セイシュンの3乗。

 気持ちのいい風が吹いている。軽やかな落ち葉は踊るように空を舞い、地面へと着地する。雲はゆっくりと流れ、今太陽に覆い被さった。平和という言葉が似合うこの情景。それを邪魔する存在が、いる。



「タイト、ジュクゴって何だ」「タイト、ルートって何だ」「タイト、バクマツって何だ」

「……今は……! 聞か、ないで……!」



 拙い持ち方で鉛筆を握りプリントと睨めっこをする狼くんと、スクワットに必死で簡単な質問にすら答えられていない僕。その異様すぎる光景に、木の枝に止まったばかりの小鳥が、驚くべき速さで彼方へと飛んでいった。



(なんで、こうなったんだっけ……!)



 先日の感動的な対話からは想像がつかないほどのカオスっぷりに脳が混乱して、記憶が曖昧になっている。その記憶を取り戻すためにも、スクワットの辛さから目を背けるためにも、僕は事の発端を思い出していた。



***



「持って……来たよ……!」



 軽く昨日の倍の厚さはあるであろう束を必死に抱え、腰を曲げながらベンチへと辿り着いた僕を待っていたのは、僕とは正反対のもの。だらんと体を伸ばしてベンチに居座っている狼くんと、その手に握られている一枚の紙切れだった。楽そうな格好に少しジェラシーを感じたけど、だからといって勢いのままに体を動かしたらどこかの神経をやってしまいそうで、立ったままでいた。だけどこのままではこの束を渡せない。どうにか膝と膝がくっつくぐらいまで近づき、狼くんと向き合って、僕は勢いよく束を渡した。



「すげえな。一日でこんな作ったのか」

「まあね……自分の、復習にもなるし……!」



 こんなことで息を切らしてしまう自分に呆れつつ、けれども平静を保つこともできず、途切れ途切れに言葉を発しながら狼くんを見た。渡した紙束は重かったはずなのに、彼は軽々と片手に乗せて、もう片方の手でぺらりとした紙切れをこちらに寄越した。



「ん」

「ん……?」



 何だこれは、と脳が思考する前に、その紙は僕の手の中に収まっていた。無理やり押し付けられたということだ。

 ノートの一ページを破ったんだろうな、と容易に想像がつく中途半端な形と、それを助長しているような雑な二つ折り。中に何が書かれているのか、何も推測できないからこそ怖く、恐る恐る開いた。



 腹筋50回

 スクワット50回

 プランク1分×3回

 腕立て伏せ30回



 紙には、罫線をことごとく無視した大きな字で、そう書いてあった。



「何、これ」



 僕は息をつく間もなく、尋ねた。



「俺が毎日やってる筋トレのメニュー。を、タイトの体格を考えてシューセイしてみた」



 狼くんはすぐに答えた。率直すぎて、その二言だけでは理解できなかった。



「えぇっと……僕のために、書いてきてくれた、ってこと?」

「ああ。そこにかいてあるの毎日やれば、とりあえず筋肉つくと思うぜ。ムリにとは言わねえけど」

「……」



 僕は少しの間固まっていた。狼くんがそんなことをしてくる人間だとは、とても思えなかったからだ。何が彼に変化をもたらしたのか、素直に聞いてみることにした。



「こういうの、書くんだね。意外。てっきり、俺は拳で教えるぜ、って言うと思ってた」

「あ? あー……それはその、タイトが、かいてきたから……な」

「え……」



 俺も真似してみたんだよ。俺もやらねえとって思ったからな。

 狼くんは口にしなかったけど、そんなことを言いたいんだろう、と僕にはその”続き”が透けて見えた。別に見返りを求めて作った訳では無いのだけど、狼くんの行動には人情や漢気のようなものが沁みていて、すごくかっこいいなと思ったから、有り難く受け取ることにした。



「ありがとうね。続けるよ、毎日」

「いいんじゃね」



 頭をがしがしと掻く狼くんの耳は、ほんのり色づいていた。それを目ざとく見つけた僕の頬も、きっと少し染まっている。何だかこそばゆい空気に、狼くんは早々に白旗をあげた。



「よし」



 狼くんは束をすぐ横に置いて、声を出しながら膝に手をついて立ち上がった。そのまま両手を腰へと回して、堂々とした仁王立ちで僕を見下ろす。僕と狼くんとの距離は、狼くんが立ったことによって一段と近くなった。



「殴ってみろ」



 強請りにも見えるこの状況で、そんなことを言うものだから、僕は困惑や恐怖などという感情を、もはや感じなかった。



「……こうやって、喧嘩に誘っているのか「ちげえよ」 



 違う次元へと飛びそうになった僕の思考を、狼くんは瞬時に止める。



「どんぐらい力があんのか、筋肉があんのか。殴る時のフォーム、手の大きさ、骨の形。話きくよりも、ジッサイに体で示した方がわかりやすいんだよ」



 いかにもな不良節を漂わせつつ、彼なりの考え方を教えてくれた。

 そういうことならと、僕の拳に力が入る。少しでも強く見せたいという年頃の男子ならではの考えがはたらき、向こうの掛け声も待たず不意打ちを狙って、彼の腹に一撃を入れた。

 あまりの衝撃に狼くんは耐えきれず倒れ……てはいない。むしろその逆だ。僕の攻撃には全くと言っていいほど威力が無く、例えるならばそう、ぽむち、という音が似合うような突きだった。



「……まじか」



 少しの間の後、狼くんは小さな声でそう呟いた。彼は全くもって微動だにしていない。卑怯とはいえ、腹に直撃させたのだ、彼の筋肉と体幹の強靭さだけが理由になる訳では、ない。



