おしゃべりな雑貨店でティータイムを

***


「なかなかお礼も言えず、すみませんでした」

 店へ顔を出すなり、久保さんは謝罪した。洋菓子を届けたことを言ってるのだろう。

「たまたま秋乃さんからお預かりしただけですから。……そういえば、アルバイトの子……沼田さんでしたっけ? 一生懸命お仕事されてましたよ」
「そうですか。それはよかった。留守番を頼んだら不安そうだったので、心配してたんですよ」
「久保さんを頼りにしてるんですよ」

 にこっと微笑んで、カウンターへ案内する。グラスにお水を注ぐと、彼は代金を払うからと、アイスコーヒーを注文した。

「秋乃さんにいただいたマフィン、食べます?」
「ええ、ぜひ。俺がもらったお菓子は、沼田くんにあげてしまいました」
「賞味期限は近いですが、美味しいですよ」
「捨ててしまうのはもったいないですよね」

 久保さんの視線が私の耳もとに移る。

 今日は久保さんに会う特別な日だったから、アジサイのイヤリングをはめた。だけど彼は、捨てるのはもったいないからはめてると思ったのかもしれない。

「イヤリングは慣れなくて、長い時間ははめられないんですけど」
「痛いようでしたらバネの調整しますので、近いうちにうちの店に来てください」
「調整、できるんですね。姉が、そんなの時々場所変えてはめればいいのよって言ってたので……」
「お姉さんらしい言い方ですね」

 久保さんはくすくす笑う。職人の彼から見たら、さぞかし珠美は豪快に見えるのだろう。

「今日はどんな話をしましょうか?」

 マフィンとアイスコーヒーをカウンターに置いて尋ねた。

 先週はどんな話をしていただろう。私の話ばかりで、彼の話はろくに聞いていないかもしれない。

「実は、好きな女性がいるんです」

 久保さんは突然、耳を疑うような発言をした。

 私はすぐに返事ができず、真摯な目を向けてくる彼から目をそらしていた。ひどく動揺している。バクバクと波打つ胸元に手を当てた。

「いや、違うかな。好きだと認めていいのか迷ってる女性がいるんです」

 どちらにしろ、好きに変わりはない。なんのなぐさめにもならない訂正に、私はますます途方にくれた。

「驚いてますか?」
「あ、いいえ。好きな人がいても不思議じゃないですから」
「日高さんはいないんですよね?」
「ええ、私は」
「ネックレスをプレゼントしてくれた彼は、好きではないんですか?」
「好きになれるほど、知らない人なんです」

 それは事実だった。

 もし、一緒にカフェへ行き、何回も会っていたら、好きになったかもしれない。でもそれは仮定の話だ。

 伊坂さんを好きになることはなく、彼とは会えなくなった。それが現実だ。

「好きだと認めていいのかわからない男性ではないんですか?」

 久保さんと同じように?

 私が伊坂さんを好きでいるのは明白なのに、認めていないだけだというのだろうか。

「……違うと思います」

 悩んだ挙句に出した答えは、否定だった。

「いい人だったし、話しやすい方だったけど、好きとは違うと思います」

 小学生の時からそうではなかったか。

 クラスのムードメーカーだった彼を好ましく思いながら遠くから見ていた私が、彼に好きだという感情を持っていなかったのと同じ。

「恋は、されないんですか?」
「はい……。あんまりいい思い出もないので」

 好きだと言われて付き合った男性はいた。彼を好きだったかはわからない。彼と過ごす時間は楽しかった。でも、それはもしかしたら、友人として付き合っていても楽しい時間を過ごせたかもしれない程度の思いだった。

 一緒にいるだけで幸せだなんて十代の恋は私にはなかったし、これから先もないだろう。恋の経験で得たものは、わずかなことだけ。期待しないことだけは、覚えてしまった。

「俺の好きな人は、弟が好きになった人なんです」

 うつむいていた私は顔を上げた。

 カウンター越しに、久保さんと見つめ合う。彼はやけに落ち着いていた。冷静すぎるぐらい。

「最初は好奇心でした。好きな人の話を弟が俺にするなんて意外だったので、どんな女性だろうと会いに行ったんです」
「興味本位だったっていうんですか?」
「そうです。弟にも、興味があったんです。どんな女性を好きになったんだろうって、気になりました」

