「……!」
心臓が激しく脈を打つ。心拍数が上がっていることを自分でも感じる。鼓動は速くなっているのに、頭から血が抜けていくような感覚を覚える。焦りと恐怖で、体が静かに悲鳴をあげていた。
「いや、言い方が悪かったな、今のは。…………ああダメだ、何て言えばいいのかわかんねえ。くっそ、マナーの本とかちゃんと読んどけば良かったぜ」
「……うん。そうだよ」
僕はうるさい体を押さえ込みながら、事実を告げた。嘘をついたり、はぐらかしたりしても良かったんだけど、狼くんの態度から、茶化そうとしている訳ではないことが感じ取れて、それだけが理由になった。本当のことを言っても、きっと真摯に聞いて、受け止めてくれるだろう、と感じたのだ。
「ちょっと、うちは家族関係が複雑でね。話すと長くなるんだけど、いいかな?」
狼くんは頷いた。何も言葉にしないその様子が、僕の背中を押してくれた。
「えっと……何から話せばいいか迷うんだけど。まず、今の白崎家は、お父さん、僕、弟、で成り立ってるんだ。上に姉と兄もいるんだけど、歳が離れてて、成人してるから、近くのマンションでそれぞれ一人で暮らしてる」
「へえ。兄弟多いんだな」
「そうだね……そうなんだけど、まずここに複雑さがあって。僕と弟と、姉と兄、は血が繋がってないんだ」
話し始めたのは自分なのに、こんなことを話してしまっていいんだろうか、という不安が渦巻いてきた。話の順序を考えている間に狼くんをちらっと見ると、まったく気にしていない顔で真剣に話を聞いてくれていた。
「……父親が三十の時に母親と結婚して、上二人はその時の連れ子で。その後にすぐ僕が生まれて、小さい時は可愛がってもらえたんだけど、弟が生まれてからそっちばっかり構うようになって。……でも別に、寂しくはなかったんだ。家族もそうだし、周りの人達も僕を相手してくれて、遊んでくれたから」
「なんで変わってったんだ? タイトは嫌われるような性格じゃねえだろ」
「あ、ありがとう。うーん……本人からは何も聞かされてないから、あくまで僕の推測なんだけど。弟は、スポーツとか、芸術とか、そういうのにすごく才能があるんだ。サッカーを習ってるんだけど、毎試合ゴールを決めちゃうぐらい、すごい活躍してたり、図工の授業で描いた絵がコンクールで金賞を取ったり。ほんとに、すごいんだ。それに対して、僕は勉強以外は取り立てて何ができる訳でもなくて。まあ、可愛がられないのも納得……っていうか」
「違えだろ」
重く滞っていた空気が、狼くんの声によって一瞬で引き締まる。
「良くねえのはタイトじゃなくて、タイトの頑張りを見てなかった母親だろうが。俺が言うことでもねえけど、人にはそれぞれ得意なもん苦手なもんがあんだから、それを踏まえた上で向き合わなきゃいけねえ。……それに、子どもの時なんか何したっていいんだよ。親は褒めるためだけにいる。俺はずっとそう思ってる。その女には悪いけど、子どもを褒めねえ時点で親失格だな」
「……っ」
彼の言葉は心の奥深くまで入ってきた。深海に垂れる一筋の光のように、真っ直ぐで、眩しいほどに明るい。僕の張り詰めた心は、思わぬ形で溶けていった。
「……ふっ……ふふっ……ふふふ」
「? 何笑ってんだよ」
「い、いや、狼くんは僕の母親を見たことないのに、すごい悪口言うじゃんと思って……ふふっ」
「いいだろ別に。腹立ったんだよ。……気ぃ悪くしたんなら、悪かった」
「大丈夫、謝んないで。僕も、同じことを思ってはいたけど、何だかんだ血が繋がってるし、僕のことを産んでくれた訳だし、あんまり大きな声で言えなくて。だから、狼くんがはっきり言ってくれて、すごいスッキリした。ありがとう。……あともう少し、話してもいい?」
「おう」
笑みが溢れたことにより自然と緊張から解き放たれ、安心感を抱き、僕は気が楽になった状態で続きを話すことができた。