「うぅ……!」



 恥ずかしさとか、情けなさとか、色々な感情が押し寄せて、僕は立つこともままならずうずくまった。……こんな時に言うことじゃないけど、実は、去年の身体測定で軒並み女子の平均よりも低い数値を出してしまったことに衝撃を受けて、ここ一年間握力やら腕力やらを鍛え続けていた。だからこそ、さっきの突きはそれらが意味を成していなかったことを証明していて、同時に落胆していた。



「そんなんでめげてたら始まんねえぜ」



 落ち込む僕に、狼くんが声をかけてくる。



「自分の力が今どれぐらいなのか、それを知った時点で昨日よりか強くなってるよ、タイトは」



 彼なりの真摯な励ましが、僕の心を幾分か軽くさせた。伏せていた顔を上げると同時に、狼くんはほらよ、と僕の目の前に紙パックを差し出した。おいしい牛乳、とそこには書いてあった。



「好きなんだろそれ。おとといも昨日も食ってたから」



 今も持ってるしな、と狼くんは僕のブレザーのポケットを指差す。そこには透明な”それ”が見え隠れしていた。僕は思わずそれを取り出す。少し潰れたそれからはクリームがはみ出ていた。

 やっぱり、と言う彼に、僕はありがと、と素直に感謝を伝える。完全に存在を忘れていた。狼くんが言ってくれなかったら、きっと袋の中がクリームまみれになっていた。

 でも、僕としては、狼くんからもらった牛乳の方が大事だった。だからそれを地面に置いて、改めて牛乳に向き合って、もたもたと袋からストローを取り出して、刺して、吸い込んだ。同じ味のはずなのに、今までで一番甘さを感じた。地面に置いていたそれがいつの間にか狼くんの手に渡っていて、そしていつの間にか食べられていることも知らずに、僕は夢中になって牛乳を飲んだ。



***



(そんな……時も、あったな……!)



 脚を小刻みに震わせながら、僕はつい二週間前の出来事を思い出していた。現実に戻ったと同時に目標のスクワット五十回をやり終えて、すぐさま膝に手をついてゼエゼエと息を切らした。

 学校でスクワットをしている理由。それは、一言で言うならば、RTAを狙った結果、である。できるものは学校で終わらせてしまいたい、と効率を優先してしまった成れの果て。狼くんに指示してもらったメニューの中で、唯一外でもできそうだったのがこれだった。他人の目などは気にしていられない。今はとにかく、必死に回数をこなさないといけない。



「こっちも終わったぞ」



 息を整え終わった僕に、狼くんは眉間に皺を寄せ、プリントを注視したまま、声をかけてきた。



「ほんと? じゃあすぐ採点しちゃうね」



 僕はそう言い、シャツの胸ポケットから赤いボールペンを取り出して、彼の隣に座った。プリントを自分の太腿に置いて、頭の中にある模範解答をもとに、ペンを動かしていく。相変わらず罰は多いままだった。丸が二割、三角が一割弱、といったところだろうか。



(あんまり正答率上がらないなあ)



 心の中でため息をついた。先週から始めた、この泰兎お手製小テスト作戦。各教科を満遍なく、計三十問を毎日解かせているのだけど、点数が上がる気配は全くない。ポケットからスマホを散り出して、カレンダーに今日の点数を記録した。四月二十四日、九点。



「……狼くん、提案なんだけどさ」



 前々から頭に浮かんでいた苦肉の策をついに実行する日が来た、と思い、僕は体を横に向けて、狼くんと目線を合わせた。



「ゴールデンウィークに、勉強会、しない?」



 もちろん予定が無ければなんだけど、としっかりと後付けした上で、尋ねた。

 正直、かなり焦っていた。このままでは結構、いやめちゃくちゃにまずい。試験まであと一ヶ月を切っている今、どうにか正答率を四割まで引き上げたい。いや、欲を言うなら五割まで。

 そこで考えついたのが勉強会作戦だった。半強制的ではあるけど、勉強しかできない環境を狼くんに与えることで得られる効果は、きっと大きい。自分も同時に勉強することができるし、何より一度に集中して教えるというやり方の方が、僕の性分に合っている気がする。そう考えると、俄然やる気が出てきた。



「いや、やるっつったって、どこでやんだよ」



 燃える僕に、狼くんは素朴な疑問を呈した。想像していた返答と違ったがために、僕は思わずぽかんとした顔を向けてしまった。



「え、ここでだよ? 図書館開いてるでしょ? あ、他の人が気になるんだったら、空いてる教室でもいいけど「開いてねえよ」

「……え?」

「知らねえのか? この高校はゴールデンウィークとか、夏休みとか冬休みとか、そういう長期キュウカの時は一切開けてねえ。図書館もだ。ケイビの人がいなくなるからとか何とかで、俺みてえな奴が悪さしないように、ってのが見解? らしいぜ。意味ねえけどな」

「……そ、そうだったんだ……」



 あっさりと話す狼くんの話を、僕は半分も聞けていなかった。知らない情報が多すぎて自分に嫌気がさす。きっとこの件だって、普通に友達がいて放課後を学校で過ごしていたのなら、当たり前に知っていたのだろう、普通にいたのなら。



(……たしかに、去年は図書館なんて、授業でしか行かなかったもんな。放課後になったら逃げるようにして家に帰ってたし……なんか、なんだろう、ちょっと胸が……苦しい)



 理由は分からず、でも確かに心の中に、鈍い痛みがあった。ちくちくと心を蝕んでいくようで、だんだん呼吸がしづらくなる。助けを求めるように、狼くんを見た時だった。



「あ、じゃあよ」



 彼の口が開いて、思いもよらぬアイデアが飛び出してくる。



「俺の家でやんのはどうだ?」

「え…………え?」



 僕の眉が八の字に吊り下がる。この異様な空気に、野次馬のように先ほどの鳥が舞い戻ってきた。