 好きな人の話をするぐらいなのだから、信頼関係のある兄弟なのだろう。だけど、どこか距離があるようにも感じる。男兄弟というのは、そういうものだろうか。

「素敵な女性なんですね」

 弟さんだけでなく、久保さんまで惹きつけてしまうほどの魅力のある女性なんだろう。

 どんな人だろう。気になったけど、とても聞ける気はしない。ううん。できれば、聞きたくない。

「とても、いい人なんです」

 久保さんは少しだけ目を細めてほほえんだ。

 やだな。胸が苦しい。

 少し目をそらして、グラスの水をひと口飲んだ。それでも全然落ち着かなかった。

「弟が、内面の綺麗な女性を選んだことを、とても嬉しく思いました」
「久保さんは、心に惹かれたんですね……?」
「はい。何度か会ううちに、好きになってるんじゃないかと思うようになりました。ただ、俺が好きになってよかったのか、悩んでるんですよ」

 本当に悩んでいるのだろうか。そう思えるほど、彼の言葉には清々しさがある。

 心は決まっているのだろう。ただ少しばかり勇気がないだけで。いや、弟さんに申し訳なく思っているだけかもしれない。

 その裏返しの思いは、絶対的な自信だろう。その女性が、弟さんではなく、久保さんを選ぶだろうという自信。

「思いを告げてもいいと思いますか?」

 それが本題だとばかりに、彼は私に尋ねる。そんなこと、私では決められないのに。

「相手の女性は、久保さんに好意があるんでしょうか」

 まずそれを確かめてからでも遅くないのではないか。

 告白されたからと付き合う女性もいる。かつての私もその一人だった。もしかしたら、彼女は弟さんを好きでいるかもしれないのに、先に告白したもの勝ちみたいなのは、何か違うと思った。

「弟のことは、好きじゃないと言ってました」

 思いがけない即答に、私は身をすくませた。相手の気持ちを確かめるという、私でも思いつくようなことはすでに実行済みなのだ。

「弟さんは、それを?」
「知りません。知ることもないと思います」
「弟さんはその方を諦めたんですか?」
「弟は彼女に告白したんです。でもその気持ちがどの程度伝わったのかまではわかりません」

 ストレートな告白ではなかったのだろうか。だとしたら、久保さんが真っ向から告白するのは、フェアではない気はする。

 でも、恋のかけひきに、フェアというものはないのだろう。私がただちょっと、嫌な気持ちになってしまうだけだ。誰もが納得する恋の結末なんて、きっとない。

「久保さんが悩む理由なんてないように思います」

 私が彼の恋話(こいばな)を聞く理由もない気がした。

「少し、気になることがあるんです」
「まだ何かあるんですか?」

 久保さんは静かにうなずく。

「アクセサリーを……」
「アクセサリー?」

 彼はほんの少し言いよどんで、私の耳もとで揺れるアジサイのイヤリングを注視した。

「彼女に、イヤリングを作ってプレゼントしたんです。でもそれは申し訳程度にしかつけてくれず、弟がプレゼントしたネックレスを毎日つけています。本当は、彼女も弟が好きなんじゃないかと思ってしまうんです」
「……私は、違います」

 状況が私と酷似しているように思えて、思わず、否定してしまった。

「ごめんなさい。私の話なんか、聞いてませんよね。ただ、私の行動が誰かに誤解されることもあるのかもと思ってしまって。アクセサリーをつけるのは、気分もあると思うので、そんなに悲観されることもないと思います」

 そんなこと、私に言われなくてもわかっているだろう。釈迦に説法みたいで恥ずかしい。

「イヤリングより、ネックレスが好きなだけかもしれないですね」
「はい、そう思います。あとは、デザインに思い入れがあるかどうか……」
「なるほど。わかりました」

 久保さんはほがらかに微笑んだ後、私をじっと見つめた。

「もう一つ、悩んでることがあるんです」
「まだ……何か?」
「俺は彼女に大事なことを隠しています」
「話せない理由でもあるんですか?」
「真実は、伝えたくないと思ってもいます。だけど、俺の恋人になってくれるなら、伝えないわけにもいきません。いずれ、知られてしまうことなので」
「恋人にならないなら、話さない方がいいと思ってるんですか?」