「狼くんの言うとおり、人にはそれぞれ得意不得意がある。それを理解していた人達は、たくさん褒めてくれたんだ。でも、それでも穴が完全に埋まることはなくて。……母親は、頭がそんなに良くない人なんだ。普段の言動とか、行動から伝わってくる感じ。だから、勉強をする理由、とか、意味みたいなものが、分からなかったんだと思う。……僕の努力が、あの人には伝わらなかったってこと。悲しいけど、言葉にすると、それだけ、になっちゃうんだよね」
重苦しい話をしているという自覚はある。それなのに、不思議とさっきよりも心は随分軽くなっていた。
「それで、狼くんの質問に対してなんだけど、うちはすごい貧乏、ってほどではないんだ。片親ではあるけど……ああ、えっと……最初の、家族構成の時点で察してると思うけど、両親は離婚したんだ。ちょうど去年の今ぐらいにね。原因は母親の浮気で、ある日学校から帰ったら、母親の荷物が全部無くなってたんだ。やたら露出度が高いワンピースとか、愛用してた香水とかも、全部。リビングの机に『別れてください』とだけ書かれた紙が置いてあって、帰ってそれを見たお父さんが、まだ息子が小さいのに、ってすごい怒って大変だったんだよ。僕もう高校生なんだけどね」
あの時の状況を思い出して、不意に頬が緩む。狼くんも頬杖をつきながら口角を少し上げていた。
「お父さんはうっすら気づいてたと思う。でもどうする術もなかったし、百パーセント子どもの方が大事って言ってくれたから、そのまま一緒に暮らしてる。姉と兄とは一緒に暮らしてないけど、心配だって言って、毎月お金を入れてくれてるんだ。……すごくありがたいんだけど、同じくらいすごく申し訳なくもあって。だから、いつか仕送りしなくても大丈夫だよって言えるように、この学校に特待生として入ったんだ、特待生だと学費かからないからね。少しでも浮かせたくて。だから……結論、貧乏か貧乏じゃないかって言ったら貧乏ではない……けど、気持ち的には? 貧乏……です。い、以上、です」
微妙な着地になってしまい、沈黙が走る。自分がもっとうまく喋れていたら、こんな空気を狼くんに感じさせることがなかったのに、と少し悔やんだ。が、そんな心配は不要だった。
「うわ、じゃあ俺はタイトに勉強教わってて正解だったな」
「え?」
「だってそうだろ。タイトは勉強できない人が嫌いで、俺は元々できなかった。そのまま関わらずにいたら、タイトの中で俺は”嫌い”に分類されてたってことだろ?」
「え……いや、ちょっと待って。そんな、勉強できない人は嫌いですなんて、一言も言ってないよ。それに、話した内容ともちょっとずれてるし……」
「言ってるようなもんだろ。実際母親とかいう女はそれでタイトを理解できずに嫌われてる訳だからよ、あながち間違ってないと思うぜ。だからタイトに言って良かったってことだ」
「…………そう、なのかも」
引っかかる所が多々あるものの、妙に納得してしまった節もあり、僕は狼くんの指摘をそのまま飲み込んだ。
「そんで、その後の話については、俺はなんも言わねえ。俺から聞きはしたけど、貧乏か裕福かなんてどうでもいいし、エピソードとしてタイトの話はすげえ面白かった。ファニーじゃなくて、イン、インタレスティング、ってやつ。それだ」
狼くんは拙い英語で感想を言い、かと思えば勢いよく「よし」と続けて声を発した。
「今度は俺の番だな」
「お、俺の番? 何が?」
「何って、タイトが腹割ってくれただろ。俺も自分のこと全然話してねえからよ、この機会に話しちまおうと思って」
「え、そ、そんな……」
そんな軽い気持ちで話していいのか、と強く思った。だけど、狼くんのことだ。急に話したい気分になったと見せかけて、僕の気まずさを少しでも減らそうとしてくれているんだろう、と察知した。それなら、ここで無闇に止めるのは逆に失礼にあたってしまう。そう思って、彼がしてくれたのと同じように、真剣に聞く姿勢を取った。
「せっかくだから、聞いてみたいな。狼くんがどんな人生を送ってきたのか」
「……別に、大して面白い話でもねえけどな。まあ話すぜ」
興味を示すと、意外にも、狼くんはなんの感情もないような表情でぽつりと言った。何でそんな顔をするのかわからず、考えている間に、狼くんは淡々とした語り口で話し始めた。
