特待生くんは不良集団の勉強係

「おじゃましまーす……」

「言わなくていいぜ誰もいないから。洗面所あっちにあるから、先に手でも洗っといてくれ。その荷物は適当に置いとく」

「あ、ああうん。ありがと」



 狼くんはそう言って、僕の腕から鞄を軽々と取り、廊下を右へ歩く。僕はなんでこんな靴で来てしまったんだ、と自分自身を責めながら、底の擦れ始めたコンバースを端の方に置く。そしてさっき狼くんとは反対の左へ、長い廊下を幾度も迷いながら進み、どうにか洗面所へ辿り着いた。

 いかにも高そうなハンドソープで手を洗い、ふわふわなタオルで水を拭き取る。リビングまで歩く間、両手からはずっと蜂蜜の甘い匂いがしていた。しっとりとした手の感触を確かめながら、僕は戦々恐々としていた。



(すごい所に、来ちゃったな)



 狼くんの突飛な提案を受け入れて、僕は今日彼が住まう部屋へとやってきた。学校は閉まっているし、近くの図書館もカフェも彼にとっては居心地が悪いだろう。そう思って渋々賛同したのだけれど、まさかそこが日本有数の高級タワーマンションだったなんて、見当もつかなかった。

 教室の窓から高いなあ、なんてぼんやりと眺めていた場所に、自分が行くとは思いもしなかった。吹き抜けのエントランスホールを通る時も、意識が遠くなるほどに長かったエレベーターの中でも、僕の顔は終始引き攣っていたと思う。一体、彼はあとどれぐらいの隠し球を持っているんだろうか、そう考えると恐ろしささえ感じる。



(うちでやろうか、なんて言わなくて本当に良かった……!)



 こんな所で育った正真正銘のお坊ちゃんが我が家に来たら、なんて考えると身の毛がよだつ。思わず震える体を押さえながら、僕は狼くんの先ほどの発言が気になっていた。



(誰もいないから、ってどういうことだろう。今日は祝日なのに……ご両親はどっちもお仕事なのかな)



 この家を見る限りそう考えるのが普通だとは思うし、今時共働きは珍しいことじゃない。それは分かっているけど、だとしても、さっきの投げ捨てるような言い方に少し引っかかっていた。

 それに、人の家にこんなことを言うのは良くないけど、この家はやけに閑散としていて、生活感とか、もっと言えば人がいる空気さえ感じられなかった。無機質で冷たい。きっと、壁紙とか室温とかだけが理由じゃないと思う。

 そんな風に、勝手な考察をして、疑問ばかりを浮かばせながらリビングに着く。すると、狼くんは腕にお盆を乗せて、優しく膝を曲げながらおもむろにティーカップをローテーブルに置いていた。その所作に浮かんでいた疑念も忘れてほんの少しの間見惚れてしまっていたけど、カップに描かれた鮮やかな薔薇が見えた瞬間意識を戻して、慌てて近づき話しかけた。



「え! いいよお茶なんて、ご馳走してもらいたくて来た訳じゃないから」

「気にすんな、割ってもベンショウしろなんて言わねえよ」

「いや、そういう問題じゃなくて」

「いいから気にすんな。俺がノド渇いたからついでに入れただけだ」

「えぇ……分かったよ」



 強引に話を押し通してくる狼くんに、このまま話し続けても埒が明かないと思って、僕はやむを得ず受け入れてカーペットに腰を下ろした。そっとカップの中を覗くと、琥珀色に輝く液体が穏やかに揺れている。見るだけで気後れしてしまいそうなのに、これを我が物顔で飲むだなんてできる訳がない。よほど喉が渇かない限り口に含まないようにしようと決意していると、狼くんの方から今日の本題を言ってきた。



