*
茶封筒の存在を思い出したのは、あれから一週間が経とうとする金曜日のことだった。
今週は忙しくしていた。
お話やはゴミ捨て場じゃないのに、と思ってしまうぐらい、珠美が荷物を運び込んでくる上、それを聞きつけた秋乃さんがちゃっかり使えそうなものをもらいに来たのだ。
それでも、そのおかげで珠美の部屋はすっかり綺麗になったと、感謝の電話が理恵子からかかってきたのは、今朝のことだった。
落ち着いてカウンターに腰を下ろすのは、久しぶりだ。ゆっくり腰を落ち着けて、辺りを見回した時、茶封筒が目に入った。
すっかり忘れていた。すぐにカウンター下に置いていたスタープリンセスの本と茶封筒を取り出す。
改訂前のスタープリンセスはハードカバーの単行本だ。表紙には、散りばめられたいくつもの星の中に可愛らしいお姫様のイラストが描かれている。
「懐かしい」
最後に表紙を見てから、何年経っただろう。
あれは、忘れもしない小学四年生の時だった。大好きなスタープリンセスを、私は毎日学校へ持っていっていた。
友だちの少なかった私は、休み時間にはいつもスタープリンセスを読んでいた。繰り返し繰り返し、何度も読んだ。暗記してしまうぐらい。
私もいつか優しい王子様に出会えるかな、と、あの頃の純粋な私は夢見ていた。
そんな私に、クラスメイトの男の子とちょっとしたトラブルが起きた。
名前はもう覚えていない。席が近くになったこともない。ただムードメーカー的な存在の活発な男の子だったことは覚えている。
あまりしゃべったこともなかったのに、いつの頃からか、その男の子は私にそっけない態度を取るようになっていた。私は内向的で、その態度を受け入れることも、否定することもできない子どもだった。
だから、夏休み前の終業式の日、あの男の子がからかわれているのを見ても、ドアの陰に隠れることしかできずにいた。
『日高が好きなんだろー』
『告っちゃえよ』
『そんなんじゃねーよ』
『すーき。すーき。日高がすーき』
私を好きなんだろと問われたあの男の子は否定したのに、クラスメイトの何人かが大合唱を始めた。
『好きじゃないって言ってんだろ』
あの男の子が怒ると、別の男の子が私の机に引っかけてあった袋から、本を取り出した。スタープリンセスだった。
その男の子はスタープリンセスをつまんで、目の前で揺らした。
『好きじゃないなら、破ってみせろよ』
『そんなんできねーよ』
『やっぱり日高が好きなんだろ。ネクラなネクラな日高がさー』
『やめろよ』
あの男の子は本を奪い取った。私には、本を守ってくれたように見えた。
だから足を踏み出してしまった。上靴のつま先がドアを蹴った。ドンッという大きな音が響いた。
教室の中にいた、数名の男の子の視線が私に集まった。びっくりして身を縮こませた。誰かに見られるだけでも、とても恥ずかしかった。
『告っちゃえよ』
また誰かがそう言った。
私はうつむけていた顔をあげた。あの男の子と目が合った。
すると、彼は顔を真っ赤にしてスタープリンセスの表紙をはぎ取った。そして無言のまま、粉々になるぐらい、何回も何回も重ねて破り捨てた。
教室の中はシンッと静まりかえった。そして、彼は表紙のかけらを握りしめ、ゴミ箱に放り込むと教室を飛び出していった。
私も無言で、表紙を失ったスタープリンセスを抱きしめた。クラスメイトの男の子は『やべーよ』と叫びながら、教室を出ていった。
そして、その日からあの男の子は一度も学校に来ることはなかった。
二学期が始まり、担任の先生からあの男の子が引っ越したことを聞かされた。
私がクラスメイトにからかわれるネクラな日高じゃなかったら、彼が傷つくこともなかっただろう。
怒ってないよって言ってあげられなくてごめんね、と思っていた。今でもずっと思っている。だから私は、表紙のない本を大切にしているのかもしれない。
「ほんと懐かしいな」
スタープリンセスの表紙をなでて、カウンターに置く。そして、茶封筒を手もとに寄せる。
袋をつぶそうとして、小さなふくらみに気づいた。まだ何か入っているみたいだった。
茶封筒の中をのぞくと、透明フィルムの袋が見えた。それを取り出すと同時に、一枚の便箋が出てくる。