心臓が激しく脈を打つ。心拍数が上がっていることを自分でも感じる。鼓動は速くなっているのに、頭から血が抜けていくような感覚を覚える。焦りと恐怖で、体が静かに悲鳴をあげていた。
「いや、言い方が悪かったな、今のは。…………ああダメだ、何て言えばいいのかわかんねえ。くっそ、マナーの本とかちゃんと読んどけば良かったぜ」
「……うん。そうだよ」
僕はうるさい体を押さえ込みながら、事実を告げた。嘘をついたり、はぐらかしたりしても良かったんだけど、狼くんの態度から、茶化そうとしている訳ではないことが感じ取れて、それだけが理由になった。本当のことを言っても、きっと真摯に聞いて、受け止めてくれるだろう、と感じたのだ。
「ちょっと、うちは家族関係が複雑でね。話すと長くなるんだけど、いいかな?」
狼くんは頷いた。何も言葉にしないその様子が、僕の背中を押してくれた。
「えっと……何から話せばいいか迷うんだけど。まず、今の白崎家は、お父さん、僕、弟、で成り立ってるんだ。上に姉と兄もいるんだけど、歳が離れてて、成人してるから、近くのマンションでそれぞれ一人で暮らしてる」
「へえ。兄弟多いんだな」
「そうだね……そうなんだけど、まずここに複雑さがあって。僕と弟と、姉と兄、は血が繋がってないんだ」
話し始めたのは自分なのに、こんなことを話してしまっていいんだろうか、という不安が渦巻いてきた。話の順序を考えている間に狼くんをちらっと見ると、まったく気にしていない顔で真剣に話を聞いてくれていた。
「……父親が三十の時に母親と結婚して、上二人はその時の連れ子で。その後にすぐ僕が生まれて、小さい時は可愛がってもらえたんだけど、弟が生まれてからそっちばっかり構うようになって。……でも別に、寂しくはなかったんだ。家族もそうだし、周りの人達も僕を相手してくれて、遊んでくれたから」
「なんで変わってったんだ? タイトは嫌われるような性格じゃねえだろ」
「あ、ありがとう。うーん……本人からは何も聞かされてないから、あくまで僕の推測なんだけど。弟は、スポーツとか、芸術とか、そういうのにすごく才能があるんだ。サッカーを習ってるんだけど、毎試合ゴールを決めちゃうぐらい、すごい活躍してたり、図工の授業で描いた絵がコンクールで金賞を取ったり。ほんとに、すごいんだ。それに対して、僕は勉強以外は取り立てて何ができる訳でもなくて。まあ、可愛がられないのも納得……っていうか」
「違えだろ」
重く滞っていた空気が、狼くんの声によって一瞬で引き締まる。
「良くねえのはタイトじゃなくて、タイトの頑張りを見てなかった母親だろうが。俺が言うことでもねえけど、人にはそれぞれ得意なもん苦手なもんがあんだから、それを踏まえた上で向き合わなきゃいけねえ。……それに、子どもの時なんか何したっていいんだよ。親は褒めるためだけにいる。俺はずっとそう思ってる。その女には悪いけど、子どもを褒めねえ時点で親失格だな」
「……っ」
彼の言葉は心の奥深くまで入ってきた。深海に垂れる一筋の光のように、真っ直ぐで、眩しいほどに明るい。僕の張り詰めた心は、思わぬ形で溶けていった。
「……ふっ……ふふっ……ふふふ」
「? 何笑ってんだよ」
「い、いや、狼くんは僕の母親を見たことないのに、すごい悪口言うじゃんと思って……ふふっ」
「いいだろ別に。腹立ったんだよ。……気ぃ悪くしたんなら、悪かった」
「大丈夫、謝んないで。僕も、同じことを思ってはいたけど、何だかんだ血が繋がってるし、僕のことを産んでくれた訳だし、あんまり大きな声で言えなくて。だから、狼くんがはっきり言ってくれて、すごいスッキリした。ありがとう。……あともう少し、話してもいい?」
「おう」
笑みが溢れたことにより自然と緊張から解き放たれ、安心感を抱き、僕は気が楽になった状態で続きを話すことができた。