 どんな真実なのだろう。
 知るのが怖い。
 私でさえそう思うのだから、当事者の彼女は真実を知ったとき、どう思うのだろう。

「彼女には、傷ついて欲しくないんです」

 ハッと小さく息を飲む。特定の誰かに向けられた久保さんの優しさを目の当たりにしたら、胸の中に敗北感が広がった。

「そんなに……好きなんですね」
「自分でも不思議なぐらい、彼女のことを考えてしまいます」
「じゃあ……」

 私は久保さんの目を見た。

 彼の気持ちが真剣なものなら、私も向き合わなければいけないと思った。逃げたらいけないと。

「その方に、真実を話した方がいいと思います」
「どうしてそう思うんですか?」

 久保さんは穏やかだった。私ならそう助言するとわかっていたみたいに。

「どんな真実でも、心を許せる相手に隠しごとはよくないと思うんです」

 彼はひとつ、小さくうなずいた。

「私は、亡き母に真実を話して欲しかったと思っています」
「お母さんですか?」
「……母は生前、思いもよらないことを言いました。父を恨んでるって」

 ぴくりと眉を上げた久保さんは、大丈夫だよ、というように、黙って私の話に耳を傾けた。

「仲の良い夫婦でしたから、父との不仲なんて信じられなかったんです。姉は、虫の居所が悪くてちょっと愚痴を言っただけじゃないかって言ってたんですけど、本当にその程度の気持ちだったのかはわかりません。私が母の負担になってたんじゃないのか。ストレスから父に不満を持つようになってたんじゃないのか。いろいろ考えてしまうんです」
「どうして日高さんが負担になるんですか?」
「私は……何にも続かないさっちゃん、だからです」

 長女の理恵子は器用だった。何をやらせても優等生だった。次女の珠美は優秀な姉のようにはできないと、はっきり言える子どもだった。母は私に期待しなかったが、期待できないぐらい要領の悪い子どもだった。

「中途半端な子どもなんです」
「お母さんがそう言ってたんですか?」
「言いはしません。でも、そう思ってたと思います」
「そんなことわからないでしょう?」
「そうですね。母が生きているうちに、もっと腹を割って話しておけばよかったと後悔しています」

 だから、久保さんも好きな人には正直でいてほしい。大切に思う相手だからこそ、傷つけるかもしれない真実だとしても、話してあげてほしい。

「死んでしまってからでは遅いんです。生きているうちに、伝えなきゃいけないことってあると思います」

 母が父をどう思っていたのか。もう知ることはできない。私は想像するだけだ。むなしい想像が、これから先ずっと続く。

 久保さんが彼女を苦しめないためと伝えないことに、彼女はずっと苦しむかもしれない。

「ありがとうございます。日高さんはやっぱり、いい人ですね」

 久保さんはにっこりとほほえむと、ポケットから財布を取り出す。

 帰るんだろうか、と腰を浮かしかけると、財布から出てきたのは一枚の写真だった。

「弟の写真です」

 そう言って、久保さんはカウンターにそれを乗せた。

 クボックの前で、穏やかにほほえむふたりの男性が、そこには写し出されていた。とても雰囲気の似た兄弟だった。

 なぜ気づかなかったのだろうと、私は思った。

「弟の名前は、伊坂久史と言います」

 写真には、確かに伊坂さんが写っていた。
 私の知る、伊坂さんが。

「久史は死にました。その真実を伝えなければいけないと、日高さんを探しました。あなたに何度か会ううちに、話さない方がいいのかもしれないと思うようになり、伝えるのが遅くなってしまいました。申し訳ありませんでした」

 顔を強張らせた久保さんは、カウンターに両手をついて、深々と頭を下げた。

 私はただ、ぼんやりと彼を見つめるしかできなかった。