半分に折られただけのそれを開く。それは、サクラ柄のとてもかわいらしい便箋だった。
長い文面が目に飛び込んでくる。せいいっぱい綺麗に書いたのだろうと、誠実さの感じられるぎこちない文字が並んでいる。男の人の文字だということは、ひとめでわかった。
_______
日高幸子さんへ
最初に日高さんに謝らなければなりません。ごめんなさい。
はじめてお会いした日、日高さんはスタープリンセスの改訂版を購入されていましたね。
改訂前の本はないのかと調べましたら、たまたまネットオークションに出品されていました。とても好きな本のようでしたので、送らせていただきます。
カフェでお茶をしましょうとお誘いしましたが、どうしても都合がつかず、行けなくなりました。
日高さんはとても誠実な方のようですので、今でも俺を待っているのではないかと気がかりです。もうお目にかかることはできませんが、日高さんにお会いできてよかったと思っています。
お詫びといってはなんですが、ネックレスを同封しました。日高さんに似合うと思います。
それでは。
三月十日 伊坂久史より
_______
ああ……と小さなため息が心の中に漏れた。
伊坂さんにはもう会えないのだという思いと、何か期待していたのだろうかという恥ずかしさからのものだった。
便箋をたたんで、茶封筒の消印を確認した。消印は、三月十七日になっている。手紙を書いてから出すまで一週間かかっている。
レジ横に置いてあるスケジュール帳を開く。伊坂さんとカフェでお茶する約束をしていたのは三月十二日だった。内容からすると、十日には約束が守れないとわかっていたみたいだった。
あの日、私はカフェ・ド・シュシュの前で伊坂さんをずっと待っていた。一時間……二時間と経ち、何かあったかもしれないと心配しつつ、からかわれたかもしれないと、同時に思っていた。
でも違った。伊坂さんはこうして、きちんと手紙をくれていた。数回偶然出会って、少しお話をしただけだったが、やっぱり優しい人だったとわかっただけでじゅうぶんだろう。
カレンダーに視線を移す。今はもう六月。三ヶ月も珠美の部屋に置かれていたようだ。
少し影のある物静かな様子の伊坂さんの姿を思い浮かべた。しかし、彼はどうして私の住所を知っていたのだろう。
珠美の暮らす家は、私の生まれ育った家だ。学生時代の友人は、たまに実家へ手紙を寄越すが、新しく知り合った人にはお話やの住所を伝えている。
伊坂さんはそのどちらでもない。実家の住所も、お話やの住所も伝えていない。お互いに知っているのは、名前だけのはずだった。
茶封筒にも手紙にも、伊坂さんの住所は書かれていない。もう連絡を取り合うことはない。その決意が見えるようだった。
私は透明フィルムを引き寄せた。中に入っているのは、ネックレスだ。不器用なほど、簡単に包装されたそれを取り出す。
「きれい……」
ネックレスのチェーンをつまんで、目の前にかかげる。
星の形をしたトップには、パールが上品に施されている。スタープリンセスを意識したのはすぐにわかった。シンプルなデザインなのに、どこか独創的な形をしてる。私のために選んでくれたんだろうと、嘘でも信じたくなるネックレスだった。
立ち上がると、店内に進んだ。
壁に取り付けられた鏡の前に立ち、ネックレスをはめる。
似合うのかは、正直よくわからなかった。アクセサリーはあまり好んでつけない。どれだけ飾っても、中身のない私が魅力的に映ることはないだろう。
すぐにネックレスはブラウスの中へ隠した。ちょっと恥ずかしかった。はじめて男性からプレゼントをもらったからか、戸惑いの方が大きかった。
私は伊坂さんが好きだっただろうか。そう考えて、ちょっと首を振る。
なんとなく気になる存在ではあったが、やはり恋ではない。偶然出会って、少し話をしただけ。お話やを利用するお客様とたいした違いはないだろう。
伊坂さんの手紙をスタープリンセスに挟んで、カウンターの下へ戻した。店内に並べることはない。書籍コーナーのスタープリンセスは、表紙のないもののままでいい。
彼から送られてきたこの本は、大切に部屋へ飾ろう。彼の心を、誰にも触れられない場所に置いておこうと思った。
