セイシュンの3乗。

 翌日。四限の終了と昼休みの到来を知らせる鐘が鳴り終わらないうちに、中間試験対策プリント!! と書いた分厚い紙束を持ちながら、僕は教室を出た。

 購買で人混みに揉まれている時も、握る手の力を緩めることはなかった。貴重な睡眠時間を削って作ったものだ。付け焼き刃とは言え、必ず満足しました、ありがとうございますと言わせてやる、と徹夜が生み出す奇天烈な情緒を育みながら、ズンズンと裏庭へ闊歩した。

 きっと彼はまだ来ていない。来るまで腹ごしらえでもしていよう、なんて考えながら重い扉を開け、左に曲がる。いつものベンチには、気怠そうにだらんと足を伸ばして座る彼……狼くんの姿があった。狼くんはすぐ僕に気づき、声をかけてきた。



「よお」

「……」

「なんだそのビミョーなカオは」

「してませんよ」

「ません?」

「うっ……してないよ」

「よし」



 もしかしたら忘れているかもしれない。そんな微かな期待を持って敬語で話してみたけど、やはり狼くんに突っ込まれてしまった。慣れないタメ口で話す僕に狼くんは満足したように頷いて、左手でベンチを二回叩く。ここに座れという合図だ。選択の余地などなしに、隣に腰を下ろした。



「どうせ来ないとか思ったんだろ。さっきのカオでわかるぜ」

「うん。正直」



 思いきって正直に答えると、狼くんはハッ、と小さく笑った。



「ヤクソクはやぶらねえよ。俺から言ったことだしな」



 シャツの第一ボタンを開けた状態で言われても説得力が無いなあ。そんなことを思った。もちろん声には出さなかったけど。

 そんなことより、これを渡さなければいけない。座っているから多少ましではあるけど、朝からこれを背負って学校まで来たんだ。そろそろ僕の運動不足の体が限界を迎えてしまう。そう感じて、浅い深呼吸をしてから、本題に入った。



「作って、きたよ」



 タメ口の恥ずかしさを隠すように、押し付けるようにして狼くんの太腿に紙束を置く。



「時間がなかったから基礎部分しかまとめられなかったけど、国数理社英、五科目あるから。それさえ頭に入れておけば赤点は免れるんじゃないかな」



 熱くなった顔を隠したくて、俯きながら早口で説明を終える。さぞ感動しているだろう、というかそうじゃないとこちらに対する対価がない、と思いながら狼くんの顔を覗き見ると、彼は紙束を見ながら、固まっていた。



「き、聞いてる?」

「……あ、ああ。わりい。ほんとに作ってくるとは思わなくてよ」



 狼くんは呆気に取られていた。僕としてはただ彼が怖かったから作った、という単純な理由だったのだけど、それを狼くんに伝える訳にもいかないから、話さないでいた。だからなのだろうか、狼くんはこのプリントの存在が信じられていない様子だった。



「……今まで、ヤクソクをやぶられたことの方が多かったからな。今回だって俺が勝手にたのんだことだし、どうせなんもしてこねえ、なんならもう来ねえんじゃねえかって思ったよ。だからイガイに思ったってだけだ。あんがとよ」



 狼くんは何やら不穏なことを話した。その内容も、最後の無骨な感謝の言葉も、僕は全く気にすることなんてできなかった。僕の思考は、狼くんの言葉をきっかけに、一人歩きしていた。



(あれ……? そうじゃん、作ってこいなんて一言も言われてないじゃん。教えてほしい、って言われただけで、ただ心得を聞きたかっただけなのかもしれないし。それなのにこんな厚すぎるプリントなんか作ってきて……重いな、僕)



「おい、何ぼーっとしてんだよ」



 自己嫌悪に陥っていたところに狼くんの声がして、ハッと意識をもとに戻す。彼に不思議がった顔を向けられて、僕は気づけば口を開いていた。



「……僕の方こそ、来ないと思ってたよ。本当に。今までにこういう機会が無かったっていうのもそうだけど……今日みたいに、勝手に自分で解釈して行動に走っちゃうってとこが僕の悪い癖なんだ。相手はそれを望んでないかもしれないのに……ほんとに勝手に、全部が相手のためになると思っちゃって。……そ……ういう人間だから、周りもあまり関わろうとしない」



