セイシュンの3乗。

 燦々と照る太陽が木漏れ日をつくる、四月九日の昼休み。購買で買った牛乳パンを、学校裏のベンチで開けた。

 近くに人はいない。外で昼を食べる生徒は中庭か屋上かで完全に分かれているから、こんな古びたベンチ二つと、渋い品揃えの自動販売機と、”物静かな特待生くん”がいるところには、誰も寄ってこない。

 だから物静かな特待生くん……つまり僕だ。僕は蟻の行列を見ながらパンを齧っていた。その群れを見るか、時折やってくるスズメにパンの欠片をあげるくらいしかやることがないからだ。いわゆるぼっちというやつ。

 ちょうど一年前の夏あたりから、ここで昼を食べ始めた。クラスに雑談を交わせるような友達はいないし、かといって教室の中で一人で食べる勇気もない。外に出るといっても、さっき言ったような中庭や屋上はハードルが高い。残されていたのがこの場所だった。だからここで、毎日牛乳パンを食べている。

 味にも、食感にも、とっくに飽きている。一年近く食べ続けているから当たり前だ。でも、骨を丈夫にするには、カルシウムを摂る必要がある。そして、カルシウムを摂るには、牛乳を摂る必要がある。背を伸ばしたいという思いからつながっているこの食事は、どうにも辞めることができなかった。

 甘いクリームを頬張り、ジャリッとした砂糖を口の中で噛みしめながら地面を見ると、列に遅れ必死に追いつこうとしている一匹の蟻が見えた。その必死さや慌てる姿が自分のように思えて、がんばれ、と心の中でエールを送る。すると、不意に地面が暗くなった。



「なあ」



 いや、影ができた、という方が正しい。随分アンナチュラルな現象だなあ。そんなことを考えながら、脊髄反射のように自然に、頭上から降りかかってきた声に向かって顔をあげた。



「俺にベンキョウ、教えてくれねえ?」

「……」



 この状況を理解するまでに三秒。誰なんだろうと推測するのに六秒。わからないという結論が出るのに一秒。計十秒の沈黙の間に、彼の問いへの答えを用意することはできなかった。



「ベンキョウ。キョウカショモクモク読んでペンでカリカリするあれ。教えてほしいんだけど」



 聞こえていないと思ったのか、無視されたと思ったのか、どっちだろうと関係ないと言わんばかりに、彼はもう一度問いを投げかけてきた。長い足を見事なまでに開脚して、座っている僕に視線を合わせてくる。否が応でも目が合ってしまい、その瞳から伝わる圧に、どうしても勝つことができなかった。



「だ、誰……ですか?」



 面倒臭い雰囲気は感じていた。聞こえないふりをするとか、叫びながら校舎の中に逃げ込むとか、やり方はたくさんあったと思う。

 でも、この学校に入って、授業以外で誰かから話しかけられたのは初めてだったから……嬉しさの方が上回ってしまった。だから、彼との会話を試みた。



「三組の雪岡狼。トクイなのはケンカ。苦手なのはそれ以外」



 ユキオカロウ。後の不穏な言葉は置いておいて、その名前には聞き覚えがあった。なぜ聞き覚えがあるのかって、簡単だ。彼があまりにも有名すぎるから。

 もともとこの高校には不良が多い。それを取り締まるために生徒会やら教師やらがあの手この手を使っているが、それすらも跳ね除ける規格外に強い人物は何人かいる。生徒たちは彼らを恐れて、狂人会という俗称を付けていた。そして彼がその狂人会の筆頭であるという噂を僕は耳にしていたから、普通に会話をしているように見えても、内心は震えていた。今だって、生まれたての子鹿のように震えてしまいそうな足を必死に止めている。



「かっこいい、名前ですね」「次」



「……はい?」

「俺がジコショーカイしただろ。次はそっちの番」

「……」



 何だか、さっきから一回もまともなキャッチボールができていない気がする。狂人会のメンバーは、いや不良っていうのは、こんなに自由でマイペースな生き物なんだろうか。

 それとも、あれか、僕が学校内の人とほとんど喋らないから知らないだけで、今の男子高校生の会話ってこういうものなんだろうか。全てを言わなくても理解してくれるかけがえのない親友という存在がいるからこそそういう話し方になっている訳で……もしかして、遠回しに友達がいないことを貶されているのか!?

