おしゃべりな雑貨店でティータイムを

「お母さんね、お父さんを恨んでるの」

 重たい言葉には似つかわしくない笑顔で母がそう言ったのを、二年経った今でもはっきりと覚えている。

 娘の私には受け止めきれない感情が、病床につく母から語られたのは、死が近いことを予見していたからだろう。

 私はただ、黙って聞いていた。同調やなぐさめを、彼女は求めていない。もちろん、反論なんてありえない。

 私にとってはとても優しい父だったが、母にとっては違った。妻と娘という違う立場からは、同じ男がまったく別の生き物に見える。それだけだ。だけど、今でも思うことがある。

「どうして恨むようになったのか聞かせてよ」

 そう語りかけていたら、母は心を開いてくれただろうか。

 結局、尋ねることができないまま、母とは永遠の別れを迎えてしまった。

 今更もう、遅いかもしれない。それでも、母の悩みに踏み込む勇気のなかったこんな私でも、まだできることがあるんじゃないか。

 そう信じて、母が残したこの場所で、誰かの話に耳を傾けようと決めたのだ。





 昨夜の雨はすっかり上がり、濡れた石畳の路面も朝日を受けて、きらきらと光っていた。

 思いがけない春の嵐で、ギーコギーコと看板が大きく揺れる音に不安を抱いていたが、確認してみると、普段通り、『お(はなし)や』と書かれた銅板は、誇らしげに店先にかかっていた。

 下町商店街の一角に、私の店はある。二年前、亡き母が営んでいた喫茶店を改装し、雑貨店を始めた。

 お話やという店名は、私が考えた。おしゃべりが得意ではない私にしては、思い切った命名だったが、それなりに気に入っている。

 カウンターに腰かけ、釣り銭をレジに補充していると、ふと店先に陰がさした。開けっぱなしの引き戸の奥に黒いシルエットが立っている。

 お話やの客層は高校生から主婦といった女性がほとんどだが、今日は珍しい。朝日を受けて浮かび上がるシルエットは、どう見ても若い青年だった。

「すみません。もう、空いてますか?」

 落ち着いた男の人の声がカウンターまで届いた。

「はい。空いてますよ。どうぞ」

 時刻はちょうど十時。普段、開店と同時に客が来るほど繁盛していないが、商店街の先には八福寺(はちふくじ)という古びたお寺があり、参拝客が立ち寄ることもある。青年もおそらく、たまたま見かけて入ってみたくなったのだろう。

 中へ入ってきた青年は、まずは洋菓子コーナーの前で足を止めた。入り口の一番目立つ場所にあるから、誰もがそこでいったん足を止める。

 彼は手のひらサイズのクッキーをひとつ持ち上げ、ひっくり返す。原材料や製造元を確認しているようだ。それは三軒隣の洋菓子店から仕入れている看板商品だった。しかし、すぐに彼は興味を失ったように元に戻すと、右奥へ進んだ。

 カウンターの右側には、雑貨が並んでいる。文房具や写真立て、日常使いできるものからお祝い事に選ばれやすいものまでさまざまだ。どれも女性向きのデザインが多く、青年がそれらを手に取る気配はなかった。

 次に彼はカウンターを横切り、左手奥に進んだ。そこは、書籍コーナーになっている。彼は天井まで高く設置された本棚を、これでもかというほど首をあげ、一冊一冊、じっくりと眺めている。本にはかなり興味があるようだ。

 私は改めて、青年を眺めた。清潔感のある短髪、白シャツの上にジャケットを羽織り、ジーパン姿。垢抜けているから若く見えるが、学生のようには見えない。二十代後半といったところだろう。

「あっ……」

 声にならない小さな声を、彼はあげた。息を飲んだ。そう表現した方がいいかもしれない。私が彼を注視していたから気づいた。その程度の小さな反応だった。

 青年はすぐに本棚から離れると、明らかに目的のある足取りでカウンターまでやってきた。

「やっと見つけました。話を買ってくれる店は、こちらですよね?」

 藪から棒に言った彼は、私の返事を待たずに、カウンターの上にある小さな箱に視線を落とした。

 その箱は木製の貯金箱だった。もともとは売り物として入荷したものだったが、蓋が壊れてしまい、今はポップを貼り付ける土台として使っている。

「お話をご希望でしたか?」
「一話千円……って書いてありますね」

 青年が先ほどから目を離さないでいるポップには、『お話や 一話千円 お気軽にどうぞ』と書かれている。私が工作して作った手書きのポップだ。

「はい。そちらのお値段で、お話を聞かせてもらってます」
「相談に乗ってもらえるんですよね?」

 やはり、彼はたいていの客が口にする質問をした。

「よく勘違いされがちなんですが、相談とは違うんです。うちはご覧の通り雑貨屋なんですが、カフェのようにご利用くださるお客さまもいらして、私がお悩みを聞かせていただくこともあるんです」

 お話やの利用客は、馴染みの客がほとんどだ。挨拶ついでに愚痴のような小さな悩みを話していく人が多い。

「悩みは聞いてくれても、解決してくれないのか」

 ひとりごとのように青年はつぶやいて、ようやくポップから目を離してこちらを見た。

 その穏やかで優しい目と、不覚にも視線が交わったとき、ふいに落ち着かない気分になった。初対面のはずなのに、ずっと前からこの目は私を知っている……そんな錯覚を起こさせるまなざしをしていた。

「どこまでの話を聞いてくれるんですか?」
「ご家族やご友人には話せないようなことも。たまにありますよね」
「守秘義務を負うのに千円では安すぎませんか?」
「お値段に見合ったお話をみなさんされますので」

 今のところ、大きなトラブルはないのだと伝えると、彼は考え込むように沈黙した。

「初回のみ、ドリンクをサービスしています」

 付け足すように説明した。損した気分にならないようにだけは心がけている。もちろん、飲食の提供は、初めて話す相手にリラックスしてもらう意図もあった。

「二回目以降も千円ですか?」
「一話千円ですから。つながりのあるお話でしたら、何回来ていただいても千円です」
「……わかりました」

 物好きを見るような目を彼は一瞬見せたが、静かにうなずいて、小さく頭を下げた。

「また、来ます」
「いつでも、どうぞ」

 たいていの客は戻らないと知りながら、いつものように、決まり文句で青年を店先まで案内した。

 私は期待したことがない。解決してくれない他人に悩みを話す人なんて、そうそういないと知っているからだ。

 しかし、小さくなる青年の背中を見送りながら、彼とはまた会うような予感がしていた。どこにでもいる平凡な日高幸子(ひだかさちこ)という女性に、彼は会いにきた。そう思えてならなかった。