 一度話し出すと、今までの躊躇いは何だったのかと疑うほどに、スラスラと言葉が溢れ出てきた。



「今日のことだって……狼くんも言ってたけどさ。作ってこいなんて言われてないんだよね。勉強を教えてほしいと、明日もここに来るからと、忘れるなよだけで……それだけの台詞から僕は勝手に想像して、ああ作った方が良いのかなって「うれしいよ」



 制御できなくなっていた僕の口を、狼くんが止めてくれた。



「イガイに思っただけでイヤなんて一回も言ってねーし何ならうれしいし。俺のために何かしてくれる人がいたんだ、って」



 自分でもわからないけど、なぜか、今の狼くんの言葉を聞き逃してはいけないと思った。だから僕は必死に、彼の言葉に耳を傾けた。



「良いんじゃねえの、そのセイカクのままで。やらないぜんよりやるぎぜん、みたいなのあるだろ。知らねえけど」



 やらない善よりやる偽善。その言葉の存在はもちろん知っていた。けれど、人に励ましとして言われたのは初めてだった。

 特別心が弾む言葉、という訳ではないけど、意味を知らない人間から言われたそれには、不思議と力を感じた。



「……そうだね。そう思うことにするよ」



 ありがとう、と真正面から感謝を伝える。おー、という気の抜けた返事をしながら、狼くんはプリントをパラパラと捲る。その仕草や言動に、勝手に抱いていた印象の皮が少し剥がれる音がした。



(……思っていたより、怖くないのかもしれない。それどころじゃない。知ってる人が少ないだけで、本当は優しくて、器が広くて、すごく格好良い人なのかも)



 まだ知り合って一日しか経っていないし、彼の本性は知らない。けれど、僕を励ましてくれた姿が偽物だとはどうにも思えなくて、きっとこれが彼の潜在的な一面なんだろうと思った。荒々しいけどどこか温かい。静かに温もりを感じていた、そんな時だった。



「すまん…………ぜんぶ、わかんねえ」

「へ?」



 狼くんはばつが悪そうな顔をしながら、そう告げてきた。今裏表紙を見ているということは、全てのページを見終わったということだろう。その上で、彼はわからないと言っている。



「わ、わからない? どこら辺が、とかじゃなくて、ぜ、全部?」

「……ああ」

「そ、そんな……」



 この学校のレベルは平均よりも低い。僕はそれを十分に理解した気でいた。



 自分で言うのもなんだけど、僕は生まれつき頭が良かった。中学は公立に通っていたけど、先生からも難関校ばかりを薦められる程には、優秀だった。だけどそれを蹴って、この高校を受験して、今の特待生という肩書きを手に入れた。わざわざそうする理由が僕にはあったから、そうした。

 だからこそ……嫌な言い方になるけど、僕には「勉強ができない人」を理解することができていなかった。



(どうしよう)



 これは完全に僕の落ち度だ。彼に寄り添うふりをして、結局は僕の自己満足に過ぎなかった。狼くんがどういう分野が苦手で、今どれくらいのレベルで、どれくらいまで点数を上げたいのか、そういうことを先に聞いてからでないと成り立たないのに、頼ってもらえたという嬉しさばかりが先走って、早まってしまっていた。



「すまん。せっかく、作ってくれたっていうのに」



 狼くんの表情に罪悪感が滲み出ている。それを見て僕は、より一層自責の念が強まる。



「大丈夫だよ。こっちこそ、ごめん。もっと基礎的なところから始めようか。そのプリントは狼くんに渡すし、今日のよりも簡単にしたもの、明日また持ってくるよ」



 狼くんからねだられた訳でも、僕の考えすぎでもない。これはせめてもの罪滅ぼしだ。

 こうなってしまった以上、何の成果もなしに終わらせる、なんてことは絶対できない。自分ができる限りのことをして、狼くんの成績を向上させる。そうして初めて、努力は報われるし、罪を消すことができるだろう。



「……お前、いい奴だな」

「ん? ごめん、何か言った?」

「いや。何でもねえ」



 意気込むことに必死になっていて、狼くんが何を言ったのかはわからなかった。狼くんの口角が少し上がっていたことにも、気づかなかった。