 なんて、相手の一言からここまで連想してしまう僕の脳みそは、我ながら達者だと思う、良くない意味で。

 

「白崎泰兎です。一組です。……よろしく」



 長く考えた挙句、結局僕は、逆らうことも理由を聞くこともできる訳がなく、大真面目に自己紹介をしていた。

 でも、彼の言動に従ってしまったのは、彼がその狂人会の一員だから、という理由だけではない。彼が有無を言わせない見た目をしていたからだ。百八十は絶対に超えているであろう大きな体と、地毛とは思えない派手な色の髪。加えて鋭い目つきと、時折見える尖った歯。見た目で人を判断することは良くないけれど、彼はこの外見すらも利用して自分の意のままとしているのだろうと、一連のやりとりを通してそう感じた。



「どうやって書くんだタイトって」

「えっと……安泰の泰の字に、兎です」

「アンタイ……よくわかんねえけど、ウサギね。おぼえた」



 ああこれ、絶対変に覚えられたなあ。そう思ったけど、撤回するのも面倒だし怖いしで、何も言えなかった。

 それよりも、僕が気になっているのは理由だ。彼がここに来た理由。

 僕がこの場所を使い始めてから今日までの間で、ここを使っている人はおろか、通り過ぎる人すら見たことがない。おそらく知らない生徒の方が多いんじゃないだろうか。そんな隠れたスポットであり、僕にとっては心のオアシスなのだ。

 そんな所に縁もゆかりもないであろう彼が来るだなんて全く予想ができず、だからこそ勇気を出して、彼が話しかけてきた理由である本来の目的を尋ねた。



「それで、えっと、勉強を教えてほしいんですよね。なんで、僕に?」

「ない」

「ない?」

「理由なんてない」

「……」



 どうしよう。すごく困った。どうやったらこの場から逃げ出せるんだろうかと、僕はそんなことすら考えていた。



 僕の周りにいるのは賢い人間ばかりだ。常に冷静沈着で、常に相手の気持ちを慮って、発言や行動をする。そんな人とばかり接していたからだろうか、こういう会話をスムーズに続けられないイレギュラーな存在と出会ってしまった時の対処法が、わからないままだった。



「クラスにいる奴らがタイトのことをトクタイセイって話してたのを聞いた。頭いいんだろ、トクタイセイって」

「それだけ、ですか」

「ああ。それだけだ」

「……なる、ほど」



 僕は頷こうとしていた。だって、考えさせているように見せかけて、選択肢なんて一つしかないようなものだ。YESと言うことによって自分に与えられる労力と、NOと言うことによって襲いかかってくるであろう悲劇。どちらがより重たく苦しいか、そんなことは天秤に乗せなくともわかる。

 だけど少し、ほんの少しだ。僕の中に我儘という感情が芽生えた。いつもならありえないこと。そんなこと考えるな! とすぐに脳には伝えた。だけど、この男だってこんな我儘を言ってきてるじゃないか、自分だって言って構わないのではないか。そんな悪魔の囁きが、僕の耳にはハッキリと聞こえた。僕が勉強を教えるのなら。

 代わりに、喧嘩を、教えてほしい。



 ーー恥ずかしくて、今まで誰にも言ってこなかった悩み。悩みであり願い。

 僕は強くなりたかった。喧嘩という物理的なものとか、単純な体の大きさとか、何もかも認めてあげられる心の広さとか。そういう、全てを包含した”強さ”というものを、ずっと手に入れたかった。



「いいぜ」



 天使の声……ではなかった。目の前にいる男から発せられたものだ。



「いいぜ……? な、何がですか?」

「いや何がって。今言ったことだよ。ケンカ、教えてやる」

「ケンカ、教えてやる…………うえええええ!? え、なんで!? 声出てました!?」

「ああ」



 終わった。単純にそう思った。何でこの口は、大事な時に限って自我が生えてしまうのか。

 ”誰にも言ってこなかった悩み”というのは一番の親友に打ち明けるからこそ許されるのであって、初対面の人間に話していいことではない。流行の波に乗ろうと数々の漫画を読んで、唯一得られた知識だ。それすらも今、朽ち果ててしまった。



「まあたしかに、俺のヨーボーだけをずっと聞いてもらうのもフビョードーだしな。乗ったぜ」

「いや、あの、ちょっと待っ……!」



 一体どこから僕は声を出してたんですか。そんな嘆きの問いが口から出ることはなかった。さっきはあんなにスラスラと動いていたっていうのに、僕の口は肝心な時に役に立たない。



「じゃあ明日もここに来るから。続きは明日な。忘れんなよ?」



 そう身勝手な台詞を残して、開いていた足を閉じ背を向けて歩き出す彼を、僕はただ見つめる。



「あ、あと」



 少し進んでから、彼がはたと足を止めた。やけにエモーショナルな動きでゆっくりと振り向き、こう付け足した。



「呼び方は狼くんでよろしく。ケーゴもキンシな。じゃ」



 終わった。僕は再びそう思った。掲げた右手をひらひらと振り、ブレザーのポケットに入れて今度こそ彼は歩いていく。

 引き止めることなんてできず、彼の後ろ姿を見ながら呆然とした状態で口に入れた牛乳パンは、おそろしいほどに何の味もしなかった。