「狼くんの言うとおり、人にはそれぞれ得意不得意がある。それを理解していた人達は、たくさん褒めてくれたんだ。でも、それでも穴が完全に埋まることはなくて。……母親は、頭がそんなに良くない人なんだ。普段の言動とか、行動から伝わってくる感じ。だから、勉強をする理由、とか、意味みたいなものが、分からなかったんだと思う。……僕の努力が、あの人には伝わらなかったってこと。悲しいけど、言葉にすると、それだけ、になっちゃうんだよね」
重苦しい話をしているという自覚はある。それなのに、不思議とさっきよりも心は随分軽くなっていた。
「それで、狼くんの質問に対してなんだけど、うちはすごい貧乏、ってほどではないんだ。片親ではあるけど……ああ、えっと……最初の、家族構成の時点で察してると思うけど、両親は離婚したんだ。ちょうど去年の今ぐらいにね。原因は母親の浮気で、ある日学校から帰ったら、母親の荷物が全部無くなってたんだ。やたら露出度が高いワンピースとか、愛用してた香水とかも、全部。リビングの机に『別れてください』とだけ書かれた紙が置いてあって、帰ってそれを見たお父さんが、まだ息子が小さいのに、ってすごい怒って大変だったんだよ。僕もう高校生なんだけどね」
あの時の状況を思い出して、不意に頬が緩む。狼くんも頬杖をつきながら口角を少し上げていた。
「お父さんはうっすら気づいてたと思う。でもどうする術もなかったし、百パーセント子どもの方が大事って言ってくれたから、そのまま一緒に暮らしてる。姉と兄とは一緒に暮らしてないけど、心配だって言って、毎月お金を入れてくれてるんだ。……すごくありがたいんだけど、同じくらいすごく申し訳なくもあって。だから、いつか仕送りしなくても大丈夫だよって言えるように、この学校に特待生として入ったんだ、特待生だと学費かからないからね。少しでも浮かせたくて。だから……結論、貧乏か貧乏じゃないかって言ったら貧乏ではない……けど、気持ち的には? 貧乏……です。い、以上、です」
微妙な着地になってしまい、沈黙が走る。自分がもっとうまく喋れていたら、こんな空気を狼くんに感じさせることがなかったのに、と少し悔やんだ。が、そんな心配は不要だった。
「うわ、じゃあ俺はタイトに勉強教わってて正解だったな」
「え?」
「だってそうだろ。タイトは勉強できない人が嫌いで、俺は元々できなかった。そのまま関わらずにいたら、タイトの中で俺は”嫌い”に分類されてたってことだろ?」
「え……いや、ちょっと待って。そんな、勉強できない人は嫌いですなんて、一言も言ってないよ。それに、話した内容ともちょっとずれてるし……」
「言ってるようなもんだろ。実際母親とかいう女はそれでタイトを理解できずに嫌われてる訳だからよ、あながち間違ってないと思うぜ。だからタイトに言って良かったってことだ」
「…………そう、なのかも」
引っかかる所が多々あるものの、妙に納得してしまった節もあり、僕は狼くんの指摘をそのまま飲み込んだ。
「そんで、その後の話については、俺はなんも言わねえ。俺から聞きはしたけど、貧乏か裕福かなんてどうでもいいし、エピソードとしてタイトの話はすげえ面白かった。ファニーじゃなくて、イン、インタレスティング、ってやつ。それだ」
狼くんは拙い英語で感想を言い、かと思えば勢いよく「よし」と続けて声を発した。
「今度は俺の番だな」
「お、俺の番? 何が?」
「何って、タイトが腹割ってくれただろ。俺も自分のこと全然話してねえからよ、この機会に話しちまおうと思って」
「え、そ、そんな……」
そんな軽い気持ちで話していいのか、と強く思った。だけど、狼くんのことだ。急に話したい気分になったと見せかけて、僕の気まずさを少しでも減らそうとしてくれているんだろう、と察知した。それなら、ここで無闇に止めるのは逆に失礼にあたってしまう。そう思って、彼がしてくれたのと同じように、真剣に聞く姿勢を取った。
「せっかくだから、聞いてみたいな。狼くんがどんな人生を送ってきたのか」
「……別に、大して面白い話でもねえけどな。まあ話すぜ」
興味を示すと、意外にも、狼くんはなんの感情もないような表情でぽつりと言った。何でそんな顔をするのかわからず、考えている間に、狼くんは淡々とした語り口で話し始めた。
