。もしかして何か言えない理由とか、ホラ、なんか事件に巻き込まれたりとかって、一瞬頭をよぎったりもしたんだよ。だけどよく考えたら、別れの言葉の後に連絡拒否されてるってさ。普通に考えたら、俺がただ振られただけで、もう既に脈なんか無いよな。ドラマじゃないし。シャットアウトした男がしつこく連絡したってキモいだけじゃん。で、落ち込んでんの。好きだったんだけどなぁ、俺、愛ちゃんのこと」
 あーあ、と気付けば雄二は涙目になっている。
 少し離れたゴミ箱に、飲み終えたコーラの空き缶を八つ当たりというには力無いフォームで放り投げて、予想通りに的を思いっきり外して結局拾いに行く雄二は、初めてその身長より遥かに小さく見えた。

 ここに来るまで、雄二から女に振られた話を聞く事になるとは予想もしていなかった。先週まで俺はこいつに惚気を聞かされていたのだから。
 昔から、長身でアンニュイなパーマの雰囲気イケメンの雄二は、それなりにモテてはいた。しかし、見かけに依らず硬派で真面目な男だったが故に、万年童貞だ。
 その雄二に彼女が出来たと聞かされた時は、驚きすぎて財布の小銭を全部落としてしまったくらいだが、雄二はそのレアである彼女を、俺が羨ましいと思えるほど大切にしているのを知っていたから、理由も知らされずに振られただなんて客観的に考えても、尤もらしい原因が見当たらない。

 彼女は、確実に、大切にされていたし、愛されていた。

「……なあ、おい。さっきから無視すんなよ、聞いてんの?」
 いつのまにか隣に戻ってきていた雄二は、ぼんやりと考え込んでいた俺を覗き込み、ばつが悪そうな顔で、誤魔化す為の膝蹴りを食らわせた。
 恋人を前にした雄二がどんな顔をしているかなんて恋人じゃない俺は知る由もないが、きっとこいつが振られる理由なんて、彼女側に原因があるかデートがよっぽどつまらなかったか、或いは死ぬ程セックスが下手か、といった所だろう。
 少なくとも、急に別れを突付けられるような、ありきたりな悪事を働いたとは思えない。

 雄二は相変わらず通知の入っていないホーム画面をぼうっと見つめている。
 どの角度から見ても「失恋」を体現し過ぎている雄二へかける言葉を探りながら、そういや俺が最初で最後の彼女に振られた日も雄二が側にいたなぁ、と昔話を思い出してフッと笑いが込み上げてきた。  
「ちゃんと聞いてるよ、雄二が振られた理由でしょ。あー、分かったかも。俺と彼女とで二股かけてる事がバレたんじゃないの」
 そう言った途端に雄二もこちらと同じ出来事を思い返したようで、さっきまでの気まずい空気をすっかり記憶から消し飛ばすように、はしゃいで笑った。


 あれは俺が高校時代に付き合っていた、最初で最後の彼女に振られた時のことだ。
 放課後の教室で、無関係のクラスメイトに見守られる中、ありがちな徒党を組んだ女子達の壁に囲まれた俺は、その中心にいた当時の俺の彼女に「酒田雄二と私で二股かけて良い身分だね、相手男なら良いと思ったのかよ、死ね!」と叫ばれ、強烈なビンタを喰らって振られたのだ。
 当然そんな事実は無く完全に彼女の勘違いだったのだが、身に覚えのない浮気を叫ばれ、殴られ、挙句知らない女子達にまでサイテーだのゴミクズだのと悪態をつかれる史上最悪の振られ方をして、相手役として名指しされた雄二を道連れに、仲間内では暫く笑いのネタになっていた。

「うわ、懐かしいな。あれ高二の時だっけ? ウニ、本当にそれで振られてたもんな。俺は完全に濡れ衣だったけど。今思い出してもウケるよな、確かにいつも一緒にはいたけど、まさか男友達のガチ浮気相手だと勘違いされるとは思わなかったもん」

 雄二は俺を『ウニ』と呼ぶ。
 由来はしょうもなく、俺の本名である海井奏多の「うみい」は、雲丹の語源と音が同じだからとかそんな理由だ。雄二がその知識をどこで得たのかは謎だが、どうせテレビの雑学番組か何かだろう。
 初めて会った高校の入学式で偶然隣の席についた翌日には、俺のクラスでのあだ名は「ウニ」になっていたが、結局そのあだ名は一切浸透せず、雄二だけが今でも「ウニ」と呼ぶ。