「で、ベンキョウするんだよな、今日は」

「! そ、そうだよ。本来の目的はそれだから。嫌かもしれないけど、今日やるかやらないかで結果が変わってくるからね! 一緒に頑張ろう」

「あいよ。カクゴは決まってるからな、今さら嫌とは言わねえぜ」



 余計なことを考えすぎて、危うく本来の目的を忘れるところだった。急いで軌道修正しなければと空回り気味の僕に、狼くんは怠そうに腕を伸ばしながら、いつもの様子で軽く返事をした。その変わらない姿勢に安心しながら、それなら早速、と僕は近くに置いてあった鞄を開いて、詰め込んできた教科書の山を机に勢いよく置く。軽く十五冊はあるだろうか。さっきの発言とは打って変わって、憂鬱そうな表情を浮かべる狼くんをよそに、一番上にあった英語を手に取り、付箋が貼ってある箇所までページを捲った。



「よし、まずは英語からやろう。狼くん苦手だもんね」

「違う国の言語を学ぶ意味が無えからな」

「英語嫌いの人のテンプレみたいなこと言わないで。英語を知る目的はないかもしれないけど、今の狼くんは中間試験で良い点数を取ることが目的でしょ? だったらやらなきゃ」



 そう説得してルーズリーフを狼くんの前に置き、筆箱のファスナーに手をかける。いつもより多めにペンを仕込んで開けづらくなったそれをどうにか開けて、僕はクルトガを手に持ち、狼くんにはドクターグリップを渡した。カチカチというノック音を最後に、居間にはしばらく、シャーペンが紙を擦る音と僕らの声が交互に響いていた。



「……そうそう、この文の主語は人だから、関係代名詞はwhoになる。なんだけど、この場合主節が過去形になってるから、時制の一致で関係代名詞節も過去形にしなきゃいけないんだよね。だから、isじゃなくてwas」

「すまん、もう一回言ってくれ」

「うん、いいよ。ここの、最初のかたまりが過去形でしょ? ほら、動詞がseeじゃなくてsawになってる。こういう時は……」



 思っていた以上に、すごく、順調に進んでいる。心の中でそう思っていた。

 正直、俺の家でやろうぜ、と言われた時、僕は疑っていた。すごく疑っていた。狼くんのことは信頼はすごくしているけど、信用はまだしきれていなかったからだ。本人には絶対に言えないけど、今の僕の正直な感情はそうなる。

 狼くんは優しい。それが僕の認識だ。覆ることはない。だけど、まだ知らない一面がたくさんあるんじゃないか、とも同時に思っている。彼はどこか危なさというか、危険な空気を纏っているのだ。情けない話だけど、僕は彼に会う時、今日こそは一発もらうかもしれない、なんてことを自然と考えてしまっている。

 それに、赤点を回避したい、という思いに報いるように、かなりスパルタな指導をしているという自覚がある。そんな、いつ逆上されてもおかしくないという状況だからこそ、すごく怖い。玄関に足を踏み入れた瞬間、後ろから首に腕を回されて窒息死しないだろうか、などという過剰な妄想をしすぎたせいで、昨日の夜は寝付くまでに時間がかかった。教える側が睡眠不足だなんて聞いたことがない、と自分に呆れてる間にも、瞼はどんどん下がっていく。



「……い、おい。どうすんだよこういう時は」



 狼くんの声にハッと我に返る。



「あ、ああ、ごめん。ボーッとしてた」

「珍しいな。タイトがそうなるなんて」

「ああ……ちょっと、睡眠不足なだけ。体調悪い訳じゃないから、全然。大丈夫だよ」

「さっきから水分取ってねえだろ。俺が入れたやつ飲めよ」

「そ、そうだね……」



 言われてみれば、頭が少しクラクラとする。時計を見ると、長針はすでに二周していた。



「こんな高そうなの飲んだことないからさ、ちょっと気後れしちゃってたっていうか……怖かっ、た? っていうか」

「高くねえよ別に。ふつうにスーパーで買ったやつだぜ」

「あっ……そうなんだ」



 喋れば喋るほど墓穴を掘っていくように感じて、居た堪れなくなった。そして、これらの感情を全て見透かしているような狼くんの目を、途端に見れなくなった。



「……前から思ってたことで、他意がある訳でも弱みを握りたい訳でもねえただの質問なんだけどよ」



 珍しく丁寧に前置きをして、狼くんは”質問”をしてきた。



「タイトの家って、貧乏なのか?」