茶封筒の存在を思い出したのは、あれから一週間が経とうとする金曜日のことだった。
今週は忙しくしていた。
お話やはゴミ捨て場じゃないのに、と思ってしまうぐらい、珠美が荷物を運び込んでくる上、それを聞きつけた秋乃さんがちゃっかり使えそうなものをもらいに来たのだ。
それでも、そのおかげで珠美の部屋はすっかり綺麗になったと、感謝の電話が理恵子からかかってきたのは、今朝のことだった。
落ち着いてカウンターに腰を下ろすのは、久しぶりだ。ゆっくり腰を落ち着けて、辺りを見回した時、茶封筒が目に入った。
すっかり忘れていた。すぐにカウンター下に置いていたスタープリンセスの本と茶封筒を取り出す。
改訂前のスタープリンセスはハードカバーの単行本だ。表紙には、散りばめられたいくつもの星の中に可愛らしいお姫様のイラストが描かれている。
「懐かしい」
最後に表紙を見てから、何年経っただろう。
あれは、忘れもしない小学四年生の時だった。大好きなスタープリンセスを、私は毎日学校へ持っていっていた。
友だちの少なかった私は、休み時間にはいつもスタープリンセスを読んでいた。繰り返し繰り返し、何度も読んだ。暗記してしまうぐらい。
私もいつか優しい王子様に出会えるかな、と、あの頃の純粋な私は夢見ていた。
そんな私に、クラスメイトの男の子とちょっとしたトラブルが起きた。
名前はもう覚えていない。席が近くになったこともない。ただムードメーカー的な存在の活発な男の子だったことは覚えている。
あまりしゃべったこともなかったのに、いつの頃からか、その男の子は私にそっけない態度を取るようになっていた。私は内向的で、その態度を受け入れることも、否定することもできない子どもだった。
だから、夏休み前の終業式の日、あの男の子がからかわれているのを見ても、ドアの陰に隠れることしかできずにいた。
『日高が好きなんだろー』
『告っちゃえよ』
『そんなんじゃねーよ』
『すーき。すーき。日高がすーき』
私を好きなんだろと問われたあの男の子は否定したのに、クラスメイトの何人かが大合唱を始めた。
『好きじゃないって言ってんだろ』
あの男の子が怒ると、別の男の子が私の机に引っかけてあった袋から、本を取り出した。スタープリンセスだった。
その男の子はスタープリンセスをつまんで、目の前で揺らした。
『好きじゃないなら、破ってみせろよ』
『そんなんできねーよ』
『やっぱり日高が好きなんだろ。ネクラなネクラな日高がさー』
『やめろよ』
あの男の子は本を奪い取った。私には、本を守ってくれたように見えた。
だから足を踏み出してしまった。上靴のつま先がドアを蹴った。ドンッという大きな音が響いた。
教室の中にいた、数名の男の子の視線が私に集まった。びっくりして身を縮こませた。誰かに見られるだけでも、とても恥ずかしかった。
『告っちゃえよ』
また誰かがそう言った。
私はうつむけていた顔をあげた。あの男の子と目が合った。
すると、彼は顔を真っ赤にしてスタープリンセスの表紙をはぎ取った。そして無言のまま、粉々になるぐらい、何回も何回も重ねて破り捨てた。
教室の中はシンッと静まりかえった。そして、彼は表紙のかけらを握りしめ、ゴミ箱に放り込むと教室を飛び出していった。
私も無言で、表紙を失ったスタープリンセスを抱きしめた。クラスメイトの男の子は『やべーよ』と叫びながら、教室を出ていった。
そして、その日からあの男の子は一度も学校に来ることはなかった。
二学期が始まり、担任の先生からあの男の子が引っ越したことを聞かされた。
私がクラスメイトにからかわれるネクラな日高じゃなかったら、彼が傷つくこともなかっただろう。
怒ってないよって言ってあげられなくてごめんね、と思っていた。今でもずっと思っている。だから私は、表紙のない本を大切にしているのかもしれない。
「ほんと懐かしいな」
スタープリンセスの表紙をなでて、カウンターに置く。そして、茶封筒を手もとに寄せる。
袋をつぶそうとして、小さなふくらみに気づいた。まだ何か入っているみたいだった。
茶封筒の中をのぞくと、透明フィルムの袋が見えた。それを取り出すと同時に、一枚の便箋が出てくる。