 雄二と俺は妙に気があって、高校の三年間は二人でひたすら帰宅部を満喫した。
 どうせならと同じ喫茶店で一緒にバイトをして、隙あらば遊びに出掛け、家に居る以外は常にといえるほど一緒に居た。
 いや、家に居る時ですらどちらかの部屋にどちらかが居たから、半年経った頃には、お互いの家族にも客扱いされなくなっていたし、雄二に至っては俺が帰宅する前に俺の家でひとっ風呂浴びていた日すらあった。
 真面目な割にピュアで愛嬌良く笑顔を振りまく雄二を俺の家族は大層気に入っていたし、俺は俺で雄二の両親には本当に良くしてもらったと思う。
 クラス替えや思春期特有のいざこざで、周りのクラスメイトとの関係性が少しづつ変化していっても、俺と雄二は何が変わる訳でもなくつるんでいた。

 それ故に二股ビンタ事件は起こったのだろうが、実際に雄二が隣にいる時間が彼女との時間よりもずっと長かったのは否定できなかったし、例えあの時、俺が彼女に弁解して、彼女を抱き締め引き留めたとしても、その後はデートしてくれなくちゃイヤだの、連絡が遅いだの、私を一番に考えてだのと彼女に拘束されれば、今まで通りの雄二とのだらけた日常が脅かされるのが目に見えていたから、敢えて反論せずにビンタを甘受したのだ。
 親友との気楽で穏やかな日常を捨て置く程には、恋愛という青春に夢中になれていなかった。当時は異性に興味もあったけれど、いざ触れてみると大した事ねぇな、というのが率直な感想でもあった。
 黙ってぶたれた事で逆に群れた女子達の反感は買ったが、仲の良い男子グループには非常にウケて、彼女には悪いが未だにこうして酒のつまみとなっている。


 そんな事件が起きるくらい、俺達は兎に角仲が良かった。違う、過去形ではなく、今だって変わらない。
 雄二と俺はとうに成人して就職もせずにフリーターになった今でも、こうして夜中に集合するのが日常だ。年老いたって変わらないだろう、と根拠は無いが、自信がある。
 俺に、雄二のいない青春もなければ、雄二のいない未来もない。

「でさ、ウニ。付き合ってほしいんだけど」
 タクシーが横切る風に髪をぶわと嬲られる。
 雄二はバックパックから折り畳んであるルーズリーフ用紙を一枚取り出して、開いた。
 何度も開閉しているようなシワの深い紙切れには、同世代の男子にしては綺麗なメモ書きの文字が並んでいる。


    ・
    ・
【トドのショーを見る(リベンジ)】
【向日葵のパンケーキを食べる】
【星を見に行く】
【サブスク配信されてる映画を全部見る】
【緑の家を買う】
【死ぬまで一緒にいる!】


 珍しくもぞもぞとする雄二の手が、俺にメモを手渡して恥ずかしそうに前髪へ伸びて顔を隠した。それでも隠し切れない意味深な含み笑いが滲んでいる。
「これはねぇ、愛ちゃんとしたかった事リストです」
「……あ?」
 もしもこれが漫画であれば、今俺の頭の上には、間違いなくクエスチョンマークが乱立しているだろう。
「愛ちゃんとさ、思いつく度に書いていたんだ。どこに行こうとか、何がしたいとか。一つづつ達成する度にチェックつけてさ。でも、もう愛ちゃんが居ないし、要らない物なんだけど」
 雄二は恥ずかしがる事も諦めたように笑い、大きく溜息をついて、直後に大きく息を吸った。
「後半はともかく、ね。なんかもうこれ、半ば俺がしたい事リストになってんの」

 意外なモノの存在が明らかになった事で動揺して、残暑とは無縁の手汗が滲んだ。
 ……彼女としたかった事リスト。
 これが成人した男女の付き合いで起こるイベントとは思えない。一種の呪物だ。死ぬまで一緒にいる、だと。まるで中学生の恋愛を見せられているような恥ずかしさ、毛細血管を内側からチクチクと刺されている気分だ。共感性羞恥で人が死ぬのなら、きっと今俺は臨終を迎えた所だと思う。
 そもそも、部外者の自分が見て良いものでは無いのでは? と、謎の背徳感が生まれる。別れたからといって公開して良い代物なのだろうか。

 とはいえ、分かる、と心の中で頷く。
 というか、そういうものだろうと思う。
 勿論、もともとは恋人と楽しく過ごすための計画、だったのだろうけれど、散々浮かれて企画した後に一人で残されてしまえば、楽しみだけが宙に浮いてしまうのも仕方がない。恋愛経験の乏しい俺にだって、気持ちは良く分かる。
 ひとまず、雄二の話を一旦最後まで聞こうと込み上げる笑いを堪えて咳払いをして、姿勢を正す。

「このまま過ごして行く先々で未練がましくなるのも悔しいから、この際やれる事は全部やってやろうかなぁって。気持ちの区切り、っていうか?」
 雄二は尻に敷いていた財布から空を飛ぶイルカが輪くぐりをする写真がデザインされたペアの前売りチケットを取り出し、俺の膝に置いた。
「……つーか、水族館の前売り、とっくに買っちゃってるんだよ」
 ほらこれ、とチケットを押し付けてくる雄二の横を、どう考えても不倫カップルであろう薬指の付け根が光る中年と、若い女がベタベタしながら仲良さそうにコンビニへ入っていく。
 間抜けな入店音が響く深夜の空気も相まって、妙に面白くて顔が緩んだ。

「……で、ふふっ、俺にこれ、付き合えと?」
 そういうこと、と何故か照れながらはにかんで笑う雄二はそれなりに気色悪い。
 そんな角度で俺を見るな、とツッコミをしそびれるほどツボに入って、いよいよ我慢が出来ずに俺はつい声を出して笑った。
 当の雄二も、今更我に返ったのか、恥ずかしそうにつられ笑いをしている。

 まるで見たことの無い顔だった。
 きっとその表情だって、彼女にだけ見せるものだったのだろう。これが昼間だったら、多少は一緒に切なくなれたのかもしれないが、視界に酔っ払いがチラつくこの時間帯になると、妙なところで笑いが止まらなくなる。
 冷静になれば、恋人との約束を文字に起こす事自体、恥ずかしくて堪えられなくなりそうなのに、雄二はその門外不出であるべきデートプランを、さも当たり前のように公開して、失恋したから相手役をやれと言うのだ。

 ああ、そんなの面白いに決まっている。
 今までに見たことがない親友の乙女のような一面が、馬鹿馬鹿しくて、可笑しくて、何故か少し彼女に妬くような奇妙な気持ちを覚えたが、それはスルーした。
「愛ちゃんとは終わっちゃったけど、楽しい思い出として完結できる気がするじゃん、ウニが一緒ならさ。はーあ、やっぱ俺にはウニしか居ねぇと思ったね。二人なら全部楽しいじゃん、いつも。持つべきものはやっぱ友達じゃん、な」
 笑いたいのか泣きたいのか、眉毛を下げる雄二に困惑した。
 存在を忘れる瞬間が無いくらい知っているはずの親友の、未知の部分に笑いの波が引いていく。香る程度の不安が過るのには気付かないふりをして、ルーズリーフのメモに視線をずらした。

 彼女とやりたかった事リスト。
 水族館、パンケーキ、星、映画……失恋しているのに、微笑ましい。彼女の代打が俺である事が彼女にとって多少失礼な気はしたが、ある意味、何かに勝利したような感覚を覚えた。
 何にせよ、それが親友の失恋のオチならば、付き合ってやらない事も無い。喉を絞り咳払いをして、心が少し踊るのを制止する。
 二人なら、全部楽しい。俺もそこに異議は無いのだ。
「それで雄二にとって区切りがつくかは分からんけどね。俺は女でもないし、彼女の面影は無いし。面白いから良いけど、普通に。あー、でも」
「でも?」
「配信されてる映画全部は無理だって、サブスク舐めんなよ」
 雄二はいつものように笑う。ゲラゲラと大きい口を開けて、今度のは見慣れ過ぎた雄二の笑顔だ。
 「ありがとな、ウニ。なんつーか、愛ちゃんは愛ちゃんでどっかでちゃんと幸せにやってさ、俺には親友であるウニがいて、あーあの時も何だかんだ楽しかったなぁって後で思えたらもう万歳っていうか」
 自分がどんな顔でその場に存在しているか分からなかったが、雄二は俺の顔を見て笑って、俺も釣られて笑う。
 自分の心臓の音を、誰にも気付かせない深夜の駅前のやかましさが有り難かった。
「……女々しくて辛いなぁ」
「古いわ」
 久しぶりに聞くフレーズを鼻で笑った。飲み干したビールの空き缶をゴミ箱目掛けて投げ捨てたけれど、結局外した。「お前もノーコンかよ」と小馬鹿にしてくる元祖ノーコントロールの雄二を小突いて立ち上がる。

 水族館の前売り券はパンツのポケットに温めて、コンビニの店内から出てきた先程の不倫カップルが甘ったるくいちゃつく後ろ姿を、心の底から軽蔑しつつ見送った。
 理解の及ばない世界もあるものだ、しかしあれなら親友の失恋の方がよっぽど美しい。

 家の方へ歩き出す、会った時よりずっと機嫌の良さそうな雄二を追い掛けて、俺はあの日昔の彼女に貰った強烈な平手打ちを思い出していた。