半分に折られただけのそれを開く。それは、サクラ柄のとてもかわいらしい便箋だった。
長い文面が目に飛び込んでくる。せいいっぱい綺麗に書いたのだろうと、誠実さの感じられるぎこちない文字が並んでいる。男の人の文字だということは、ひとめでわかった。
_______
日高幸子さんへ
最初に日高さんに謝らなければなりません。ごめんなさい。
はじめてお会いした日、日高さんはスタープリンセスの改訂版を購入されていましたね。
改訂前の本はないのかと調べましたら、たまたまネットオークションに出品されていました。とても好きな本のようでしたので、送らせていただきます。
カフェでお茶をしましょうとお誘いしましたが、どうしても都合がつかず、行けなくなりました。
日高さんはとても誠実な方のようですので、今でも俺を待っているのではないかと気がかりです。もうお目にかかることはできませんが、日高さんにお会いできてよかったと思っています。
お詫びといってはなんですが、ネックレスを同封しました。日高さんに似合うと思います。
それでは。
三月十日 伊坂久史より
_______
ああ……と小さなため息が心の中に漏れた。
伊坂さんにはもう会えないのだという思いと、何か期待していたのだろうかという恥ずかしさからのものだった。
便箋をたたんで、茶封筒の消印を確認した。消印は、三月十七日になっている。手紙を書いてから出すまで一週間かかっている。
レジ横に置いてあるスケジュール帳を開く。伊坂さんとカフェでお茶する約束をしていたのは三月十二日だった。内容からすると、十日には約束が守れないとわかっていたみたいだった。
あの日、私はカフェ・ド・シュシュの前で伊坂さんをずっと待っていた。一時間……二時間と経ち、何かあったかもしれないと心配しつつ、からかわれたかもしれないと、同時に思っていた。
でも違った。伊坂さんはこうして、きちんと手紙をくれていた。数回偶然出会って、少しお話をしただけだったが、やっぱり優しい人だったとわかっただけでじゅうぶんだろう。
カレンダーに視線を移す。今はもう六月。三ヶ月も珠美の部屋に置かれていたようだ。
少し影のある物静かな様子の伊坂さんの姿を思い浮かべた。しかし、彼はどうして私の住所を知っていたのだろう。
珠美の暮らす家は、私の生まれ育った家だ。学生時代の友人は、たまに実家へ手紙を寄越すが、新しく知り合った人にはお話やの住所を伝えている。
伊坂さんはそのどちらでもない。実家の住所も、お話やの住所も伝えていない。お互いに知っているのは、名前だけのはずだった。
茶封筒にも手紙にも、伊坂さんの住所は書かれていない。もう連絡を取り合うことはない。その決意が見えるようだった。
私は透明フィルムを引き寄せた。中に入っているのは、ネックレスだ。不器用なほど、簡単に包装されたそれを取り出す。
「きれい……」
ネックレスのチェーンをつまんで、目の前にかかげる。
星の形をしたトップには、パールが上品に施されている。スタープリンセスを意識したのはすぐにわかった。シンプルなデザインなのに、どこか独創的な形をしてる。私のために選んでくれたんだろうと、嘘でも信じたくなるネックレスだった。
立ち上がると、店内に進んだ。
壁に取り付けられた鏡の前に立ち、ネックレスをはめる。
似合うのかは、正直よくわからなかった。アクセサリーはあまり好んでつけない。どれだけ飾っても、中身のない私が魅力的に映ることはないだろう。
すぐにネックレスはブラウスの中へ隠した。ちょっと恥ずかしかった。はじめて男性からプレゼントをもらったからか、戸惑いの方が大きかった。
私は伊坂さんが好きだっただろうか。そう考えて、ちょっと首を振る。
なんとなく気になる存在ではあったが、やはり恋ではない。偶然出会って、少し話をしただけ。お話やを利用するお客様とたいした違いはないだろう。
伊坂さんの手紙をスタープリンセスに挟んで、カウンターの下へ戻した。店内に並べることはない。書籍コーナーのスタープリンセスは、表紙のないもののままでいい。
彼から送られてきたこの本は、大切に部屋へ飾ろう。彼の心を、誰にも触れられない場所に置いておこうと思った。
